初夏の風が優しく吹いている。
 ほとんどの生徒が帰宅した静かな学校の中庭で、紗枝は孝也に抱きしめられていた。
「好きだ」
 孝也の声が心地よく耳に響く。
「好きだ」
 紗枝はうっとりと目を閉じた。
 人間は誰でも『自分』というドラマの主人公だ、と言っていたのは誰だっただろうか。
 本当にその通りだ、と、紗枝は温かな孝也の腕の中でそう思った。


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「転勤! しかも、アメリカに?」
 珍しく仕事から早く帰って来た父親と一緒に夕食を囲んでいた紗枝は、驚いて目を見開いた。温厚そうな父親は、にこにこしながらも少し誇らしげに言った。
「会社が今度ニューヨークに支店を作ることになってね、そこの技術スタッフに抜擢されたんだ。いやぁ、父さんもびっくりしてね」
「肩書きは支店長補佐なんですって。あなたの日頃のがんばりが認められたのね。おめでとう」
 テレくさそうに笑う父親のグラスに、母親が上機嫌でビールをついだ。
「それって、単身赴任するってこと?」
 紗枝の言葉に、両親は呆けた顔をした後、プッと吹き出した。
「まさか、そんな訳ないでしょ。勿論、みんなで行くのよ。心配しなくても、ちゃんと紗枝ちゃんも連れて行ってあげるわよ」
「ち、ちょっと待ってよ」
 ガタンと音をたてて紗枝は立ち上がった。
「そんなこと急に言われても困るわよ。だってわたし、高校三年生なのよ、受験生なのよ! そ、それに、英語だってしゃべれないし」
「アメリカの大学に行けばいいじゃないか」
 事も無げに父親は言う。
「それに、あっちに行けば英会話の勉強がタダでできるぞ」
「まさか紗枝ちゃん、行きたくないなんて言うんじゃ……」
 両親の四つの目が、不安そうに紗枝を見つめた。一人っ子の紗枝は、今まで両親から溺愛されて育ってきている。
「もし、紗枝が行きたくないって言うんだったら……父さん単身赴任するしかないな。いや、今回の話、断るか」
「そうね、それも仕方ないわねぇ」
 両親ともガックリと肩を落とし、うな垂れて言う。
「そ、そんな断るなんて、ちょっと待ってよ」
 慌てて紗枝は言った。
「行きたくないなんて言ってないじゃない。それに、もしわたしが行きたくないんだとしても、お父さんとお母さん、二人で行くっていう手もあるんだし」
「いや、家族は一緒にいるべきだ」
 きっぱりと父親は言う。母親も大きく頷いた。
「そうよ、年頃の娘を一人残して、海外になんて行けるもんですか」
「そ、そんなこと言ったって……。ねえ、出立の予定はいつなの?」
「大体、三ヵ月後くらいかなぁ。色々と用意することもあるし。この家だって、誰か借り手をみつけなきゃならないな」
「ねえ、紗枝ちゃんも行くわよね? 行ってくれるでしょう?」
「だって、そんなこと言われたって……」
「なにか行きたくない理由でもあるの?」
 紗枝は押し黙った。
 勿論、理由はある。

「勝手よ、勝手過ぎるわ。ねえ、そう思わない?」
 学校の昼休み、仲良しグループ数人と、並べた机で弁当の包みを囲みながら紗枝は叫んだ。
「高三の、もうすぐ一学期が終わろうとしているこの時期に、いきなりニューヨークに行こうって言われて、はいそうですか、なんて言えると思う?」
「でも、お父さん栄転なんでしょう? それはオメデタイことじゃない」
 一番の親友、宮子がウィンナーに箸を付きたてながら言った。
「出世の大チャンスなんでしょう? それを、娘が一緒にいかないんだったら断るって言ってくれてるなんて、いいお父さんじゃないの」
「でも、そんなこと言われたら、行きたくなくてもそう言えないじゃない」
「行きたくないの?」
 グループの一人が驚いたように声を上げる。
「なんでぇ? あたしだったら、喜んで行くけどなl」
「あたしもー。ニューヨークなんてカッコイイじゃない」
「日本にいなきゃならない理由なんてないしねぇ」
「紗枝って、行きたい大学とかがあるんだっけ?」
「い、いや、特にはないけど」
 紗枝はしどろもどろに答えた。
「で、でも、友達とも別れなきゃならないのよ? そんなの悲しいじゃない。みんなだってそうでしょう?」
「あーら、あたしたちなら大丈夫。来年の夏休みにでも、みんなをニューヨークに招待してくれるって約束してくれるなら、絶対にあんたのことを忘れないわ。ねえ?」
 周りの少女たちみんなが楽しそうに頷く。
「みんな冷たい!」
 ブーと頬を膨らます紗枝のセミロングの髪を、宮子が横からツンツン引っ張った。
「白状しちゃいなさいよ。本当は行きたくない理由があるんでしょう? ん?」
「そ、そんなの、別にないわよ!」
「じゃあ、どうしてニューヨークに行きたくないのよ」
「そ、それは、だから……」
「河本孝也」
 急に宮子の口から出た名前を耳にした途端、紗枝の顔がカァッと赤くなった。それを見て、友人たちがニヤニヤ笑う。
「紗枝って隠し事ができないタイプよね」
「ホント、顔が正直ぃー」
 くすくす笑う友人たちを睨みつけながら、紗枝は頭から湯気を出して立ち上がった。
「なによ、なによ、なによー! みんなであたしのことからかって!」
「まあまあ、落ち着きなさいよ」
 宮子が笑いながら、紗枝の両肩を押さえつけて椅子に座らせた。
「で、実際のところ、どうなのよ? 彼のことが気になってんじゃないの?」
 紗枝は口をとがらせ、目だけを動かしながら友人たちを見回した後、観念してコクリと頷いた。
「気にならないって言ったら嘘になる」
 やっぱり、とみんなは頷く。
「あんたちちって、付き合ってんの?」
 宮子の問いに、紗枝は大慌てで首を振った。
「つ、付き合ってなんていないわよ」
「だって、頻繁にデートとかしてるんでしょう?」
「デートなんかじゃないわ。ただ、一緒に美術館に行ったり、たまに映画を観に行ったりしてるだけよ」
「そういうのを、世間では一般にデートって言うのよ」
 呆れたように宮子は言った。
「違うってば!」
 ムキになって紗枝は言う。
「だって、デートっていうのは、恋人同士がするものでしょう? あたしたちはそういう関係じゃないもの」
「じゃあ、どういう関係なのよ?」
「そ、それは……」
 紗枝は黙った。
 それがよく分からないから、困っているのだった。

 三年生になって引退したが、紗枝は元美術部員である。二年生の時は部長を務めていた。だから、絵画鑑賞をしたりするのが勿論好きで、中学生くらいの時から、暇さえあれば一人で市の美術館に絵を観に行くのが習慣になっていた。その美術館通いに、いつのまにか加わったのが河本孝也である。
 一ヶ月に一度か二度、日曜日の午前中、紗枝と孝也は美術館に足を運ぶ。そして、二人静かに肩を並べて館内を歩き回るのだ。絵を観た後の予定は、その日によってまちまちである。その場で解散することもあれば、二人の観たい映画が一致した時など、映画館に足を運ぶこともある。どちらかが買い物をしたい時には、一緒にショッピング街に出かけたりもする。
「そんなの、絶対に付き合ってるとしか思えない」
 宮子はそう言うが、そうじゃない、と紗枝は思っている。
 だって、お互いに好きだなんて言葉を、一度だって言ったことはないのだから。
「付き合っていないんだとしたら、一体どういう関係なのよ?」
 気の短い宮子は、煮え切らない二人の関係にいつもイライラしていて、よく怒った顔で紗枝にそう詰め寄る。
 その度に、紗枝は首を傾げながら、取り合えず、こう答えるのだ。
「さあ、友達なんじゃないかな?」
「紗枝はどう思ってるの? 孝也のこと好きなの、好きじゃないの?」
「あ、あたしは……」
 いつもは明るく元気でハキハキしている紗枝ではあるが、この話になると決まって口数が減ってしまう。
「あんまりボヤボヤしてると、他の子にとられちゃうわよ。あんたは知らないかもしれないけど、孝也って、あれで結構モテるんだから。顔だってカッコイイしね」
 宮子の言っていることは本当である。紗枝だって、孝也がモテることは知っていた。

 一ヶ月ほど前の出来事である。
 美術部を引退した三年になってからも、用さえなければ決まって毎日、紗枝は校内のどこかでキャンバスを広げて絵を描いていた。本当言うと、それ程上手いという訳ではない。でも、紗枝は絵を描くことが好きだった。幼稚園児の頃から、自由時間ともなると、粘土遊びをするでもなく、友達と園庭を走り回るでもなく、いつもクレヨンを握り締めているような子供だったのである。
 絵を描いていると、心が落ち着く。
 だから、その日も放課後、美術室に道具を取りに行くため教室を出ようとした時、紗枝は誰かに呼び止められた。
「高橋紗枝さん?」
 振り向いた先には、別のクラスの女の子がいた。少しキツめの美人で、話したことはないが顔は知っている。金髪に近い茶色の長い髪が、枝毛だらけでなんだかやけに汚らしい。
「あなた、河本くんと付き合ってんのぉ?」
 いきなりそんなこと聞かれて、紗枝はドキッとした後、ムッとした。
「なんで?」
「実はあたしぃ、河本くんのこと好きでコクろうと思ってるんだけどぉ、あんたが河本くんと付き合ってるって噂聞いて、確かめにきた訳ぇ。で、どうなのよ?」
 いつの間にか「あなた」から「あんた」になっている。ムカつき度が更にアップした紗枝ではあったが、質問された内容に動揺してしまい、口調が逃げ腰になってしまった。
「えっと、それは……」
「どうなのよぉ、ハッキリしなさいよ」
「付き合ってはいない……と思う」
「思うぅ?」
「う、うん」
「ふーん、なんだかハッキリしないわねえ」
 自分でもそう思う。なんだか紗枝は後ろめたくなってきて、俯いてしまった。
 そんな紗枝を頭のてっぺんからつま先まで、舐めるように眺めていたその女は、フンと鼻で笑った後、軽い口調でこう言ってのけたのである。
「ま、いっか。付き合っていたとしても、関係ないしね」
「? なにが? どういうこと?」
「だって、相手があんたみたいな十人並みだったら、奪うのもラクショーだもんね、ははははは」
 相手の大口を開けた高笑いを聞いている内に、紗枝はブチッと切れてしまった。気がついた時には取っ組み合いのケンカをしてしまっていて、クラスメート数人から取り押さえられていたのである。
 相手の女は二言三言の捨てゼリフを残し、怒って自分のクラスに帰ってしまった。
 髪を振り乱し、胸でハァハァ息をする紗枝に、宮子が片方の眉を吊り上げて言った。
「バカね、あんな頭の悪そうな女のこと、無視してれば良かったのよ。大体、あの女なんかより紗枝の方がよっぽどかわいくて、男の子にモテるんだから」
「でも、なんかすっごく頭にきちゃったんだもん!」
「分かるけどさ、でも、相手にする方がバカみたいじゃない」
「だって、あんなこと言われて、黙って引き下がれないわよ」
 ホントに、ホントーに頭にきたのだ。あんなに性格が悪くて、バカみたいなしゃべり方をして、顔はちょっとキレイかもしれないけど、でも下品で頭の悪そうな女が、孝也のことを好きだなんて、そのことが紗枝には許せなかった。気分が悪かった。ムシャクシャした。
 だから、普通だったら絶対にしない乱闘騒ぎなんかを、高二にもなって起こしてしまったのである。女の子であるのにも関わらず。
 家に帰ってからそのことを思い出してみると、もう、恥ずかしくて恥ずかしくて、穴があったら入りたいどころではなく、死んでしまいたくなるくらい落ち込んでしまった。
「あの騒ぎのこと、孝也は知ってるのかな? もう、誰かに聞いたかしら?」
 学校で暴れたというだけでもバカ丸出しなのに、その原因が孝也だということを知ったら、アイツはどう思うかしら? 
 その日、紗枝はそのことを布団の中でモンモンと考え、一睡もできなかった。
 次の日の放課後、学校の中庭で絵を描いていた紗枝の所に、孝也がやって来た。生徒会役員の孝也は、いつも放課後は校内に残っているが、暇な時など、時々こうやって紗枝の所に遊びに来ることがある。
「なんか、すごいコトやらかしたんだって?」
 ニヤニヤ笑いながら孝也が言った。
 小柄な紗枝に対し、孝也はどちらかと言うと、いや、かなり背が高い方である。紗枝は下から見上げるように孝也を睨んだ。恥ずかしさと気まずさを隠すために、わざと不機嫌そうな口調で言った。
「なによ? なんか文句でもあるの?」
「文句なんかないけど、もう少し、おしとやかにした方がいいんじゃない? 一応、女なんだからさ」
 耳に痛い言葉である。恥ずかしくて赤くなった顔を見られないように、紗枝は孝也に背を向けて絵を描き続けながら言った。
「どうせあたしは、ガサツで品がなくて乱暴で女らしくないわよ。仕方ないでしょ、性格なんだから!」
「ははは、そりゃそうだ。簡単に直るくらいなら苦労しないよな。でも」
 孝也は紗枝のすぐ後ろまでくると、絵を覗き込みながら言った。
「話聞いて、ちょっとスッとした。俺、あの女嫌いだったんだ」
「孝也、あの女のこと知ってるの?」
「うん、去年同じクラスだった。なんか妙に馴れ馴れしくてさあ、べたべた体触ってくるし」
「ベタベタ?」
「しつこく頼まれて携帯のメールアドレス教えたら、もう嫌味かと思うくらい毎日たくさんのメールが届くんだ。そのせいで一度アドレスを変更したこともある」
「へ、へえ、そうなんだ」
 もう二・三発殴っときゃよかったと紗枝は思った。
「だから俺としては、よくやった、って感じかな。エライエライ」
 言いながら孝也は紗枝の頭をよしよしと撫でた。お陰で、せっかく元に戻っていた紗枝の顔色が、今度は別の理由からボッと赤くなった。
「も、もう、やめてよね! ちょっと背が高いからって人を小さな子供みたいに扱うのは!」
 本当は嬉しかったけど、紗枝はそう言って孝也の手を振り払った。孝也は両手を挙げて笑ってから言った。
「まだしばらく絵描くの?」
「そのつもりだけど、なんで?」
「俺の代わりに紗枝があの女に天誅を与えてくれたってことで、お礼になんかおごろうかなって。俺も今日は、もう生徒会の仕事終わったし」
「ホント? ラッキー! だったら今すぐ道具を片付ける」
「俺も荷物取って、またここに来るよ」
「あ、ちょっと待って」
 立ち去ろうとする孝也を紗枝は呼び止めた。
「なに?」
 絵の道具を片付けながら、できるだけ素っ気無く紗枝は聞いた。
「あたしがあの女とケンカした理由、誰かに聞いた?」
 紗枝の胸の奥で、心臓がバックンバックン音をたてた。
 もし知っていたら、どうしよう。どうしよう。どうしよう。
 紗枝の額を、冷たい汗が流れる。
「……いや、知らない」
 さらりと孝也が言った。
 それを聞いて、紗枝の体から一瞬にして緊張が解けた。
「あ、そう、それならいいんだ」
「言われてみれば、ケンカの理由知らないな。なんだったんだ?」
「いいの、いいの。孝也には関係のないことなんだから。早く荷物取っておいでよ」
「なんだよ、変なヤツ。……あ、そう言えば、言い忘れてた」
「な、なにっ?」
 なにを言われるのか。紗枝の心臓が大きく跳ね上がった。孝也がニヤリと笑う。
「紗枝って全然絵が上手くならないのな。これで美術部の部長だったなんてウソみたい」
「……う、うるさいわね、ほっといてよ! どうせあたしはヘタの横好きよ!」
「はは、ジョーダンジョーダン。じゃ、後でな」
「はいはい、後でね」
 孝也の姿が完全に見えなくなると、紗枝はヘナヘナとその場に座り込んだ。
「よ、良かった〜。孝也、何も知らないみたい」
 もしケンカの理由を知られていたら、もう、二度と孝也とは顔を合わせられないところだ。紗枝は心底ホッとした。そして、ウキウキしながら帰り支度を急いだのである。
 でも。
 後日考えてみると、孝也は本当にケンカの理由を知らなかったのだろうか、と紗枝は首を傾げた。本当は知っていたのに、わざと知らないフリをしてくれたんじゃないのだろーか。
 孝也は優しい。それに、頭だっていい。
 だから、本当は知っていたのに、紗枝が気まずい思いをすると思って、なにも知らないフリをしてくれたんじゃないのか。それは有り得る、と紗枝は思った。孝也はそういう気配りのできるタイプである。だからこそ、女の子に人気があるのだ。孝也がモテる理由は、顔が整ってるからだけではない。
「孝也って、あれで結構モテるんだから」
 宮子に言われるまでもない。そんなこと、とっくのとっくのとーっくの昔から紗枝は知っている。
 乱闘騒ぎなんて起こしたのはあれが最初で最後だが、同級生や下級生の女の子から「河本くんと付き合ってるって噂、本当ですか?」なんてモジモジしながら聞かれたことなど、今までに何回だってあるのだから。そして、その度に「付き合ってない」と紗枝は答えてきた。
 そんなことのあった日の夜、紗枝は決まってベッドの中で丸くなり、シクシク痛む胃を押さえて色々と考え悩むことになる。
「あの子、孝也に告白するのかな? ちょっとカワイイ子だったけど……。孝也はなんて返事をするのかしら」
 朝まで眠れずに過ごしたことなど、一度や二度のことではない。
 そして、ショボショボした目で朝日を見る度に、紗枝は思うのだ。
「あたし、孝也のことが好きなんだ」
 でも、今更そんなこと孝也に言えなかった。言ってしまって、今までの関係が壊れることが恐かった。
 孝也の気持ちが知りたい。でも、恐くてきけない。
 こんな悩みを、もう紗枝は一年も抱えていたのである。

 二人が出会ったのは、去年の春のことだった。