美術部の顧問から職員室に呼び出しされ、そこで告げられた話の内容に、紗枝は怒り狂った。
「美術部を廃部! それ、本当ですか?」
「いや、まだ決定ではないんだが……」
 頭から湯気を出す紗枝の目の前で、五十代後半の男性美術教師は目をショボショボさせながらノンビリ言った。
「でも、そういう話が生徒会で持ち上がっているらしいんだ。正式に言い渡されたわけじゃないけどね」
「生徒会で? 一体なんで」
「うーん、なんだったかなぁ。聞いたような気はするけど、忘れてしまった」
 なんて頼りにならないんだ、このボケじじぃ、なんて心の中で悪態を付きながらも表情には出さず、紗枝は頭を下げた。
「失礼します」
 言うのと同時に慌しく職員室から駆け出した。向かうところは勿論、生徒会室である。
 美術部を廃部? 冗談じゃない!
 生徒会室へと向かう廊下を、歯軋りしながら紗枝は突っ走った。一体、どこの世界に美術部のない学校があるというのか。
 美術部は紗枝にとって、とても大切なものだった。中学の時も美術部だったし、高校でも入学と同時にすぐに入部した。文化系の部活では、大抵の部において三年生になると部員は引退してしまう。美術部においてもそれは例外ではなく、一学年上の先輩が引退した今年の春、二年生になった紗枝が部長を務めることになった。
 それからまだ一ヶ月しか経っていないというのに、もう廃部なんて話が持ち上がっている。
 廃部になんてされてたまるか、と紗枝は思った。過去の先輩方に顔向けできないし、それに、絵を描くことに心の安らぎを感じる紗枝にとって、美術部とは、なくてはならない存在なのである。
 そもそも、美術部なんて真面目で地味でおとなしい部である。他人に迷惑をかけたことなんて一度もない。素行が悪くて有名な部なら他にいくらだってあるのに、どうして生徒会が美術部を廃部にしようとしているのか、そこのところが納得いかない。
 生徒会室の前に来ると、紗枝は大きい音をたてて思いっきりドアを開けた。
「美術部の部長だけど、生徒会長はどこ!」
 室内にいた全ての生徒会役員が驚きの表情で紗枝に視線を集める中、部屋の奥にある生徒会長席に座る男子生徒が、おもしろそうな顔をして声を上げた。今期の会長、三年の室井である。
「俺だけど、なにか?」
 紗枝はズンズンとそこまで歩いていくと、バンッと両手を会長机についた。
「美術部を廃部にするって話があるって聞いたんだけど、どういうこと!」
 紗枝の意気込みに、ちょっと驚いた顔をした室井だったが、すぐに苦笑まじりの、それでいて楽しげな表情で言った。
「ああ、あの件ね。あれだったら、まだ決定にはなってないよ」
「当たり前よ、決定なんてされてたまるもんですか! 大体、ウチの部がなにをしたっていうのよ!」
「うん、実はその、なにもやってないってトコロが問題なんだよね」
 両手の指を組み合わせ、そこにあごをのせた姿勢で室井はにっこり言った。
 うっ、と紗枝は言葉につまる。室井の言わんとしていることが、すぐに分かったからだ。
 確かにここ数年、美術部から出展された作品で、なんらかのコンクールで賞を貰ったりしたことは、ほとんどと言っていいほどない。室井が言っているのは、そのことだろう。正直、痛いところを突かれてしまった。
「そこんとこ、どう考える?」
「そ、それはそうだけど、でも、がんばってはいるわ。それに……」
「それに?」
 相変わらず楽しそうな室井の態度に、紗枝はカチンときながらも頭を必死に回転させた。
「それに……そうよ、それを言うなら野球部だって、創立以来一度だって甲子園に出場したこともないくせに、ちゃんと存続しているじゃないの。廃部にするなら、野球部を先に廃部にしするのが筋じゃないの」
「なるほど、そう切り替えしてきたか。結構鋭いね、美術部の高橋紗枝さん」
 どう考えても自分をバカにしているとしか思えない室井の態度に、短めの髪を逆立てた紗枝がなにか言おうと大きく息を吸い込んだ途端、室井は紗枝の口の前に右手を掲げてストップをかけた。
「悪いけど、新年度も始まったばかりで、俺もちょっとばかり忙しいんだ。美術部の件では別に担当者がいるから、そいつと話し合ってくれないか?」
「たらい回しにするつもり?」
「そんな、めっそうもない。オイ、河本」
 室井の手招きに応じて、背の高い少年が紗枝の前に歩いてきた。
「なにか?」
 河本と呼ばれた少年は、何の感情も感じられない目で紗枝を一瞬だけ見据えると、すぐに室井の方に視線を戻した。なんとなく感じが悪くて、紗枝は気分を悪くした。
「こちら美術部の部長で高橋さん。ほら、美術部を廃部にするとかしないとかの話、あっただろ? あれについてご意見があるそうなんだ。対応してやってくれ」
「分かりました」
 室井は紗枝の方に振り返った。そして、親指で河本を指差す。
「こいつ、今年の会計係り担当の河本。言いたいことがあったら、全部コイツに言ってくれ。ちなみに、廃部の件の発案者はコイツだよ」
「なんですってぇ! ちょっと、アンタ……」
 いきり立って叫び声を上げる紗枝を、冷たい視線でジロリと睨んでから河本は言った。
「他の人の迷惑になるから。こっちへ」
 紗枝は慌てて口を押さえて周囲を見回すと、ちょっと反省して赤くなった。そして、河本に促されるままに、部屋の隅にある椅子へと静かに腰を下ろした。向かいの席に座った河本は、美術部のデータと思われる資料を、渋い顔をして確認している。
 感じの悪いヤツ。
 さっきも思ったが、もう一度紗枝は思った。
 よく見ると、河本はなかなか整った顔をしている。目はどちらかと言うと大きくて、鼻筋はスッと通っている。さっき見たところ背もかなり高いし、女の子に人気がありそうだな、と紗枝は思った。ちょっと自分のタイプでもある。
 でも、そんなことでは誤魔化されない。この河本という男は、紗枝の愛する美術部を廃部に追い込もうとしている張本人なのだ。ニックキ敵である。紗枝は断固、戦うつもりでいた。
「……で?」
 資料から顔を上げると、河本は気だるそうに言った。
「いつまで俺を品定めしているつもり? 話があるならさっさと始めて欲しいんだけど」
「!」
 紗枝はカッとして奥歯を噛み締めた。だって、こっちは河本が資料を見終わるのを待っていたのだ。わざわざ気を使ってやったのに、なんでこんな言われ方をしなければいけないのか。
 頭に血を上らせた紗枝は、怒鳴るように言った。
「どうして美術部を廃部にしたいのよ。なにかウチの部に恨みでもあるの!」
「恨みなんてないさ。ただねぇ、会計を任されている俺としては、無意味で不必要な部に無駄金を回したくないだけ」
「無意味で不必要!」
 紗枝は床を蹴った。
「芸術を愛する心を持つ生徒を育んでいる美術部が、無意味で不必要ですって! あんた、一体どういう神経しているのよ」
「だって、育んでないじゃない。この資料を見ると、今年の新入部員はゼロ。二年生だって、あんたともう一人、ほとんど部室にも立ち寄らない幽霊部員がいるだけだろ?」
「そ、それはっ」
 確かに河本の言う通り、今年はまだ一人も新入部員が入ってきていない。それに、五人いた先輩たちが一気に引退してしまった今、部員は紗枝ともう一人、幽霊部員の子と合わせて二人だけになってしまった。そして、その幽霊部員の子はと言うと、実はマンガ研究クラブと掛け持ちしていて、最近はマンガを描く方が楽しいらしく、半年くらい前から一度も美術部に顔を出していない。
 河本の指摘は正しい。でも、ここで引き下がってたまるか。
「まだ分からないじゃない。今からどっさり新入部員が入ってくるかもしれないじゃないの。そうよ、入ってくるに決まってる」
「そんな都合のいい話になるかなぁ?」
 河本は意地悪く笑った。
「なるわよ!」
「そうは思えないけど。じゃ、まあ、その件は、もう一ヶ月くらい様子を見ることにするとしても、うん、これ、これだよ」
 河本は紗枝の顔の前に一枚の紙を突き出した。
「実質、部長のあんた一人しかいない美術部が、どうしてこんなに多額の部費を必要とするのか説明してもらいたいね」
 突き出された紙は、今年になって紗枝が提出した美術部の部費申請書である。
「横領でもしようとしてるの?」
「横領ですって!」
「そう、横領。どう、違う?」
「ふ、ふ、ふざけたこと言わないで!!」
 もう、本当にクラクラするくらい怒りで頭をいっぱいにした紗枝は、これ以上できないというくらいに怒りと憎しみを込めた目で河本をにらみつけた。殴りかからなかったのは、一応、自分が女であるという自覚による制御が働いたからである。
「あんたはなにも知らないだろうけど、絵を描く道具にはお金がかかるの。疑うのなら調べてみればいいじゃないの。これでもかなり遠慮した金額しか申請してないのよ!」
「これで遠慮した金額なのか? うわー、勿体ない。やっぱり美術部なんていらないなー」
「いらなくない!」
 握った拳を震わせながら紗枝は叫んだ。もう、限界だった。
「さっきから聞いてれば、無駄だのいらないだの勝手なことばっかり言って。美術部は素晴らしい部よ。それが分からないアンタの神経を疑うわ。ああ、そうか、分かった。アンタ、美術オンチなんでしょ。芸術を愛する心なんかこれっぽちもない、品疎な心の持ち主なんだ。美術の成績なんて、小学生の時から1しかもらったことないんじゃないのぉ?」
「そんなことはない。失礼なこと言うな」
 ムッとした顔でそう言った河本を、紗枝はフフンと鼻で笑った。
「どーだか。美術館で素晴らしい芸術作品を鑑賞して、心を豊かにしようなんて高尚な考え、あんたみたいな品疎な人間には理解できないんでしょうね。あー、かわいそう」
「お、俺だって美術館に行ったことくらいあるぞ」
「それっていつのことよ」
「……小学生の時。学校の遠足で」
 少し気まずそうに言った河本の言葉に、紗枝は目を丸くした。
「本当にそれ以来行ってないの? 市の美術館がこんなに近くにあるのに?」
 河本は黙って頷いた。
「信じられない。それってすごく勿体ないと思うわよ。絶対に人生損してる」
「うるさいな、ほっとけ。今までそんなこと考えたこと思ったこともない」
「その考えが間違ってるのよ。時々でもいいから、美術館くらい通った方がいいわよ。そうよ、一人で行きにくいんだったら、あたしが一緒に行ってあげるから」
「は?」
 目をパチクリさせている河本を無視して、紗枝は目をキラキラさせながら言った。
「そうよ、そうしましょう。早速、今度の日曜日なんてどうかしら、善は急げって言うし」
「あ、あの」
「現地集合、十一時に美術館の前に集合ね。行き方は分かる? バスに乗ればいいんだから簡単よ」
「それは分かるけど、いや、ちょっと待って」
「色々な美術作品を見るって、本当に素晴らしいことよ。心が休まるし、豊かにもなるわ。あんた……失礼、名前なんだっけ?」
「河本」
「河本くんだって、何度か美術館に通っていれば、きっとそのことに気づくわ。美術部を廃部にしようなんて考え、どこかに吹っ飛んじゃうわよ」
 呆気にとられている河本の目の前に人差し指を着きつけ、命令口調で紗枝は言った。
「いいこと、絶対に来るのよ。分かった? 約束したからね」
「う、うん」
 紗枝の勢いに飲まれて頷いてしまった河本を見て、紗枝はにっこり笑った。
「じゃ、日曜日にね」
 そして、紗枝は足取りも軽く、生徒会室から出て行ったのである。うまくすれば、これで廃部の危機を脱することができるかもしれない。


 紗枝の出て行ったドアを、しばらく呆然をしながら見つめていた河本は、グッと拳を握ると大きくガッツポーズをした。
「よっしゃー」
 そして、にこにこしながら会長席の室井の元に向かった。
「会長、終わりました。ご協力、感謝しまーす」
 上機嫌の河本を見て、室井がニヤッと笑う。
「うまくいったみたいだな」
「バッチリです」
 両手でピースしながら河本は言った。
「会長のご協力のお陰です。今度、昼飯おごりますね」
「当然。それにしても、かわいかったなぁ、紗枝ちゃん。ウチの学校の隠れたアイドルだもんな。小さいのに威勢が良くて、まるでケンカ好きのウサギみたいだったな」
「その表現イイですね」
 河本が笑う。
「俺も殴られるんじゃないかと思って、途中で恐くなっちゃいましたよ」
「よく言うよ。こっそり見てたけど、お前の悪人ブリもかなりのモンだったぞ。いつもの人のいいお前からは想像もできないくらいで、正直ビックリした。お前、役者だなぁ」
「今日の課題は『インパクトのある出会い』ですからね。でも、初デートにまで漕ぎ着けられるなんて、ラッキーだったな」
「あんまり生徒会を自分の色恋に利用するなよなー」
「利用できるもんは、なんでも利用しなきゃ」
「ま、そりゃそうか」
 室井と河本は顔を見合わせて笑った。
 そもそも、全てがでっち上げだった。美術部を廃部にする話なんてなかったのである。
「好きな人がいるんです!」
と、切羽詰った顔で河本に頭を下げられた敏腕生徒会長の室井が
「仕方ねえなぁ」
とかわいい後輩のために考えた芝居だったのだ。
「後は、今度のデートで芸術に対する理解力のある俺を見せ、そんでもって意地悪なこと言わずに地で接すれば、彼女は俺のことを見直すようになる。これでいいんでしたよね?」
「そう。そして最後の仕上げに、美術部の廃部の危機をお前が救って作戦終了。さすがは俺の計画。完璧。褒めろ、褒めろ」
「ははー、感謝しておりますー」
 ワザとらしく頭を下げる河本を見て、室井は満足そうに笑った。
「ま、後はお前ががんばるんだな。でも、こんな手間の掛かることしないで、さっさとお前の方から告白でもなんでもすれば良かったんじゃないか? 自信がない訳じゃないだろ、お前モテるもんな」
 不思議そうな顔をする室井を見て、河本は少し照れくさそうに言った。
「実は俺、ずっと以前に彼女に会ってるんですよ。好き嫌いの話になる前に、まずはそれを彼女に自分で思い出して欲しくて」
「へー、そうなんだ。でも、思い出さなかったら?」
 河本は肩をすくめた。
「気長に待ちますよ。今までだって待ったんだ。これからも待ちます。俺、気は長い方だから」
 昔を思い出すような懐かしい顔で、河本は静かに微笑んだ。


 そして、約束の日曜日。
 小高い丘の上に立つ市立美術館は、築年数が古い割には見た目に新しく、清潔で堂々とした建物だった。館の入り口で待ち合わせた二人は、すぐに展示物の鑑賞を始めた。
 館内は至って静かで人も疎らだった。
「時々はすっごく有名な画家の絵なんかを展示することもあって、そういう時は人もいっぱいいるんだけど、普段はこんなモンかな」
「ふ〜ん」
 最初に少しだけ会話をした二人は、その後、黙って静かに展示物の鑑賞を続けた。
 芸術作品の鑑賞中、紗枝は口数が減るタイプである。と言うか、ほとんどしゃべらない。心の中で自分自身に感想を述べ、しみじみと感動する。今までに何度か友達を誘ってこの美術館に来たことがあるが、おしゃべりしながらうるさく騒ぐタイプの人間とは、二度と一緒に来ようとしなかった。
 そして河本は、どうやら紗枝と同じく、静かに鑑賞するタイプのようだった。時々感嘆の声を小さくあげる他、いるのかいないのか分からないくらい静かである。
 美術館に着いたのは、紗枝の方が先だった。来ないかもしれないな、と待ちながら紗枝は思った。考えてみれば、今日の約束は紗枝の一方的な押し付けの様なものである。
「ま、いっか。もし来なかったら、一人で観てから帰ろう」
 そんなことを思っていた矢先、河本が現れた。今日の天気と同じく、爽やかな笑顔だった。
「おはよう。ごめん、待たせたかな?」
「ううん、あたしが早く着きすぎたの」
 こっそり時計を見ると、まだ約束の時間の十分前だった。
 それからは、二人ともほとんど話さずに美術鑑賞を続けたのである。時々、紗枝はこっそり河本の様子を盗み見た。昨日の様子からすると、河本はあまり芸術に興味のある方ではないらしい。もし不真面目な態度をとるようだったら、すぐにでも美術館から出て行ってもらおうと思ったのだ。
 しかし、予想に反して、河本はいたって真面目に作品を鑑賞していた。口には出さないけれど、驚いたり、感動したり、これはちょっと……なんて思っているのが、その表情から分かる。
 その表情から見てとれる心の動きが、あまりにも素直で分かりやすかったから、紗枝は時々くすっと笑った。
 館内を歩き回って一時間半程経った時、二人は一番最後の絵画の前にやって来た。壁一面を覆う程大きなその絵のタイトルは『心の鏡』。紗枝がこの美術館にある作品の中で、最も好きな絵だった。
 暗い色で塗りつくされた中にひかれた数本のライン。所々に淡い色で不思議な形の模様が描かれている。
 もしかしたら、たいした作品ではないのかもしれない。でも、紗枝はこの奇妙な絵が大好きだった。その時の精神状態によって、この絵を観た時の印象はいつも違う。
 ふと隣を見ると、河本の目が魅入られたようにこの絵に釘付けになっていた。
「この人もこの絵を気に入ったのかな?」
 そう思うと、お気に入りの絵を褒められたみたいで、なんだか嬉しくなった。
 一通り全ての作品を鑑賞した後、売店で缶ジュースを買った二人は、丘のなだらかな斜面の芝の上に腰を下ろした。春の風が心地よく吹いている。紗枝の短めの髪がふわりと揺れた。
「どうだった?」
 紗枝が聞くと、河本は朝見た時と同じ気持ちの良い笑顔で答えた。
「連れて来てもらって良かったよ」
「ホント?」
「うん、のんびり絵を観たのなんて久しぶりだけど、いいもんだな。なんだかリラックスした気がするし、色々と考えさせられた。特に、最後に観た絵『心の鏡』だっけ? あれが一番好きだったな」
「あ、あたしもそうなの!」
 ガバッと体を起こすと、紗枝は満面の笑顔で河本の方に身を乗り出した。
「あの絵ってね、観る時の気分でいつも感じが違うの。嬉しいことがあった時には優しい印象の絵に見えるし、嫌なことがあった時なんかは、暗くてジメジメした感じがしたり。そっかー、河本くんもあの絵が気に入ったんだ。なんか、嬉しいなー」
 本当に嬉しそうにしている紗枝を見て、河本は小さく笑った。
「俺、これからも時々、ここに絵を観に来ることにするよ」
「ホント?」
「絵や彫刻を観たりするのって、なんだか退屈でおもしろくなさそうって思ってたけど、でも、思ったよりいいもんだなぁって、今日分かった。それに、こんなこと言うと怒られるかもしれないけど。美術館での絵画鑑賞が趣味、っていうのも、ちょっとカッコイイし」
「怒ったりしないわよ。動機なんて、なんだっていいんだもの。どんな理由であったにしろ、芸術品をじかに観たり触れたりすることは、とってもいいことだと思うわ」
「じゃあ、もし良かったら、またここに来る時には誘ってもらえるかな? 一人だと、つい来るのを忘れてしまいそうだし。いいかな?」
「勿論、喜んで」
 河本みたいに静かに絵の鑑賞をするタイプの人間なら、紗枝としても大歓迎である。
「それから……」
 紗枝の目の前で、河本はペコリと頭を下げた。
「昨日はゴメンな。ちょっと言い過ぎた」
 突然の謝罪に驚いて、紗枝は頭と両手をブンブン振った。
「い、いえ、いいのよ。そっちも仕事だもんね。あたしこそ、たくさん失礼なこと言っちゃって。会長さんにも謝らなきゃ。先輩なのに失礼な口きいて。ホント、ごめんなさいね」
「じゃあ、これで仲直りかな?」
「そうね」
 二人は笑いながら握手した。
「あ、そうそう」
 河本は真面目な顔をして紗枝を見た。
「これだけは俺の名誉のために言わせてもらうけど、美術の成績で『1』なんてとったことないから。これでも美術は得意科目なんだ」
 実は小学生の頃、マンガ家になりたかったのだと河本は言う。
「でも、どんなに絵描き歌を練習してもドラえもんが上手に描けなくて、それで諦めたんだ。才能なさそう、ってね」
 紗枝はプッと吹きだし、河本も一緒になって笑った。

 夜になって今日のことを思い返してみると、とてもステキな一日だったと紗枝は思った。
「あたしもドラえもん、何回も画いたなぁ」
 そして、河本と同様、一度もうまく画けたことはなかった。なんだか親近感を感じてしまう。
 昨日の生徒会室での印象と違い、河本は思ったよりいい人らしい、と紗枝は思った。なによりも、自分と同じ絵を気に入ってくれたところが、紗枝を嬉しい気分にさせた。それに、話をしていても気さくで楽しい。
 今度はいつにしようかな、と次にまた河本と一緒に美術館に行く日を、紗枝は自分でも気づかない内に心待ちにし始めていた。

 約一年前のことだった。
 これが紗枝と河本、つまり孝也との出会いだった。
 いつの間にか「河本くん」が「孝也くん」になり「孝也」になった。そして、「高橋さん」と呼ばれていた紗枝も、今は呼び捨てにされている。
 もしかしたら紗枝は、初めて美術館に一緒に行ったこの日に、孝也に恋をしたのかもしれない。
 その後、今に至るまで二人の交際はなんの進歩もなく、しかし平穏に進んでいたのであるが、それがここにきて、変化を見せようとしていた。

 きっかけは勿論、紗枝の父親のニューヨーク転勤騒ぎである。