孝也の両親が離婚したのは、彼がまだ四歳の頃のことだった。
住み慣れた家からの突然の引越し。それだけでも幼い子供にとっては大事件で、頭の中はもうパニック状態である。
更に不思議なことに、引越し先の小さな狭いアパートに父親の姿はなかった。
「おとーさんは?」
半べそかきながら尋ねる孝也の額に、母親は自分の額をくっつけた。
「うん、今日からはお母さんと二人きり。大変だけど、力を合わせてがんばろうね」
元気で明るく、いつでも笑みを忘れない美人の母親が、なんだか悲しそうな顔をしているように孝也には思えた。理由は分からなかったけど、お父さんのことを訊いちゃいけないんだ、とそう思った。
母親が働きに出るようになったため、保育園に預けられることになった孝也は、新しい環境になかなか馴染めず、いつも泣いてばかりいた。背が低く、体も小さい泣き虫の孝也は、よくいじめっ子の標的にされた。
「紗枝ちゃんがいればいいのに」
泣きながら、孝也はいつも思った。
いつも一緒に遊んだ紗枝ちゃん。同い年なのにお姉さん気取りで、いつもボクの面倒をみてくれた。いじめっ子から守ってくれた。
母親が再婚したのは、孝也が小学校二年生の時である。
「お母さんね、好きな人ができたの。結婚したいと思ってるんだけど……」
相談された時、孝也は反対しなかった。幼いながらも母親の苦労を分かっていたからだ。
新しく父親になった人は、少し太めのゆったりした人で、笑顔が温かく性格もとても優しい人だった。孝也はすぐに懐いた。やはり、父親という存在ができたことが嬉しかったのだろう。
再婚して二年後に妹が生まれても、父親の優しさは変わらなかった。実の娘と分け隔てなくかわいがってくれた。
この育ての父親のことを孝也は大好きだった。男とは、優しさという心の強さで自分の好きな人や家族を守るものだと教えてくれた。
○ ○
「一体、どういうことなのよ!」
二時限と三時限の間の休み時間である。自分の席で次の授業の準備をしていた孝也は、突然やってきた宮子に猛烈な勢いで抗議されていた。
「紗枝ったら、もうフヌケみたいになっちゃってるんだから。聞いても何も話してくれないし。ねえ、昨日なにがあったのよ?」
「なにって……」
宮子の勢いを気にもせず、しかし、フヌケとなったらしい紗枝のことを気にかけながら、昨日のことを思い出しつつ孝也は答えた。
「別になにもなかったけどなぁ。予備校に行って、その帰りに大学のことを話していたら、急に気分が悪くなったとか言って、紗枝、帰っちゃったんだ」
心配した孝也が家まで送ろうと申し出たが、紗枝はそれを断って一人で帰ってしまったのである。
「それだけ?」
宮子は孝也をにらんだ。
「他に紗枝はなにか言ってなかった?」
「いや、特になにも言ってなかったけど。もしかして、まだ体調が悪いんじゃないのかな」
「いいえ、そんなことじゃないと思う」
親指の爪を噛みながら宮子は考えた。
告白してフラれたから落ち込んでいるんだと、てっきり宮子は思っていた。だから、そのことについて孝也に文句を言いにきたのだ。でも、今の孝也の様子をみると、どうもそうではないらしい。紗枝は告白しなかったのだ。
でも、どうして? よっぽどのことがない限り、紗枝は告白していたはずよ。だって、すっかりその気になってたもの。
「あー、もう、どうしたんだろう。紗枝ったら、もう卒業を待たずにニューヨークに行くって言ってるのよ」
「ニューヨーク?」
孝也は驚いて飛び上がった。
「ニューヨークってなに? それ、どういうこと!」
「あら、なにも聞いてないの?」
紗枝が孝也に父親の転勤についてなにも話してなかったことに少し驚きながら、宮子は紗枝の家庭の事情を掻い摘んで説明した。孝也は真剣な顔をして聞いている。
「―――という訳なのよ。でも、卒業までは絶対に日本にいるって、両親を説得するって、つい昨日までは言っていたのに、どうしたんだろう。今日になって手の平返したように、やっぱり両親と一緒にニューヨークに行くって言うんだもの。ねえ、本当に昨日なにもなかった?」
「……………」
孝也が突然立ち上がった。
「紗枝のところに行く」
短くそれだけ言うと、孝也は歩き出した。その腕を宮子が掴む。
「行ってどうするつもり?」
「決まってる。本当かどうか確かめるんだ」
「本当に決まってるでしょう。あたしがこんな嘘言って、どうなるっていうのよ」
「そ、それじゃ、どうして今まで俺に黙っていたのか訊く」
明らかに動揺している孝也を興味深く見据えながらも、宮子は冷たく言った。
「訊いてどうするのよ。今更どうにもならないでしょ」
「だったら、だったら……」
孝也は黙り込んでしまった。宮子は掴んでいた孝也の腕を放した。
「まさか、行かないでくれなんて言うつもりじゃないでしょ? そんな立場じゃないもんね。だってあんたたち、ただの友達なんでしょう?」
宮子はワザと意地悪口調でそう言い放つと、苦悩の表情を見せる孝也を置いて、さっさと自分の教室へと足を急がせた。
廊下を歩きながら、今の出来事を思い返してみる。
あの慌て振り、あの表情。やっぱり孝也は紗枝のことが好きだとしか思えない。これは早く戻って紗枝に教えてあげなくっちゃ。
紗枝きっと喜ぶぞ、なんて思いながら急いで教室に戻った宮子に、仲良しグループの一人が心配顔で話しかけてきた。
「紗枝、早退しちゃった。やっぱり調子が良くないみたい」
どんなに高熱が出ても食欲だけは失せず、いつも母親を安堵させていた紗枝ではあるが、さすがに今回はなにも喉を通らなくなってしまった。
失恋。
そう、失恋してしまったのだ。
期末試験前の大切な時期なのに、授業なんて聞いている気分ではなく、昨日は学校を早退した。そして、今日もベッドから起き上がれずに休んでいる。仮病ではない。本当に熱が出てしまったのだ。
「あたしって、失恋すると熱が出る体質なのかしら?」
ベッドの中で頭からすっぽり布団に潜り込み、体を丸めたまま紗枝は呟いた。初恋の男の子に引越しされてしまった時も高熱を出して寝込んでしまった、と母親が言っていたのを思い出す。
「好きな子がいるんだよね」
孝也の言葉を思い出す。
「同じ大学に行きたいんだけど……」
そう言った孝也のテレ臭そうな笑みを思い出すたび、胸が苦しくなる。
バカバカバカバカバカ、あたしは本当にバカだ。どうしてもっと早くに告白しなかったんだろう。そうすれば、違った結果になっていたかもしれない。孝也に好きな子ができる前に告白できたかもしれない。孝也もあたしのことを好きになってくれてたかもしれない。
もし、ああしていたら。
もし、こうだったら。
何度も何度も自分を責め続けた。
ああ、あたし、こんなに孝也のことが好きだったんだ。
涙が出てきた。
美術館に二人で通った日々を思い出す。紗枝の描いた絵を見て、憎まれ口をたたく孝也の笑顔を思い出す。
他に好きな子がいるなら、優しくなんてして欲しくなかった。冷たくされてた方が、きっとこんなに苦しまなくてすんだに違いない。今すぐ孝也を嫌いになりたい。嫌いになれればいいのに。
でも。
そんなの無理に決まっている。
だから、両親と一緒にニューヨークに行くことにした。本当は、行きたくない。他に好きな子がいても、それでも孝也の側にいたい。でもそうすると、ずっと辛い想いをしなければならない。
それは耐えられそうにないと思ったから、だからニューヨークに行くことにした。離れてしまえば、きっと傷も早く癒える。忘れることができる。「いい思い出」になる日がくる。
勿論、両親は大喜びである。
「うっうっ、あたしって思ったよりかわいい性格してるじゃない。うっ、ヒック」
止まらない涙をシーツに吸い込ませながらも、紗枝はそんなことを思った。嬉しくて楽しくて調子がいい時よりも、辛くて苦しくて悲しい時の方が自分自身を冷静に分析できるらしい、なんてことを考える。
だから、突然ノックの音と共に母親が部屋に入って来た時も、すぐに涙を拭いて布団から顔を出すことができた。
「具合はどう?」
母親は心配そうに紗枝の顔を覗き込むと、おかゆを載せたお盆を紗枝の膝の上に置いた。そして、紗枝の額に手を当てる。
「熱は下がったみたいね。おかゆ作ってきたんだけど」
なんで熱が下がるんだろう。このまま四十五度くらいまで熱が上がって死んでしまえばいいのに、と紗枝は思う。
「あたし、食欲ない」
「一口でもいいから食べなさい。栄養をつけとかないと、治るものも治らないわよ。もうずっと、なにも食べてないじゃない」
母親に睨まれて、紗枝はしぶしぶ一口おかゆを口に運んだ。その途端、体中が暖かくなり、まるで忘れていた空腹感を体が思い出したように、グウ〜とおなかが鳴った。自分の体のデリカシーのなさに情けなくなりながらも、気づいたら、紗枝はおかゆを平らげていた。
「少しは元気がでたみたいね」
安心したように母親が言う。
「そうかな。あんまり元気になった気はしないけど」
「それじゃ一つ、元気になるようなことを教えてあげる。実はね、思い出したのよ、紗枝ちゃんの初恋の男の子の名前」
「ふ〜ん」
はっきり言って、そんなことどうでも良かった。今は孝也のことに頭がいっぱいで、初恋の男の子のことなんて考える気力もない。
「タカヤ」
母親の突然の一言。なんでお母さんが孝也を知っているのよ、と紗枝は驚いて目を見開いた。
「え、な、なに? なにが?」
「だから、紗枝ちゃんの初恋の男の子の名前よ。確か、タカヤだったわ」
「そ、それ、本当?」
「うん、間違いないと思う。紗枝ちゃんはいつも『タックン』て呼んでたわ」
「……タックン…」
口に出した途端、紗枝の頭の中に忘れていた記憶が次々と蘇ってきた。
毎日タックンと公園で遊んだこと。いじめっ子から守ってあげたこと。夏にお庭でプール遊びしたこと。タックンが引越ししていった時のこと。そして、その頃の自分の気持ち。
母親が部屋を出ていってからも、しばらくの間紗枝は懐かしい記憶を思い出しながら童心に返っていた。が、やがてポツリと呟いた。
「あたしって、タカヤって名前の男の子とうまくいかない運命にあるのね」
そして、大きな溜息をついた。
○ ○
父親の転勤で、昔住んでいた懐かしいこの町に孝也が帰ってきたのは、四年前のことだった。すぐに大好きだった『紗枝ちゃん』について調べ始めた。いつも、心の支えになってくれた。会えるなら、もう一度会いたい。
母親の曖昧な記憶を元に、根性で紗枝の家を探り当て、それから色々と手を尽くし、なんとか紗枝が受験する高校を知ることができた。当然、孝也も同じ高校を受験した。
同じ高校の生徒になってからも、同じクラスにはなれず、なかなか紗枝と接点を持つことはできなかった。色々悩んだ末、今は卒業してしまった前生徒会長の室井に協力してもらい、なんとか紗枝と知り合いになることができた。
初めて一緒に美術館に行った日。
実を言うと、あの日はもう、期待と緊張で胸がバクバクしまくっていたのだ。勿論、紗枝の顔は知っていた。でも、性格がどんな子かはほとんど知らなかったのである。
「すっごい性格ブスになっていたらどうしよう」
そんなことを考えて、前の日はあまり眠れなかった。
そして当日、実際に話をしてみた紗枝は、明るく元気で、自分の好きなことに一途になれるステキな少女になっていたことが分かった。
嬉しかった。
遠い昔、まだ自分が幼稚園児だった頃に好きだったという、懐かしいだけの存在だった紗枝に対する気持ちが、別のものに変化した。親の都合で離れ離れになってから十年以上経った今、あらためて同じ人に恋をしたのだ。
気がつけば、美術館に行ったあの日から、既に一年以上の月日が流れている。
告白しようと思ったことは何度もあった。が、今までなぜそれをしないできたかと言うと、どうも紗枝は自分のことを友達としかみていないようだったからである。でも、その友達といいう立場は、苦労してやっとの思いで手に入れた貴重なモノだったから、それを告白することで失うハメになるなんてことは真っ平御免だった。
つまり、紗枝も孝也も同じ理由で、今まで告白もせずにダラダラ友達関係を続けていたという訳だ。
孝也にしてみれば、昔のことを思い出してもらいたい、という想いも当然あった。
ゆっくり待つつもりでいた。いつかは思い出してくれると信じていた。
それなのに。
「ニューヨークに転勤だって? 冗談じゃない!」
孝也はぎゅっと手を強く握り締めた。
このまま、また離れ離れになるなんて絶対に嫌だ。せめて想いを伝えないと。
思い立ったが吉日。というわけで、早速告白しようと思ったのに、あいにく紗枝は体調不良で今日は学校に出てきていない。
明日は来るだろうか?
もし来たら絶対に告白するぞ、と孝也は堅く心に誓ったのである。
○ ○
熱も下がったし食欲も出た。
さすがに試験前のこの大切な時期、そうそう学校を休むわけにもいかず、紗枝は思い気持ちをひきずって登校したのである。
教室に入った途端に、恐い顔をした宮子が飛んで来て、また叱られた。
「ったく、もう、心配するじゃないの! 携帯かけても全然出ないし」
携帯電話はうざったいから電源を切っていたのだ。
「ごめんね」
「もう大丈夫なの?」
心配そうに自分を覗き込む宮子に、紗枝は無理やり笑顔を作った。
「う…ん、ごめんね、心配かけて」
「そう、良かった。あ、そうだ。紗枝に報告があるのよ。実はね、孝也のことなんだけど……」
『孝也』という言葉を聞いた途端に胸が苦しくなり、紗枝は心臓をぎゅっと抑えた。自分が心の中で考える分には大丈夫だが、他人の口からその名前を聞くと、まだ、こんなにも動揺する。苦しくなる。
「孝也のことは、もういいの」
声を振り絞るように紗枝は言った。
「やっぱりあたし、孝也のことは友達としてしか好きじゃなかったみたい」
「え? でも、だって」
驚いた顔の宮子に有無を言わせず、紗枝は作り笑顔で言った。
「本当にもういいの。あ、ホラ、チャイム鳴ったよ。席につこう」
タイミング良く鳴ってくれたチャイムに感謝しながら、紗枝は急いで自分の席に着いた。これ以上、『孝也』という言葉さえ耳にしたくない。
結局、その日は散々だった。授業を聞いていても、まったく耳に入らない。孝也に偶然にでも会うのを避けるため、トイレに行く以外は教室から一歩も外に出なかった。
やっと待ちに待った放課後がやってきたから、急いで家に帰ろうと立ち上がった紗枝は、ふと気を変えて美術室へと向かった。
絵を描こうと思った。気分転換には、絵を描くのが一番だった。
試験前のこの時期、放課後に残って絵なんか描いているのを教師にみつかったら、絶対に叱られる。でも、そんなことはどうでも良かった。
「怒られたっていい。だって、今のあたしには絵を描くことは必要なんだもの」
美術室から道具を持ち出して中庭に運んだ。深呼吸して、真っ白いキャンバスの前に立つ。
ほとんどの生徒が試験勉強のために帰宅してしまった校内は、驚くほど静かだった。初夏の風が心地よく紗枝の髪を躍らせる。
三十分ほど経っただろうか。キャンバスは未だ真っ白のままだった。
紗枝は大きな溜息をついた。
どうしても無心になれない。一瞬でも気を弛めると、頭の中に孝也の顔が思い浮かんでくる。
他に好きな子がいると分かったからといって、孝也を好きな気持ちは止められない。
絵が描けないのは、そのせいだった。考えるのは孝也のことばかり。しかも相手には他に好きな人がいる。そして自分は、それでもやっぱり孝也のことが好きなのだ。
もし今、紗枝に描ける絵があるとすれば、それは孝也の絵だけに違いない。
白いままのキャンバスの前で紗枝が何度目かの溜息をついた時、後ろの方で踏まれた小枝の折れる音がした。
心臓がドクンと波打った。
誰が来たか紗枝には分かった。彼が来た時は、いつだって分かる。今までずっとそうだった。
紗枝は振り向かなかった。じっとキャンパスだけを見つめていた。後ろの人物もなにもしゃべらない。長いような短いような沈黙の時間が過ぎた。
いたたまれなくなった紗枝が、ついに我慢できなくなって振り向こうと思った時、声が聞こえた。
「お婿さんにしてくれる?」
「え?」
紗枝は驚いて、後ろを振り向いた。たった二日間会っていないだけなのに、やけに懐かしく感じる孝也の笑顔がそこにある。
孝也はまっすぐに紗枝を見つめながら、少しおどけた調子で言った。
「僕をお婿さんにしてくれるって、このセリフ、紗枝はどこかで聞いた覚えない?」
「そ、それは、昔近所に住んでた男の子が言ったセリフだけど……。なんで、孝也が知ってるの?」
「そっか、紗枝、覚えてたんだ」
孝也は小さくそう呟くと、ゆっくりと紗枝の方へ近付いた。そして、冗談めかした口調で紗枝に言った。
「俺、大きくてカッコイイ男になっただろ?」
信じられない思いで、紗枝は孝也を見つめた。
「俺は約束守ったんだから、こんどは紗枝が守ってくれよ。俺をお婿さんにしてくれる?」
一体なにがどうなっているのか。
タックンが孝也? いや、そうじゃない。孝也がタックンだったんだ。でも、そんなことって……。
混乱する頭を懸命に整理しようとしていた紗枝は、しかし、さっきまで失恋で苦しみもがいていたことを思い出した。
「な、なに言ってんのよ。孝也、好きな人いるんでしょう。今のあたしに言ったセリフ、好きな子に聞かれたら大変よ?」
平静を装って冗談口調でそう言った。が、胸の奥で心臓が踊り狂っている。
「そういうセリフはあたしにじゃなく、好きな相手にでも言っ…」
「この前も言ったけど」
紗枝の言葉を、真面目な顔の孝也が遮った。
「俺の好きな子は進学先をまだ決めてないんだ。だから俺も予備校に入って、どこにでも行けるように勉強することにした。この前、話したよな?」
「涙ぐましい努力よね。行けるといいわね、同じ大学」
「紗枝は進学先決まったのか?」
「あ、あたしは……だから、まだだってこの前言ったでしょう? まだ考え中よ」
「困るんだよねぇ、早く決めてもらわないと。毎日、顔を会わせるたびに担任がうるさいんだ。どこに行くか決めたのかって。早く決めてくれよ、俺が困るだろ?」
「なんで、あたしのことで孝也が困るのよ。関係ないでしょ!」
「まだ気づかないのか? ほんと、ニブイなあ、紗枝は」
苦笑する孝也の顔を見たその瞬間、紗枝の中で絡まりあった糸がピンと解けた。
目を見開き、信じられない思いで孝也を見つめる。
「う、うそ……孝也の好きな人って………」
「やっと気づいたのか。このドンカン」
孝也は指でトンと紗枝の額を弾いた。そして、優しく覆うように紗枝を抱きしめた。
「好きだ」
孝也の声がする。
「好きだ」
孝也の声が静かに響く。
「ニューヨークなんて行くな。行かないでくれ」
紗枝を抱きしめる孝也の腕の力が強まった。その腕の力で、驚きとショックで訳が分からなくなっていた紗枝の心が、少しずつ落ち着いてきた。次第に今までに感じたことのない安らぎと温かさが紗枝の全身を覆う。
「あたしも孝也のことが好き」
涙がこぼれた。孝也は黙って紗枝を抱きしめ続ける。
静かな校舎。初夏の風が優しく二人を包む。しばらくして、紗枝を抱きしめたまま孝也が言った。
「俺をお婿さんにしてくれる?」
その言葉にうっとりと聞きほれていた紗枝は、やがて静かに、でもはっきりと答えた。
「イヤよ」
「え!」
驚いた孝也は、腕を紗枝から離すと目を白黒させながら口をパクパクさせた。そんな孝也を見て、紗枝はクスリと笑う。
「お婿さんにはしない。だって、あたしがお嫁さんにしてもらうんだもの」
一瞬ポカンとした後、嬉しそうに笑って孝也はもう一度、紗枝を抱きしめた。
一度は一緒にニューヨークに行くと言っていた紗枝が、やっぱり行くのをやめると言いだしたのを聞いた父親は、物凄くショックを受けた顔をした後、思った通り猛烈に反対してきた。が、一週間後、しぶしぶながらも紗枝の希望を了承してくれたのである。行きたくない理由、つまり孝也とのことを母親に全部話してみた結果、意外なことに、あっさりと母親は紗枝の味方をしてくれ、父親を説得してくれたのである。
紗枝の耳元で、母親はこっそりささやいた。
「実はね、お母さんの初恋の相手もお父さんだったの。だから、紗枝ちゃんの気持ち、よーく分かる」
母娘は目を合わせると、父親に気づかれないように小さく笑った。
両親がニューヨークへと行ってしまった後は、美恵おばちゃんの家でお世話になることも決まった。学校までの通学距離がちょっと長くなるが、それも、孝也との朝のデートの時間が長くなると思えば、それはそれでいいもんだ、と紗枝は思う。孝也はきっと、毎日迎えに来てくれるに違いない。
「大学はあたしに合わせるんじゃなく、自分のレベルに合ったところに行って」
それじゃ一緒にいる時間が少なくなる、と紗枝の申し出をしぶっていた孝也だったが、紗枝の次に言ったセリフに納得し、今、予備校でがんばって猛勉強している。
「いい大学に入って、いい会社に入って、そんでお金持ちになってあたしを幸せにしてくれなくちゃ」
ホントは孝也がいてくれるだけであたしは幸せなんだけどね、と心の中で紗枝は呟く。
予備校が休みの日曜日は、デートを兼ねて二人で図書館で受験勉強することがある。嫌いで苦手な勉強も、孝也と一緒だと途端に楽しいものになるから不思議なもんだ。
図書館の自習室で苦手な英語の文法を頭に叩き込んでいた紗枝は、ふと手をとめた。
美術館にある数多くの絵の中で、一番のお気に入りのあの絵、『心の鏡』。観る時の気分によって、いつも違った印象を与えてくれる。今あの絵を見たら、どんな風に感じるだろう。
そんなことを考えながら、紗枝は顔を上げた。向かいの席で辞書を引いている孝也の姿が目に入った。真剣に勉学に励む孝也はいつもにも増してかっこいい、などと心の中でノロケてみる。
そうだ、今日の帰りにでも久しぶりに二人で美術館に行ってみよう。今きっと、あの絵は世界中のどんな名画よりも素晴らしい物に見えるに違いない。
孝也にはどうだろう。
孝也にも、あの絵がいつもより素晴らしい物に見えるだろうか?
「きっと見えるよね」
紗枝の小さな呟きに気づいた孝也が、勉強の手を止めて顔を上げた。
「なにか言った?」
紗枝は首を振りながら笑顔で答えた。
「ううん、なんでもない。それより今日の帰りに……」
おわり
4
Copyright c 2004 されど日常の日々 All rights reserved. [Powered by Novel Factory]