温かい浸透圧


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 恋をしたのは久しぶりだ。
 放課後、まっすぐに家に帰らずにあてもなくブラブラ歩きながら、北見はそんなことを思っていた。
 見上げる空は、腹が立つほどの五月晴れ。
 知子は今頃、彼氏と楽しいデートをしているのかな、なんて思い、そしたら胸が激しく痛んだ。
 その痛む胸の上に、そっと手をあてる。
「なんかヤケに切ないじゃん?」
 恋をして、こんなに切ない想いをするのは初めてだった。
 にも関わらず、そんなに嫌な気分じゃない。
 辛くて苦しいはずなのに、知子のことを考えるだけでこんなにも胸が躍る。心が幸せで満たされる。
 知子のことが好きだなぁ、と北見は思った。
「知ちゃん、笑ってるかな?」
 自分といる時は、いつも怒った顔ばかりしている知子。今は笑っているのだろうか? 彼氏と久しぶりのデートして、幸せそうに笑っているのだろうか?
 そうだといいな、と北見は思った。
 好きな人には、いつだって笑っていて欲しい。
 そんなことを思う自分をいいやつだなぁと思って小さく笑い、するとまた切なさがこみ上げてきて、北見は足元の小石をコンと軽く蹴った。
 ころころ転がる小石を、なんの気なしに目で追ってみる。
 その小石が、誰かの足にコツンと当たって止まった。これまたなんの気なしに、その足の持ち主の顔に目を向ける。
「―――――あ」
 思わず声を上げたのと同時に、うつむいていた相手が顔を上げた。そして、少し怒ったような顔で北見を見る。  知子だった。
 がっくりと落ちた肩。目には薄っすらと涙が浮かんでいる。
 感は鈍い方ではない。いや、むしろ鋭い方である。それに、大まかな事情は小百合から聞いて知っている。
 だから北見は、彼氏とデートをしているはずの知子が、なぜか一人でベンチに座っていて、更には泣いている姿を見て、彼女の身になにが起こったのかをほぼ正確に推理することができた。きっと、デートが上手くいかなかったに違いない。下手をすると………。
 色々なことを頭にめぐらせながらも、しかし北見はなにも気づいていないフリをして、いつもの明るく爽やかな笑顔を知子に向けたのである。
「あれ、知ちゃん。こんなところで会うなんて偶然! やっぱりこれって運命かな?」


 駅前の片隅、大きな街路樹の周りに円形に設置されたベンチに座る知子は、足元を見つめながら十分前のことを思い出していた。
「俺、新しい彼女できたから」
 自分の横に立つ女の子を視線で指しながら、達也は淡々と言った。
「学校も離れちまったし、共通の話題もないし、俺たち付き合い続けてもうまくいかないことは目に見えてる。俺は自分に合う子を見つけた。だらか、おまえもそうしろよ」
 それだけ言うと、達也は新しい彼女の肩に手をかけ、すぐにその場を立ち去ってしまったのである。
 時間にして、わずか一分ほどの達也との再会。そして、突然の別れ。
 なにも言えずに、ただ黙って二人の後ろ姿を知子が見つめていると、達也の隣を歩いていた彼女が、一度だけ知子を心配そうに振り返った。その顔には知子に対する気づかいの気持ちと罪悪感の色が浮かんでいて、それを見た知子は思った。
 ああ、優しい子なんだな。達也は素敵な彼女をみつけたんだな、と。
 そう思うと、なんだかホッとした。
 でも、フラれたのにホッとするなんて、なにかおかしい。
 達也たちの姿が雑踏に紛れて完全に見えなくなると、知子はトボトボとベンチまで歩き、脱力したようにそこに腰を下ろした。
 空を見上げ、大きな溜息を一つつく。
 実を言うと、早かれ遅かれ、こういうことになるんじゃないかとは思っていたのだ。だからかもしれないが、そう悲しくはなかったし、取り乱したりすることもなかった。
 それどころか、一粒の涙さえも出てこない。
 二年間も付き合った彼氏から突然別れを突きつけられたにも関わらず、自分の目からは涙が流れない。そして、泣けない理由も知子にはちゃんと分かっていた。
 一つには、こうなることの予感が、既に知子の中にあったから。そして、もう一つには………。
 毎日毎日少しずつではあるが、知子の中に浸透してきた人がいる。
 何気ない言葉や仕草。おちゃらけているようで、ともすればバカにしているかに見えるその態度は、実は知子に対してすべて温かく優しかった。
「……なによ、なんなのよ」
 彼氏にフラれたばかりなのに、もう別の男のことを考えている自分がいる。それが知子にはたまらなく嫌だった。頭をブンブン振り、達也との楽しかった二年間に思いを馳せようと努力する。
 でも、ダメだった。
 どんなにがんばっても、知子の頭には達也ではなく、明るい笑顔した別の少年の顔しか浮かんでこない。
「もう、ホント、あたしってサイテー」
 そんな自分が大嫌いで、考えていると涙が出てきた。
 自分はやっぱり、北見のことが好きなのだろうか? だから達也にフラれたのに、さほど悲しくないのだろうか? 北見の笑顔ばかりが頭に浮かんでくるのだろうか?
 だとしたら、やっぱり自分は底なしの最低女だと知子は思った。
 そんなことを思って落ち込んでいる知子の足に、どこかからか転がってきた小石がコツンと当たった。
 ふと知子は顔を上げる。
「あれ、知ちゃん。こんなところで会うなんて偶然。やっぱりこれって運命かな?」
 笑顔の北見の姿がそこにあった。
 ビックリした。
 と同時に嬉しくもあり、そう思ってしまった自分に対する嫌悪感が、また心の中に広がった。なんて心の醜い人間なんだろうと、そう思った。
「……………」
「あれ? なんだか微妙に嫌そうな顔」
「微妙じゃありませんよ。思いっきり嫌そうな顔をしてるんです!」
 北見には、なぜか憎まれ口をたたかずにはいられない知子である。ここ一ヶ月の間に、それは条件反射のようになってしまっていた。
 そんな知子の態度に北見も慣れたもので、それを意に介した様子はまったく見せない。にこにこしながら当たり前のように知子の隣に腰を下ろすと、ずーずーしくも肩に腕をかけてきた。
「な…ちょっと、なにするんですか?!」
 ビックリしながらも、知子は北見の手を邪険に振り払った。しかし、顔はつい赤くなってしまう。
 ちぇっ、と北見は頬をふくらました。
「もう、本当に知ちゃんは冷たいなぁ。俺がこんなに愛しちゃってるっていうのにぃ」
 いつもの軽いノリで北見は「愛しちゃってる」なんて言ったのだろうが、それを聞いた知子は冷静ではいられない。
 たった今、自分の北見に対する気持ちを自問自答し、そして、好きなのかもしれないという答えを出したばかりなのだ。
 薄っすらと赤かった顔が、さらに火がついたように真っ赤になってしまった。
「バ、バカじゃないんですか。高校生のくせに愛しちゃってるなんて! そういう言葉は軽々しく言わないものですよ!!」
 赤くなった顔をごまかすため、ムキになってにらみながら知子が言うと、北見は不思議そうに首をかしげた。
「なんで? 高校生だってなんだって、愛してるものは愛してるんだもの。俺、本気だよ。知ちゃんのためなら、どんなことだってできる自信がある」
 かっこいい男の子からこんなことを言われたら、女の子は誰だってグッときてしまう。
 しかし、知子は必死になって、フワフワ舞い踊ってしまいそうになる自分の心をおさえつけようとした。
 北見の言葉にときめいている場合ではない。だって、自分はたった今彼氏と別れたばかりなのだから。しかも、別れることに至った原因は、すべて自分が作ったものなのだから。
 達也には本当に悪いことをした。きっと、すごく心を傷つけてしまったのだと思う。
 もっと自分は反省しなければならない。せめて今日一日だけでも、達也のために悲しい顔をしていたい。
 そんなことを考えてる知子に、北見が笑顔で声をかける。
「ねえねえ、なに難しい顔してるの? せっかく運命の神様の計らいでここで会うことができたんだからさ、そんな顔してないで二人でどっかに遊びに行こうよ」
 人の気も知らないで、と知子の怒りは募る。
 どうして、どうしてよりにもよってこんな時に北見に会ってしまったんだろう。北見にさえ会わなければ、もっと自分はしおらしい気持ちでいられたのに。達也との思い出を振り返り、悪かった自分の言動を反省して、もしかしたら達也のために泣くこともできたかもしれない。
 とにかく北見が全部悪いのだと、知子は自分にそう言い聞かせた。
 北見に対して怒りの気持ちを持っていたかった。意識的にそうでもしないと、好きな人と一緒にいられる喜びに、心が満たされてしまいそうだったから。
 だから知子は北見をにらみつけた。そして言う。
「部長、さっきあたしのためならどんなことだってできるって言いましたよね」
「うん、言ったよ。なにかして欲しいことある? 言ってみてよ」
 北見は相変わらずの笑顔である。そんな北見を横目でちらりと見ながら、知子は意地の悪い笑みを意識して浮かべた。
「ふーん、本当ですかぁ? 信じられないなぁ。だったら、たった今ここでわたしの足にキスできます? もちろん、地面に膝をつけてですよ?」
 内容はなんでも良かった。ただ無理難題をおしつけて、自分の言ったことを実行できない北見を見たかった。それを見ることで、北見を好きな自分の気持ちを薄れさせたかった。この人はしょせん口先だけのお調子者で、自分が好きになるほどの価値なんてこれっぽちもないと、そう自分に言い聞かせたかった。
「まあ、できるワケないでしょうね。どんなことでもできるなんて、ただのカッコ付けで言ったに過ぎないんでしょうから」
 チラリと見ると、北見はキョトンとした顔でジッと知子を見ていた。が、やがて言った。
「できるよ」
 そして、にっこり笑う。
「そんなこと朝飯前だよ」
 言うが早いか、北見は膝と両手を地面につけ、知子の靴の上にキスをしたのである。
「…………え?」
 知子が止める暇もなかった。というより、知子の体は驚愕のあまり硬直してしまい、頭の中は真っ白になった。
 そんな知子の足に、北見はキスし続ける。
 長い長いキス。
 駅前を行きかう多くの通行人が、ちらちらと二人を見ながら通り過ぎていく。その目に浮かんでいるは好奇心だけではなく、あきらかな嘲りを伴うものもある。
 しばらくして、やっと北見は口を靴から離した。そして、膝をついたまま上半身だけ起こし、知子の顔をのぞきこむようにして言う。
「ね、できただろう?」
 それを聞いて、やっと知子は我に返った。と言っても、また頭は混乱状態である。
「なっ、なにやってんですか! こ、こんな人の多いところで恥ずかしげもなく……プライドとかないんですか?! みんな見てますよ!」
 くすりと北見は笑った。
「プライドとか理性とか、そんなものあるワケないよ。だって、それが恋するってことだろう? 理性がはじけとんで、普通だったら絶対にやらないことを平気でしてしまう。それが恋するってことじゃないか? それが恋することの醍醐味だろう?」
 しばらく茫然と北見を見つめた後、知子の目から涙がこぼれた。
 だって、別に本気でそんなことをしてもらいたかったワケじゃないのだから。それに、そんなことを北見がするだなんて、思ってもみなかったのだから。
 達也に対するものとは比べ物にならないくらい、大きな罪悪感が知子の心をしめた。
「…ごめんなさい……部長、本当にごめんなさい」
 手で顔を覆う知子の指の間からとめどなく涙は流れ落ち、それが制服のスカートにシミを広げていく。
 自分は最低だ。泣きながら知子はそう思った。人の真剣な気持ちをもてあそんでしまった。しかも、自分勝手な自己中心的想いから。
 このまま死んでしまいたい。そう思うほど、自分が許せなかった。目からは涙、そして口からは嗚咽がこぼれる。
 このまま泣いて泣いて泣きまくったら、脱水症状で死ねないだろうか。
 そんなバカのことを知子が思っていた時、肩に温かな重みを感じた。顔から手をはずして横を見ると、いつの間に移動したのか、北見が少し困惑したような顔で隣に座っていた。肩の重みは北見の腕である。
「俺はさ、知ちゃん」
 よく晴れた空を見上げながら北見は言う。
「知ちゃんのことが大好きだから、だからいつでも笑っていてもらいたいと思う。でも、ごめんね。泣かせちゃったの俺だよね? 喜んでくれると思ったからあんなことしたんだけど、逆効果だったみたい。ホント、ごめん」
 それを聞いた知子の涙が、さらに勢いを増して流れ始める。
 違う。そうじゃない。
 北見が謝ることなんて、なに一つない。
 なぜなら、悪いのは全部自分なのだから。
「ち、違います。そうじゃありません。部長はなに一つ悪いことなんてありません。全部あたしが悪いんです!」
 それなのに、どうしてこの人はこんなに優しいんだろう。好きだと言ってくれるんだろう?
「部長、あたしには部長に好きになってもらう資格なんてありません。だって、あたしは最低なんだもの…うっ、ひっく」
 ああ、この人が好きだ。たまらなく好きだ。そう思いながら知子は泣いた。
 北見は困ったように頭をかく。
「う〜ん、今のその好きになってもらう資格がないって件はちょっと置いといて、取り合えず泣きやまない?」
 言うと北見はいたずらっぽく笑った。
「じゃないとさぁ、俺今ここで知ちゃんにキスしちゃうよ? 今度は唇にさ」
 えっ、と知子の目が大きく見開く。
「なっ、なに言ってるんですか?!」
 驚く知子におかまいなく、北見はその整った顔を知子の顔に近づけた。
「そうしたら、いくらなんでも知ちゃん泣きやんでくれるだろ? びっくりするやら恥ずかしいやらでさ」
 慌てて知子は北見から遠ざかった。
 こんな人の多いところでキス。普通なら考えられないが、でも北見ならやりかねない。
「だっ、だめです! そんなのダメに決まってるじゃないですか?!」
 知子の心臓がバクバクと破裂しそうなほど強く激しく脈動する。顔を蒼白にし、首をちぎれんばかりに横に振り続ける知子を見て、北見はくすりと笑った。
「ダメって言われたところで、はいそうですかって素直に従う人間じゃないんだけどね、俺は。でも、もうキスの必要ないみたいだね。知ちゃん、泣きやんでくれたみたいだからさ」
 はっとして、知子は自分の目に触れてみた。涙の後はまだ残っているが、確かに涙はとまっている。
「どう? 俺って魔法使いみたいだろ? キスするよって言っただけで、簡単に涙をとめることができるんだから」
 そこまで自慢げに言ったところで、ん? と北見は首を傾げた。
「あれ? でもこれってよく考えたら、それほど知ちゃんは俺からキスされたくなかったってことだよね? となると、ははは、全然自慢できるようなことじゃなかったかも。むしろ落ち込むところだな、これは。………あーあ、俺ショック」
 これ見よがしに肩を落とし、わざとらしく大きな溜息をつく北見を見て、思わず知子はくすりと笑った。そしてそれが、くすくす笑いへと変わる。
 いまだにガックリ肩を落とし、しょぼくれた表情をしている北見を見つめながら、本当に魔法使いみたいな人だ、と笑いながら知子はそう思ったのである。
 初めて会ったその日から、知子は北見に翻弄させられ続けてきた。入部テストのことを聞いて困惑し、好きだと告白されて驚愕し、恥ずかしげもなく「好きだ」と大声で叫ばれて憤慨し、今は涙をとめて知子に笑顔を取り戻させてくれた。
 あれほど迷惑に思っていたのに、いつの間にか好きにさせられていた。
「なんだよ、知ちゃん。こういう時は笑ってないで優しく慰めてくれるのが普通だろ? 俺、すっごく落ち込んでるんだからさー」
 拗ねたようにそう言いながらも、北見の表情には茶目っ気があり、本気で落ち込んでいるわけではないと知子には分かる。
 それを見てまた小さく笑うと、知子は真っ直ぐに北見に視線を向けた。
「あの、部長?」
「なになに? 慰めてくれるの?」
 顔を輝かせ、腰を深く曲げた北見が、知子の顔をのぞき込むようにしながら期待に満ちた目で見上げた。
「慰めになるかどうか分からないけど……」
 言うなら今しかない。
 知子はそう思った。
「あたし、部長のことが好きです」
 それを聞いた北見は、時間にして約二秒ほどなんの反応も見せなかった。が、その後、見ていた知子が驚いてしまうくらい顔を真っ赤にしたのである。
「…え? ………えぇっ?!」
 目を大きく見開き、口をパクパクさせながら、いかにも狼狽してますってな感じで知子を見つめる。
「どっ、どうしちゃったの、知ちゃん?! いきなりそんなこと……えぇっ?! 今言ったこと本当?! それとも俺の願望が生み出した妄想?!」
 慌てふためく北見の赤面につられたように、知子も顔を赤くした。ちょっと恥ずかしそうにうつむきながら、ゆっくりと首を振る。
「いいえ、妄想なんかじゃありません。本当です。あたし、部長のことが好きなんです」
 北見は何度か瞬きをすると、自分を落ち着かせるためか深呼吸を何度か繰り返した。そして、恐る恐るといった感じで知子に問う。
「それっていつから?」
「気づいたのはついさっき。でも、今までの自分を振り返ってみると、多分もうかなり前からあたしは部長のことが好きだったみたい」
 うつむいたまま知子は答えた。恥ずかしくて、北見の顔が見られない。
「彼氏がいたりとか、なんだか部長に屈するような気がするとか、そんな理由からなかなか素直になれなかったけど、でもあたし…」
 勇気を振り絞って知子は顔を上げた。そして、そのまま視線を北見に向ける。
「部長のことが好きなんです。本当です」
 言い終わると、知子はドキドキしながら北見の反応を待った。北見は赤い顔のまま、軽い放心状態におちいっているように見える。
「そうか。そうだったんだ……なんか、まだ信じられないよ。いや、知ちゃんが嘘を言ってるって意味じゃないよ? そうじゃなくて、あまりにもなんだか……なんて言ったらいいのか、そう、嬉しすぎて幸せすぎて」
 北見にしてみれば、ついっさき、この駅前で知子に会う寸前まで、自分は知子に嫌われているかもしれないな、なんてことを考えていたのである。
 好きだという気持ちを抑えられなくて、つい強引に迫りまくった。迷惑を省みず、一目顔を見たさに教室にまで押しかけた。
 恋をしたのは久し振りで、心が楽しくときめいて、知子に会えると思うだけで、それまで以上に学校に行くのが楽しくなった。世界がきらめいて見えた。
 意気込んで告白したものの、彼氏がいるからという理由であっさり断られてしまった。でも、あきらめきれなかった。あきらめたくなかった。本当に知子のことが好きだったし、せっかく生まれてきた自分の恋心とさよならするのも嫌だった。
「押せばいいってもんでもないでしょう? 昔から言うじゃない。押してダメなら引いてみなって」
 小百合からはそんなアドバイスをされたこともある。
 でも、駆け引きしたりするのは性分に合わなかったから、いつでもストレートに気持ちを知子に伝えてきた。そして、そのたびに知子から迷惑そうな顔をされてきた。
 北見だってバカじゃない。というか、どちらかというと賢い部類の人間である。だから、そんな迷惑そうな知子の顔を見て、「やっぱり無理かもしれない。知子には好きになってもらえないかもしれない。逆にこのまま迫り続けることにより、もっと嫌われてしまうだけなのかもしれない」と、心の奥底ではそう思っていたりもした。
 だから、本当に驚いてしまった。
 さっき、知子から好きだという告白を聞かされた時には、普段は機敏に動く脳が活動を停止してしまったかと思うくらい、一瞬なにも考えられなくなってしまったのである。
「信じてください。あたしは本当に部長が好きなんです」
 まだ少し頭を混乱させている北見に、知子が再度そう言ってくれた。好きだと言ってくれた。
「その………手、握ってもいい?」
 恐る恐る北見が問うと、知子はコクリとうなずいた。
 それを確認すると、北見は静かにそっと知子の手に触れた。その手から伝わってくる知子の体温が、今の状況が夢ではなく現実であるということを北見にやっと実感させた。
「なんだか俺、幸せすぎて恐いなぁ。昨日までだったら、きっと手を握らせてくれなんて頼んでも、ダメだって即答されてただろうね。しかも、思いっきり嫌な顔されて」
 苦笑しながら北見がそう言うと、知子もそれに苦い笑顔を返した。
「そうですね。きっと昨日までのあたしだったらそうしてたと思います」
「冷たかったもんな、知ちゃん」
「部長は強引すぎでしたよ」
 お互いにチラリと視線を合わせると、顔を寄せてクスリと笑い合った。
 こんなに晴れやかな気持ちになったのは久し振りだ、と知子は思った。まるで、深い霧がいっきに晴れ渡り、温かい太陽が体に降りそそぎはじめたような、そんな気持ち。
「さてと」
 そう呟いたかと思うと、北見がいきなり立ち上がった、そして、つないだままの手を引っ張り、知子をも立ち上がらせる。
「遊びに行こうよ!」
 とびっきりの笑顔で北見は言う。
「俺、知ちゃんの笑顔が大好きだからさ、もっともっと知ちゃんの笑顔が見たい。楽しそうにしている顔がみたい。そして、それを俺が作ってあげたい。だから、遊びに行こう!」
 ともすればキザだと思えるような甘ったるいセリフを、軽く明るく言えるあたりが北見である。
 知子も北見に合わせるように、とびっきりの笑顔で大きくうなずいた。
「はい。初デートですね?」
「うん、初デートだ」
 言うと、北見は知子の耳元に口を近づけて小声でささやいた。
「ついでに初めてのキス記念日にもしたいんだよね」
 思わず知子は真っ赤になる。
「そ、それはちょっと……。初めてのデートでキスなんて、あたしはそんなにお安くないです」
「俺とキスするのはイヤ?」
「イヤ……っていうワケじゃないですけど…」
 知子がもじもじしていると、いたずらっ子のような目をした北見が言った。
「だったらさ、こうしない? 今から二人でいっぱい遊んでいっぱい笑っていっぱい楽しい思いができるようなデートを俺がエスコートする。知ちゃんがそれを気に入ってくれて、本当に心から楽しいと思ってくれた場合、ご褒美にキスさせてくれない? 俺、がんばるからさ。ね、どう?」
 しばらく考えた末、知子はこう答えた。
「分かりました。その提案にのりましょう!」
「よーし、それじゃ行こう! 時間がもったいないや!」
 言うが早いか北見は走り出した。もちろん、知子の手をつないだまま。
 デートが気に入ればキス。
 気に入るかどうかの答えを、すでに知子は知っていた。
 だって、北見と一緒にいられるだけで楽しいのだ。話しているだけで自然と笑みがこぼれてくるほどに。
 それに、本当は知子だって北見とキスしたいと思っているのである。だって、北見のことが大好きなのだから。でも、そんなことを言うのは恥ずかしいから、女の子としての恥じらいも一応はあるわけだから、それは北見には内緒なのだけれど。

 だから、デートが終わって別れ際になった時、きっと二人はキスすることになる。
 北見に手を引かれて走りながら、そんなことを考えて知子は赤くなった。

 少しずつ少しずつ、自分でも気がつかない内に浸透してきた北見の想いや優しさ、そして、その存在。
 つないだ手からは同じように、北見の温もりが伝わってくる。
 その温かく心地よい浸透圧を感じながら、知子は北見の後を追い続けた。二度とこの手を離したくないと、そう思いながら。





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