ここ、どこぉ?
紗枝は思いながら辺りを見回した。
あ、ブランコ。それにタコさん滑り台もある。そっか、いつもママと行く公園だ。
ふと気づくと、紗枝のすぐ側で小さな男の子が泣いていた。幼稚園の年少さんくらいの小さなやせっぽっちの男の子。
「どうしたの? なんで泣いてるの?」
紗枝が聞くと、男の子はその大きなかわいらしい瞳に涙をいっぱいに浮かべ、泣きじゃくりながら言った。
「ボクんち、お引越しするんだって」
「お引越し?」
紗枝は驚いて、目を大きく見開いた。
「お引越しって、どこに?」
「分かんない。でも、遠い所なんだって。ボク、紗枝ちゃんに会えなくなるの、嫌だなあ。嫌だよお、うわーん」
男の子の泣く姿を見ていると、紗枝も悲しくなってきた。
「紗枝もヤだぁ。お別れするのなんてヤだよぉ」
二人の子供は、地面に座り込んで大声で泣いた。
気がつくと場面が変わっていて、あの男の子が目の前に立っていた。その後ろには、荷物を積み終わった引越しトラックと、男の子の母親らしい女の人の姿が見える。
「紗枝ちゃん」
男の子は紗枝の手をぎゅっと握った。
「ボク、会いに来るから。今みたいにチビの泣き虫じゃなくって、大きなカッコイイ男の人になって帰って来るから。そうしたら……」
そこで男の子は、また大粒の涙をこぼした。
「そうしたら、ボクをお婿さんにしてくれる?」
紗枝はうなずいた。何度もうなずいた。
「うん、約束する。紗枝、待ってるから。絶対待ってるから!」
男の子は嬉しそうに、涙だらけの顔で笑った。
走り去る引越しトラックと、男の子を乗せた車を必死に追いかけながら紗枝は叫んだ。
「約束だよー!」
そして、遠ざかる車がついに見えなくなりそうになった時、紗枝は石につまずいて大きく転んだ。慌てて顔を上げると、もう二台の車は完全に見えなくなっていた。
転んだ時に擦りむいた膝がじんじん痛んだ。すごく悲しくなって、紗枝は大声で泣いた。
「……ん?」
ベッドの中で紗枝は目を覚ました。閉じたカーテンの向こうから朝日が差し込んでいる。ゆっくりと体を起こすと、紗枝は頭を掻いた。
「夢、見てたんだ」
大きなあくびを一つして伸びをすると、少しずつ頭がはっきりしてきた。
「ヘンな夢見ちゃったなぁ。なんだろ、あれ?」
夢の中で擦りむいた膝を無意識にさすりながら、紗枝は考えた。過去の経験なのか、はたまた、ただの夢なのか。なんとなく懐かしいような気がするけれど、紗枝にはあの小柄で痩せた男の子に見覚えはない。
「やっぱりただの夢ね。ふぅぁ〜あ」
もう一度大きなあくびをした時、階下から母親の叫ぶ声がした。
「紗枝ちゃーん、いい加減に起きなさーい。日曜日だからって、いつまで寝てるつもりなのー? 紗枝ちゃーん?」
「はーい、今行くー」
紗枝は急いで着替えを済ませると、部屋を出て階段を駆け下りた。
「おはよう」
「おはよう。早くご飯食べちゃって。片付かないじゃない」
テーブルの上には、すでに朝食が用意されている。紗枝は席に着くと「いただきまーす」と手を合わせてからトーストを大きくかじった。
「お父さんは?」
「休日出勤。色々と忙しいみたい」
紗枝に紅茶を出してくれながら母親は答えた。
「それってニューヨークに行くから?」
「そうでしょうね。あっちに行く前に、日本での仕事をきっちり片付けておかないといけないだろうから。でもお父さん、まだ会社にはっきり行くって返事をしてないみたいよ」
そう言うと、母親は少し怒ったような目つきで紗枝を見た。ギクッとして紗枝は目を逸らす。
「紗枝ちゃん、まだニューヨークに行く決心つかないの?」
「う…ん、それが、その……」
「行きたくない理由があるのなら言ってちょうだい。お母さん、真面目に聞くから」
「これといった理由はないんだけど、ただ、友達と別れたくないなぁ、なんて。それに、ニューヨークって、なんだか恐いイメージあるし」
気になる男の子がいるからなんて、母親に正直に言うつもりはない。でも、ワガママを言っている自覚はあるので罪悪感だけは大きく募る。紗枝は母親から目を逸らしたまま肩を細めた。
そんな紗枝を、母親は疑わしげに見てから溜息をついた。
「お父さんね、毎日上司から矢の催促らしいのよ。行くのか行かないのか返事しろって」
「それは、だから行くって返事してもらってよ。この前も言ったけど、あたしが一緒じゃなくても、お父さんとお母さんだけで行けばいいじゃない。あたしだって、もう少しで大学生になるんだし。そしたら一人暮らししてもいいんだし」
「そんなこと言ったって」
母親は頬に手を当てて、また溜息をついた。
「紗枝ちゃんを一人残して行くなんて、やっぱり心配よ。それに、お父さんはみんなで行きたいみたいだし」
「どっちにしろ、あたしは高校を卒業するまでは絶対に日本にいるわよ」
断固として紗枝は言った。これには母親も同意の表情を見せる。
「確かに、こんな時期に転校するのはちょっと考えものよね。将来のこともあるし。でもお父さんの転勤まで、あと三ヶ月ないのよ。あたしたち二人だけでアメリカに行っちゃったら、卒業するまでの数ヶ月間、紗枝ちゃん一人でどうするのよ?」
「この家に一人で住むっていうのはダメ?」
「ダメに決まってるでしょう!」
目を吊り上げて母親が言った。腕を組み、首をひねって紗枝は考える。
「あ、そうだ。隣町の美恵おばちゃんにお願いするのはどう?」
美恵おばちゃんとは母親の妹で、結婚はしているが子供がなく、幼い頃から紗枝をとてもかわいがってくれている。叔父さんも、優しくてとても良い人だ。
「卒業するまでの数ヶ月くらいだったら、おばちゃんだって面倒見てくれるんじゃない?」
「そうねえ、いざとなったら頼んでみようかしら」
「そうよ、そうしようよ!」
紗枝は元気にウィンナーを口に放り込んだ。良かった。これで最低でも来年の三月までは日本にいられそうだ。
そんなウキウキの紗枝に、母親が厳しく言った。
「でも、最終的にはお父さんが決めることよ。もう一度ゆっくり話し合ってみるけど、もしお父さんが絶対に一緒に来るように言った場合は、紗枝ちゃんもあたしたちと一緒に来てもらいますからね。いい、分かった?」
「……は〜い」
またもやドーンと暗い気分になった紗枝は、ふと、さっき見た夢のことを思い出した。そう言えば、あの男の子も引越しするのが嫌だって泣いてたっけ。
「お母さん。あたし、さっきヘンな夢見ちゃった」
「夢? どんな?」
「小さい男の子がね、引越しするのが嫌だって泣いてるの。あたしも一緒に泣いてたなぁ」
「ふ〜ん、どんな子?」
「目がクリクリでかわいい顔してた。すっごく痩せてて小さいの。あれって昔あったことなのかなぁ? あたしは全然記憶にないんだけど」
しばらく首を傾げて考えていた母親が、思いついたようにポンと手を打った。
「もしかして、昔お向かいに住んでいた外村さん家のボクじゃないかしら」
「外村さん?」
誰だ、それ。
「そう、確かご夫婦が離婚することになって、それで家を売って引越しちゃったのよ。子供は奥さんが引き取ったんだったわよねぇ、確か。ふう〜ん、そうか、そんなこともあったわねぇ。すっかり忘れてた」
一人で思い出に浸っている母親の袖を引っ張りながら、紗枝はワクワクして言った。
「その男の子とあたし、仲が良かったの?」
「そりゃもう、良いなんてもんじゃなかったわ。同じ年齢だったし、毎日一緒に遊んでねぇ……。あの子はおとなしい子で、たまに近所の大きい子たちにいじめられたりしてたんだけど、それをお転婆だった紗枝ちゃんが、いつもかばってあげてたのよ」
そして、ニヤニヤしながら母親は言った。
「きっと、あれが紗枝ちゃんの初恋ね」
「初恋?」
紗枝は飛び上がった。
「えー、ホントにぃ?」
今の今まで、紗枝は自分の初恋の相手は孝也だと思っていたのだ。それが、自分の記憶にないところで、とっくの昔に別の誰かに対して恋心を抱いてしまっていたなんて。しかも、あんなチビの頃に。
本当だとすると、かなりショックである。
しかし母親は、無情にも間違いないと断定した。
「あの子が引越しした次の日から、紗枝ちゃん高熱出して寝込んだくらいだもの。よっぽど悲しかったのね。あ、もしかしたら、熱のせいで記憶がないのかも」
「そ、そうなんだ」
紗枝はガックリ肩を落とした。
「ちなみに、その男の子はなんて名前だったの?」
「ええと、なんだったかなぁ」
首をひねりながら考えていた母親は、しばらくすると肩をすくめて言った。
「忘れちゃった。思い出したら教えてあげる」
「なんだー、がっかり」
自分の覚えていない初恋の相手。
部屋に戻った紗枝は、机の前に座って頬杖をつきながら窓の外を眺めた。
今どこでなにをしているんだろう。なんとなく考えずにはいられない。
二度と会うことはないだろうけど、でも、ステキな男の子になってくれてると嬉しいな、と紗枝は思った。
次の日。
一学期最後の期末試験を一週間後に控えた放課後の教室に残っているのは、紗枝と宮子の二人ぐらいのものだった。他の生徒たちは、試験勉強のためにさっさと帰宅してしまっている。
帰り支度をしながら、紗枝は昨日母親から聞いた初恋の男の子の話を宮子にした。そして、こっぴどく叱られたのである。
「なにをノンビリ昔の思い出なんかに浸ってるの!」
すごい剣幕の宮子に恐れをなし、紗枝は小さく縮こまった。
「あんた分かってんの? もしかしたら、もうすぐ転校しなきゃならないかもしれないのよ。しかも、海外に。孝也のこと今のままにしておいていいの!」
起こられた紗枝は、大きな声で反論できずに小声でブツブツ文句を言った。
「だってさぁ、そんなこと言ったって……」
「だってさぁ、じゃないの!」
ドンと宮子は机を叩いた。
「正直言って、イライラするのよね。どう考えても両想いのあんた達が、いつまでたっても煮え切らない態度でグダグダやってるのを見てるのは」
「両想い……かな?」
「そうよ、そうに決まってんでしょーが!」
怒りまくり叫びまくりでハァハァ言いながらも、宮子は鋭い目つきで紗枝を見るのをやめない。美人の宮子にこんな目で見られると、正直、本当に恐い。思わず背筋を伸ばしてしまう。
「好きなら好きって、はっきり言えばいいじゃないの。どうなのよ、本当のところ孝也のこと、どう思ってるの」
「あ、あたしは」
自分が孝也のことをどう思っているか。そんなこと、とっくの昔に分かってる。今まで人には言わずに自分の心の中にしまっていた想い。人に言うのが恥ずかしくて、自分一人の心の中でそっと温めてきた。
初めて孝也と一緒に美術館に行ったあの日。思い出しただけでも楽しくて心が弾む。
その後、何度も孝也と美術館に行った。その帰りに映画も観た。映画を観ながら、二人で一つのポップコーンを分け合った。
「義理だからね」と渡したバレンタインチョコのお返しに、紗枝が渡したチョコの三倍くらいもするクッキーの詰め合わせをもらった。そのクッキーが入っていた缶は、今でも大切に紗枝の部屋に飾られている。
雑誌を見ながら「長い髪っていいな」と孝也が呟いたのを聞いた日から、紗枝は短かった髪を伸ばし始めた。
孝也と過ごした時間を思い出すだけで、胸がドキドキする。
たっぷり一分ほど考えて、紗枝は口を開いた。
「好き」
言葉にした途端に体中が熱くなり、体温が二度くらい上がったように気がした。
「あたし、孝也のことが好き」
宮子は満足そうに頷いた。
「そうそう、やっと白状したわね。まったく素直じゃないんだから。親友のあたしにくらい、さっさと本当のことを話してくれてても良かったんじゃない?」
「ご、ごめん」
モジモジしながら真っ赤な顔で、紗枝は上目遣いに宮子を見た。
「だって、なんだか人に知られるのが恥ずかしくて。ほら、あたしって少女マンガの主人公みたいに、かわいくておとなしくていじらしくて、ってタイプじゃないじゃない? そんなあたしが、好きな人がいてそのことで悩んでるなんて、似合わないと言うか、ガラじゃないというか……」
普段の紗枝は、元気で明るくて男女問わず友達も多くて、イメージ的には恋に悩んで胸を焦がす、といったタイプではない。どちらかと言うと、「初恋もまだです。男の子を好きになる気持ちなんて分かりませーん」と、能天気に笑っているのがお似合いな感じだ。
だからこそ、そんな自分が「実は恋をしています」なんて、絶対に人に知られたくなかったのだ。
今だって、一番の親友である宮子に気持ちを告白しただけで、全身から汗が吹き出る心地である。わたしなんかが恋してるなんて、ずーずーしくてゴメンなさい、と、頭を下げたいくらいだ。
「バッカねー、そんなこと考えてたの?」
しかし宮子は、赤くなってモジモジしている紗枝の額をちょんと指でつつき、呆れたように小さく笑った。
「恋なんて、誰だってすることよ。一生人を好きにならない人間がいると思う?」
「それは、いないだろうけど」
「確かにマンガやドラマでは、かわいくてキレイな女が主人公になって恋をするのが定番よ。でもね、恋をするのは美人ばかりじゃない、世界一のブスだって恋はするの。それに文句を言う権利なんて、誰にもないんだから。恋して悩んで苦しむ気持ちは、美人だろうがブスだろうが、みんな同じよ。分かる?」
「う、うん」
「人はね、誰だってみんな『自分』っていうドラマの脚本家であり主役なの。それを、自分で自分を脇役だと思った時点から、その人は人生の負け組みになる。あたしはそう思うわよ」
「宮子の言ってることって、なんか哲学的…」
尊敬の眼差しで、紗枝はうっとりと宮子をみつめた。
「当たり前よ。人の人生なんて、みんな哲学で成り立ってんだから。だからね、紗枝、らしくないなんて思うことないの。あんたが誰かを好きになったってことは、恥ずかしいことでもなんでもないの。他人に気兼ねすることなんて、なんにもないんだから。それに、あんたはブスでもないし性格も悪くないし、どちらかと言えば恵まれてんだから、もっと自分に自身を持っていいんだってば」
「そ、そうかな」
「そうよ!」
なんだか宮子の話を聞いているウチに、紗枝は自信がついてきた。
そうよ、そうなのよ。主役はわたしだ。こんなところでグズグズしている場合じゃない。勇輝を出して次に展開に進まなきゃ、つまらないドラマになってしまう。
「ありがとう、宮子。あたし、なんだかやる気がでてきた!」
「そうこなくっちゃ」
こういう単純なところが紗枝のいいトコロよねぇ、と思いながら宮子はにっこり笑った。とその時、窓の外を歩く人物に気づいて、今度はは思わず吹き出しそうになった。
「人生って、ホント、ドラマだわー」
「ん、なに?」
「紗枝、窓の外を見てごらん。めっちゃ都合良く、孝也が歩いてるから」
「ええっ、ウ、ウソでしょう?」
廊下に背を向けて座っていた紗枝は、驚いて後ろを振り向いた。見ると、確かに孝也が歩いている。なんて偶然、恐ろしい。
「さて、やる気がでてきたところで、さっそく告白してみますか。おーい、孝也ぁ!」
「ち、ちょっと待ってよ、宮子!」
紗枝は慌てて宮子の口を押さえたが、時すでに遅く、孝也は二人に気がついて教室のドアを開けて顔をのぞかせた。
「よう、二人っきりでなにやってんだ? 誰かの悪口か?」
紗枝の手を口から引き剥がすと、宮子は意味深な笑みを浮かべて孝也に言った。
「紗枝がねー、ふふふ、話があるんだって」
そう言うと、宮子は思いっきり紗枝の背中を孝也に向かって押し出した。ふいをくらった紗枝は、押された勢いのままに孝也に向かって突き飛ばされる。その、よろけた紗枝の体を孝也がガッシリ受け止めた。
「おっと、大丈夫?」
心配そうに自分を見つめる孝也の顔のドアップ。
「きゃあああ、ご、ごめん!」
紗枝は慌てて孝也の体から離れた。体中がゆでダコのように真っ赤になっている。恥ずかしくて顔が上げられない。
「オッホン」
俯いてモジモジしていた紗枝の耳に、後ろから宮子の咳払いが聞こえた。「早く言え」との催促だ。そんなこと言われたって、心の準備だってできていないのに。しかし、ここでなにも言わなかったら、後でどんなに怒られるか分かったもんじゃない。
「あ、ああ、あの…その、孝也?」
「なんだよ、どうした?」
ちらりと上を見ると、首を傾げた孝也が怪訝そうな顔して自分を見ている。
ど、ど、どうしよう!
頭の中は、もう大パニックである。なにか言わなければと思いながらも、なかなか言葉がでてこない。冷や汗の滲む両手を握ったり開いたりしていた紗枝は、ぎゅっと目を閉じて叫ぶように言った。
「あ、あの、今から時間取れる? ちょっと聞いてもらいたいことがあるんだけど!」
今すぐ告白するなんて、やっぱり無理だ。それに、やっぱり告白は二人きりの時にしたいと思う。
そして孝也は、いつもとはなにか違う紗枝の態度を不思議に思いながらも、右頬を指で掻きながら少し考えるように言った。
「今からかぁ。ちょっと用事があるなあ」
「そ、そう」
ホッと紗枝の体から緊張感が抜けた。どうやら今日は告白しなくてすみそうだ。
後ろから、チッと宮子の舌打ちした音が聞こえた。
「それは残念。それじゃ、また今度」
余裕と取り戻して笑顔でそう言った紗枝だったが、孝也の次のセリフを聞いて凍りついた。
「今から予備校に夏期講習の申込書を取りに行くんだけど、よかったら付いてくる? それが終わってからなら時間取れるよ」
「勿論、それでオッケーよ」
はりきって返事をしたのは宮子である。
紗枝は顔を引きつらせながらも、かろうじて笑顔でこう答えた。
「じゃあ、そうさせてもらおうかな」
やはり、今日がその時になるらしい。
予備校に着くまでの、そう長くない道のりを歩きながら、紗枝は必死に考えていた。
なんて言おう? どんな風に言ったらいいの?
孝也と世間話をしながらも、気づかれないように紗枝は必死に告白の場面を頭の中でシュミレーションしていた。
なんだか胃が痛くなってきた。
そうこうしている内に予備校に着き、孝也は紗枝を入り口付近で待たせ、受付で夏期講習の申込書を受け取って戻って来た。
「お待たせ、これで用事はすんだよ」
なるべく待たせないように走って言ってきたのだろう。孝也は軽く息を弾ませている。こういう何気ない優しさも、紗枝が孝也を好きだと思うところの一つだ。
孝也は優しい。いつでも優しい。初めて会った時に、嫌な奴、と思ったことを申し訳なく思ってしまうほどだ。女の子にモテる理由も、そこにあるのだと紗枝は思う。
一緒にいると安心できる。会話がなくても気まずくならない。
やっぱりあたし、孝也が好きだ。
紗枝は思った。
好きで好きでたまらない。
孝也の隣にいるだけで、孝也の顔を見ているだけで、こんなにも胸が熱くなる。幸せだと思ってしまう。
もしこれで、孝也があたしのことを好きだと言ってくれたら、そしたらあたしはどうなっちゃうだろう……?
もう、死んでもいいかもしれない。好きだと言われた瞬間に死ねたら、きっと世界一の幸せ者だ。
そんなことを考えながら上を見上げると、孝也と目が合った。にこっと優しく孝也は微笑んでくれた。その笑顔が、今すぐ告白しようと紗枝に決心させた。
その時である。孝也がなにか言ったのは。
「―――――んだ?」
「は?」
自分の世界に入り込んでいた紗枝は、孝也の言葉を聞き逃した。
「ごめん、なに? もう一回言って」
「なんだよ、聞いてなかったのか?」
孝也は口を尖らせた。
「紗枝はどこの大学に行くつもりなんだ、って聞いたんだよ。どうしたんだ、ボーっとしちゃって。なんか今日は変だぞ?」
怪訝そうに自分を見る孝也に、紗枝は慌てて笑顔で答えた。
「あはは、ごめんごめん。えーと、大学? うーん、まだハッキリ決めてないんだよね」
大学どころか、この先、日本にいられるかどうかも分からないのだ。
「孝也はどこに行くつもりなの? 成績良いから、いいとこ狙ってたりして」
紗枝の質問に、孝也はちょっと困った顔をした。
「実は俺も、まだはっきりとは決めてないんだ」
そして、紗枝にとって衝撃的なことを言ってのけた。
「実は俺、好きな子がいるんだよね」
「は」
「同じ大学に行きたいんだけど、その子がどこを受けるのかが分からないんだ」
「……………」
「だから、どこの大学でも大丈夫なように勉強しとこうと思って、予備校の夏期講習に申し込むことにしたんだ」
少しテレ臭そうに笑う孝也。
スキナコガイルンダヨネ?
紗枝の頭の中を、その言葉がこだまする。
告白は中止だ。
頭がくらくらして、目の前が真っ暗になった。
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