温かい浸透圧


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 入部テストが始まってから三週間が過ぎた。
 初日には二十人以上いた入部希望者も、気がつけば半分以下にその数を減らしていた。九十点取れずに消えていった者もあれば、点数は取れているのにもかかわらず、放課後の部室に顔を出さなくなった者もある。
 そりゃそうだ。
 そもそも県立高梨高校は、この辺りではけっこう名の知れた進学校である。日々の授業のレベルは高く、どの教科をとってみても予習復習は欠かせない。そうしなければ、授業についていけなくなってしまう。
 それに、朝のショートホームルームでは、毎日なんかしらの小テストが行われる。それに八十点以上の点数がとれないと、放課後は居残り補習になってしまうし、内申点だって下げられてしまうのだ。
 中学でのゆったりした義務教育とは明らかに違う、高校でのスタディライフ。
 新入生一同にとって、この新しい生活にまだ慣れていない今の時期が、一番辛いと言えるだろう。
 そんな中で、さらに天文部に入部するためのテストで、知子は毎日九十点以上取らなければならないのだ。しかも、そのテスト内容はかなり専門的で、天文に興味がない者にとっては、どうでもいいようなことばかりなのである。
 軽い気持ちで入部しようと思った者たちが、少しずつ脱落していくのは当たり前のことと言えた。
 そして、知子はと言うと。
 毎回ギリギリではありながら、なんとか脱落せずに仮部員としての地位に食らいついていたのである。
 分かっていたことではあるが、やはり、かなり苦しい。
 もともと知子は、そう勉強ができる方ではない。高梨高校に入学できたのだって、奇跡と言ってもいいくらいのことなのだ。授業についていくのなんて、もうかなり必死だ。
 その上、更に入部テスト問題の暗記までしなければならない。
 最近の知子の睡眠時間はと言うと、四、五時間取れれば多い、といった感じなのである。
 だから、もう、達也との関係をじっくり考える暇なんてまったくない。メールのやり取りさえも、ほとんどできていないといった状況だった。
「うわー、知子ったら目の下にクマができてるよ? 寝不足はお肌の天敵よ! ブサイクになっちゃうわよ!」
 昼休み、入部テストプリント片手に弁当を食べる知子を前に、美香が怒ったようにそう言った。
「肌のことなんて気にしている場合じゃないのよ。もう本当に、毎日毎日が真剣勝負なんだから!」
 手に持つプリントから目を離さず、知子は言いながら箸でウィンナーを口に運ぶ。
 一度でも九十点以下を取ってしまったら、その時点で失格になってしまうのだ。なりふりかまっている余裕など、知子にはまったくと言っていいほどない。
「あーあ、どうしてそこまでして天文部に入りたいのか、あたしには理解できないなぁ。いくらカッコイイ先輩がいるからって……」
「何度も言ってるけど、あたしは部長目当てじゃないの! 星を愛する純粋な気持ちから、天文部に入部したいのよ」
「………ますます信じられないわ」
 肩をすくめて、美香はつまらなそうな顔をした。そんな美香を、知子はプリント越しにちらりと見る。
 ちゃらんぽらんなことを言う美香に、かなり厳しい口調で反論したりしながらも、美香には悪いことをしているなぁ、と実は知子は思っていた。
 高校入学してすぐ、最初にできた仲のいい友達である。本来であれば、放課後にお茶したり、ショッピングしたり、キャッキャッと笑いながら噂話に花を咲かせたり、二人でそういったことをしているはずだ。
 それを知子の一方的な理由から、まったくできていない状態にある。昼休みでさえこの様だ。
 コホン、と知子は咳払いをした。
「あ、あのさぁ、美香」
「なに?」
 手鏡を見ながら前髪を整えている美香に、努めてさり気なく知子は言った。
「入部テストに無事合格したら、そしたら放課後とか、いっぱい一緒に遊ぼうね。天文部の活動は週に三日くらいだって話だから、毎日出るわけじゃないし」
「そうねー、あたしもその頃には少し暇になってるかな?」
 美香の言葉に、知子は不思議そうに首をかしげた。
「今は忙しいの?」
 喜々として美香が大きくうなずく。
「告白してきた男の子と、片っ端から放課後デートしてるところなの。お陰で毎日忙しくて」
「そ、そうだったんだ。そんなことしてたんだ……さすがは学年一の美少女ね」
「でも、なかなか彼氏にしてもいいと思えるような子がいないのよね。顔だけよくても、気が利かなかったり、話しがつまらなかったり、頭悪かったり」
「ふ、ふぅ〜ん」
「知子のテストが終わる頃には、あたしも全員とのデートが終わると思うから、ちょうどいいわね。あ、でも、近頃は他校の生徒からのお誘いもあるのよねー。ホント、美少女は大変よ」
「……だろうね」
 明るく笑う美香にひきつった笑顔を返しながらも、知子はホッと安心したのである。
 入部テストにかかりっきりになっていることで、美香はさほど……いや、少しも迷惑をかけてはいないらしい。
 いや、もしかすると、そういう風に振舞ってくれているだけかもしれないけど。
 弁当を食べ終わった後、「がんばってね」と言い残して席を離れた美香は、廊下で男の子と楽しそうにおしゃべりしている。これだって、もしかしたら知子が気兼ねなく勉強できるようにと、そう配慮しての行動かもしれない。
 ありがとね、と知子は心の中で思った。
 と同時に、美香と同じようにガマンしてもらっている達也のことが頭をかすめる。
 知子はポケットの中から携帯電話を取り出した。そして、メールを打ち始める。
『はーい、達也元気してる? 近頃あまり連絡できなくてゴメンね。でも、もう少ししたら入部テストも終わるから、そしたらまたいっぱい遊ぼうね』
 送信ボタンを押してから、達也からの返信メールを待ってみる。
 しかし、しばらく待ってみても、なかなかメールは届かない。
 もしかして、なかなか会えなかったり連絡できなかったりすることを、やっぱり達也は怒ってるのかなぁ、なんて思いながら、知子は大きな溜息をついた。

 そんな風に、知子が達也からのメールを待ってもんもん悶々としていた頃、昼食を取り終わった小百合が、北見の教室に顔を出していた。
 自分の席につく北見の横、窓枠に体を軽くもたれかけ、手に持つ用紙を見ながら小百合は苦笑する。
「たった三週間で、よくここまで人数が減ったものよね。まあ、予想範囲のことだけれど」
 小百合が見ている新入生のリストの大半に、赤ペンでバツじるし印が書かれている。それはみんな、テストに落第したか、それとは関係なくテストを受けにこなくなった者の名前だ。残っているのは六、七人といったところだろうか。
 そのリストを小百合から受け取りながら、北見はしれっと言う。
「きっとまだ減るさ。まだ半分とちょっとしかテスト終わってないんだから」
「軽く言うけどね、全員いなくなったらどうするつもり? それは困るわよ?」
「大丈夫だよ。俺が見る限り、最低でも二人は残るさ。その内の一人は知ちゃん。俺は知ちゃんさえ残ってくれれば、後はどうでもいいんだよねー」
 笑顔でそう言う北見を見て、小百合が肩をすくめた。
「まあね、あたしも知ちゃんは残ると思うわ。って言うか、残って欲しいっていう願望かな? だって、あの子は本当に星が好きみたいだものね。それにしても」
 小百合はその切れ長の目を細め、横目で北見をちらりと見た。
「ずいぶんとまあ知ちゃんにご執心ね」
 そして、にやーりと笑う。
「好きになったって言ってたこと、あれ本当だったんだ?」
「もちろん、本気も本気。初めて会った時、俺は運命を感じたよ!」
「あら、北見くんって運命論者だっけ?」
「うんにゃ、違うよ。でも、本当に運命を感じたんだ。神様が俺たちを引き合わせてくれたんだな、きっと」
 瞳を輝かせる北見の顔を、小百合は腰をかがめてのぞきこんだ。
「北見くんって信心深かったっけ?」
「ノンノン、俺は筋金入りの無神論者」
 矛盾だらけのことを平然と言いながら、にこっと北見は笑う。小百合は呆れ顔しながら、そんな北見の髪を指でピンとはじ弾く。
「ほんと、なんでも適当なんだから」
「でも、知ちゃんを好きだっていうのは本当だよ。もうかわいくてさー、元気よくってさー、ちょっと勝気なところなんか最高だよ! 俺、入部テストに知ちゃんが無事合格したあかつきには、絶対に告白するんだー」
「知ちゃん、彼氏いるって言ってたわよ?」
 それを聞いた途端、顔を青くした北見が勢いよく立ち上がった。そして、大声で叫ぶ。
「そ、それ本当―っ?!」
 教室中の視線が集まるが、そんなこと北見は全く気にしない。
 ショックを受けた様子の北見に、小百合はさらりと言った。
「本当よ。数日前、少し女同士の世間話をした時、そう言ってたもの」
 立ちすくんだまま、しばらく硬直してしまっていた北見だったが、しばらくしてから椅子に腰を下ろすと、ヒクつきながらも不敵に笑った。
「そ、そりゃそうだよね。知ちゃん、あんなにかわいいんだから、彼氏くらいいたって当たり前だよ。でも、俺はあきらめないからな」
「どうするつもり?」
「どうするもこうするも、ただ俺の愛情をぶつけまくるだけだよ。その結果、彼氏と俺とどちらを選ぶかは知ちゃんの自由だ」
「カッコいいこと言っちゃって。まだ同じ土俵の上にも上がってないクセに」
 バカにするようにそういった後、少し考えてから小百合は言った。
「ねえ、入部希望者の数も頃合に減ったことだし、もうテストやめちゃうことにしたら? これ以上減らす必要はないし、知ちゃんが落第する心配もなくなるわよ?」
 確かに、小百合の言う通りである。
 毎年、天文部に入部届けを持ってくる親友部員の平均数は五人くらいである。今残っている六人という人数は、まさにちょうどよい数と言えた。
 ちなみに、今いる天文部の二年生は四人である。
「それはダメだよ」
 しかし、北見は即座に首を振った。
「どうして?」
「そんなことをしたら、これまでにテストに落ちて入部をあきらめた子たちに対して不誠実じゃないか」
「そりゃそうだけど。でも、知ちゃんが落ちちゃってもいいの?」
「それはよくないけどさ。俺は公私を混同しないタイプなの。俺の恋愛と天文部のこととは話しが別」
 小百合は天井を見上げ、その形のいい唇を軽くとがらせた。
 まったく、変なところで真面目なヤツなのだ。この北見という男は。
 北見と小百合とは、一年の時に天文部に入部届けを提出して以来の中である。同じクラスにはなったことがないけれど、でも、週に三日は狭い部室の中で共に過ごしてきたし、月に一度の天体観測では夜通し語り合ったりもしてきている。
 やたらと人なつ懐っこく、突拍子もなく意味不明なことを言うこともあれば、妙に真面目で融通のきかないところもある。そして、いつも明るく笑顔を絶やさない。それが小百合の認識しているところの北見である。
 愛想がいいし顔もいいから、当然、女の子にはとてもモテる。
 でも、北見がこれまで特定の彼女を持ったことはない。
「ねえ、どうして彼女作らないの? 告白とか、いっぱいされてるんでしょう? 彼女、欲しいって思わないの?」
 以前に一度、偶然二人きりになった天文部の部室で、そんなことを訊いてみたことがある。それに対する北見の答えは、こういうものだった。
「彼女かぁ……そりゃもちろん欲しいよ。でも俺、自分の方から好きになった子と付き合うって決めてるんだ。追われるより追う立場でいたいんだよ。やっぱ俺って男だからさ」
「ふーん。それじゃあさ、やっと好きになれた子が見つかって、その子にフラれたらどうするの?」
「自分自身が納得できるまで、追って追って追いまくる。それこそ地獄の果てまでも」
「そういうことをする人のこと、ストーカーって世間じゃ言うのよ?」
 意地悪く小百合が言うと、北見はしれっと言った。
「顔が良くて頭がよくて、ついでに性格もいい男は、滅多なことじゃストーカー扱いされないよ。情熱的って褒められるだけ」
「よっく言うわね。自信過剰よ」
「でも、それが現実」
 にへっと北見は笑った。同意の意味で、小百合も笑う。
「ねえ、北見くんてどういうタイプが好きなの? 参考までに教えてよ」
「そうだなぁ、あまり考えたことないけど、うーん、やっぱり、俺がその子を好きだなぁと強く感じさせてくれる要素を持ってる子かな。その要素ってのがなんなのかは、よく分からないけど」
「それって、好きになった子が自分のタイプってこと? 意外とつまらない男ね、あなたも」
 キョトンとした後、北見はプッとふき出した。
「そっかー、そうだよなー。俺ってあき呆れるくらい単純なヤツ。好きになっちゃえば、どんな人でもかまわないんだぁ。ホント、面白みがないって言うか陳腐だと言うか……、でも」
 笑い終わった北見は、問うような視線を小百合に向け、くちはし口端をにっとつり上げた。
「恋ってそういうもんじゃない?」
「……だね」
 同じように、小百合もにっと笑った。
「ところで、小百合のタイプってのはどんなヤツよ?」
 北見の問いに、よくぞ訊いてくれました、とばかりに百合子はハキハキ言った。
「あたしはね、ダメ男が好きなの。自分じゃなにもできなくて、あたしがいなければどうにもならないっていうような、そんな男」
「ヒモになるようなタイプか。母性本能をくすぐってぇ〜ん、てな感じ?」
 茶化すような北見の物言いに、小百合はくすりと笑う。
「そうそう。だから悪いけど、北見くんはあたしのタイプじゃないのよね。あなた、なんでも一人でやれちゃうんだもの。つまらなくて」
「俺も小百合には恋愛感情は持てないみたい。俺たち、いい仲間としてこれからも付き合っていけそうだな」
「ええ、そうね」
 お互いに、顔を見合わせてにっこり笑った。

 そんな会話を二人が交わしたのが、四ヵ月くらい前のことである。
 それ以降、北見はモテるくせに彼女を作ることができなかった。自分から恋に落ちる相手に出会えなかったのだろう。
 そして年度が変わり、三年生が部を引退すると同時に北見は天文部の部長となったのである。そこで出会ったのが知子だ。
 自分から好きになれる、やっと見つけた大切な相手。
 そういう相手に出会えることを、北見が心待ちにしていたことを小百合は知っている。だからできれば北見の恋を応援してやりたいと小百合は思うのだ。
 そりゃ、先に恋する相手に出会われたことは、癪にさわるし悔しいと言えないこともない。
 でも、まあ、それはそれ。
 性別を超えてできた初めての親友である北見の恋。上手くいけばいいと思っていたからこそ、知子に彼氏がいるかどうかの探りを入れたりもしてみたのである。
 入部テストを途中で切り上げようと言ったことも、同じ理由からだ。知子がテストに落ち、天文部に入部できなることを避けるため。
 しかし。
 こんな時でも、やはり北見は真面目を突き通そうとする。
「恋した時くらい、周りが見えなくなるくらい狂ってみたらどうなのよ。部長の職権を乱用するくらい、別にどうってことないと思うけど」
 不納得顔で小百合が言うと、北見はにかっと笑った。
「それはできません。俺は自分の恋心を大切に思っているけど、天文部のことも愛してるからね。それに、今テストしてることって、どうせ覚えなきゃならないことだろ? 最初に覚えておけば、これから毎月やる天体観測だって楽しくなる。もっと天文に興味が持てる」
「そりゃそうだけど」
 それでもまだ不服そうな小百合に、北見は真面目顔で言った。
「とにかく、入部テストは最後まで続ける。これは部長命令だ。OK?」
「イエス・サー!」
 小百合は背筋を伸ばして胸を張り、手を額にかざして軍隊っぽく敬礼ポーズをしてみせた。と同時に、昼休みの終わりを告げる予鈴がスピーカーから鳴り響く。
「それじゃ、あたしは教室に戻るわ。放課後、部室でね」
「ああ、部室で」
 笑顔の北見を背にし、小百合が長い髪を揺らしながら教室出て行く後ろ姿を、その場にいた他の生徒たちが意味深に見つめる。
 本人たちがどう否定しようとも、二人が付き合っていると勘違いしている生徒の数は、まだこの高梨高校には多い。
 美男美女で見た目にはつり合っているし、それに、今回のように時々互いの教室を行き来するほど二人は仲がいいのだから、それも仕方ないことなのかもしれない。
 でも、二人は本当にただの友達、いや、親友同士なのだ。こういう関係が、たまにはあってもいい。

 そして。
 小百合が北見の教室を出た五分後。
 午後の授業開始を告げる本鈴チャイムを聞きながら、知子はとても気落ちしたように肩を下げていた。
 結局、達也からの返信メールは届かなかったのである。




 それから、なんだかんだと慌しく月日は流れ、入部テストも無事すべて終わり、知子ははれて天文部の正式部員として認められることができた。知子の他にも、三人の仲間がテストには合格している。
 その合格祝いと部員たちの親睦会もか兼ねた校内天体観測も行われ、そこでやっと、知子は念願の高性能望遠鏡で夜空の星々を見ることができたのである。
 自分の目で月のクレーターを見ることができたことに感動し、全天で一番大きな星座であるうみへび座に心を奪われた。春の大三角形を作る三つの一等星を、その星の名を呟きながら何度も何度も指でなぞった。
 あまり楽しくて嬉しかったものだから、徹夜しても全く疲れなんて感じなかったし、部長の北見がやたらとす擦り寄ってくることも、そう気にはならなかった。

 そう、空も白みかけた明け方、みんながいる目の前で、その北見からいきなり好きだと告白されるまでは。





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