あたしが長い髪を揺らして廊下を走っていると、音楽室の方からピアノの音が微かに聞こえてきた。
放課後の、もうかなり遅い時間。
廊下にはもう誰の姿も見えないし、ピアノ以外に聞こえてくる音と言えば、遠く離れたグランドで練習に励んでいる野球部員の掛け声くらい。
「誰が残ってるんだろう?」
立ち止まり、自分にしか聞こえないくらいの小声でそう呟くと、あたしはちょっと困った顔をした。
だって、音楽室に行かなくちゃならないんだもの。別に人見知りするタイプじゃないけど、ピアノをひいている人の邪魔をするのが申しわけなくて、ちょっぴり音楽室に入りづらい。
それに、誰が弾いているのかも分からないんだから。
あたしは合唱部に所属している。
いつもは週に二日しか練習日はないんだけど、全国高校生合唱コンクールが近いせいで、このところ毎日のように放課後は練習にあけくれている。もちろん、場所は音楽室。
今日の練習が終わって家に帰り着いたあたしは、カバンの中に楽譜が入っていないことに気づいた。
まいったなぁ、もう、どうしよう。
今日は金曜日。だから、明日と明後日は学校が休みだ。
週末も家で歌の練習をしようと思っていたのに、なんたるドジ。
眉間にシワを寄せながら頬を膨らまし、しばらく考え込んだあたしは、やっぱり学校に戻ることにした。そう、忘れた楽譜を音楽室に取りに行くために。
家から学校までは、自転車で十五分の距離しかない。
あたしはすぐに家を出て自転車にまたがると、学校を目指して一目散にペダルをこいだ。そして、やっと学校に着くと、急いで音楽室に向かった。
そこで、ピアノの音に気付いたというワケ。
ピアノを弾いているのが、あたしの知っている人ならいいのに。だって、それならまだ中に入りやすいもの。
そんなことを思いながら歩いている内に、とうとう音楽室の前まで来てしまった。防音がきいているから、ここまできてもピアノの音はあまり大きくない。
中の様子を見るため、あたしはそっと、ドアについているガラス窓から中の様子をのぞいてみた。確かピアノは、このドアの真正面、音楽室前方の窓際にあったはず。
のぞいて見ると、思ったより室内は暗かった。
沈みかけた太陽の光が窓から差し込んでいて、それが室内を照らす唯一のあかりになっている。
その夕日を受けて、誰かがピアノを弾いていた。
夕日が逆光になっていて、その人とピアノの黒いシルエットだけが、オレンジ色の中に浮かび上がっている。
自分でも気づかない内に、あたしの目はその人に釘付けになっていた。
「新任の宮本先生?」
目を細めたあたしは、ぼそりとそう呟いた。
そう、確かあの人は、一ヶ月前、四月からうちの学校に赴任してきたばかりの数学教師、宮本先生だ。三月に大学を卒業したばかりの、正真正銘の新米教師。始業式での挨拶の時、校長がそう紹介していたことを、あたしはボンヤリ思い出す。
ピアノと数学教師、しかも、男。
なんだかあまりにも不釣合いで、奇妙な気さえしてきてしまう。
でも、ピアノは上手だ。あたし自身はピアノなんて弾けないけど、先生の奏でる旋律を聞けば、少なくとも下手じゃないことだけは分かる。
鍵盤の上で滑らかに動く手。その手があまりにも美しく見えて、その手が作り出す音楽があまりにも心地よくて、もっと近くで聞きたくて、気がつくと、あたしは音楽室のドアを開けていた。
その途端、ピアノの音が止まった。
「あ、あれ?」
立ち上がり、少しテレ臭そうな顔をして宮本先生があたしを見た。
「え…っと、きみは………」
「三年C組の中原知佳です。忘れ物を取りにきました」
あたしがそう言うと、先生は申しわけなさそうに頭をかいた。
「ごめんな、担当しているクラスの子以外、まだ全然顔を覚えてなくて」
赴任してきて一ヶ月。クラス担任をしているワケでもないし、各学年の数学授業を一、二クラスだけしか担当していない宮本先生が、あたしを知っているワケがない。
だって、あたしと先生が顔を合わせたのは、これが初めてだから。
「先生、ピアノ上手なのね」
そう言うと、先生は恥ずかしそうにはにかんだ。
「いやぁ、久しぶりに弾いたんだ。ここを通りかかったらピアノが目について」
「習ってたの?」
「うん、三歳から高校生まで。親に無理矢理やらされてたんだけど、久しぶりに弾くと、なんだかすごく懐かしくて」
中肉中背。可もなく不可もない平凡な顔つき。宮本先生が女子生徒に人気があるという噂なんて、これまで一度も聞いたことがない。
でも、あたしは気に入った。
宮本先生のことが、たった今、とても気に入った。
さっき、先生がピアノを弾く姿を見た瞬間、美しい手の動きを見た瞬間、あたしの胸がドキンと鳴った。
多分、その時だ。あたしは恋に落ちたのは。
あの手を見た時、先生のことが好きになったんだと思う。一目惚れしちゃったんだと思う。
それが自分ではっきりと分かった。
だから、言った。
「先生、あたし、先生のことが好きになっちゃったみたい」
途端に先生の目が点になる。
「はぁ?」
「好きになったの。だから、あたしと付き合ってくれない?」
先生は驚いたように目を見開き、同時に真っ赤になった。
「な、な、なにを言ってるんだい、きみは?!」
動揺しまくって声が裏返ってる。そういう単純なところも好感が持てる。ますます気に入った。
あたしは笑顔で先生に近づいた。なんだか少し脅えたように、先生が一歩後ろに下がる。かわいいなぁ、先生。本当にかわいい。
先生の目の前まで来ると、あたしより頭一つ分ほど高い位置にある先生の顔を、にこにこしながら見上げた。
「ねえ、ダメ? あたし、本当に先生のことが好きなの。いいでしょう?」
「そ、そ、そんなのダメに決まってるだろう? そういうタチの悪い冗談は………」
「冗談じゃないって。本気なの。ねえ、どうしてダメなの?」
「だって、俺たちは今初めて会ったばかりだろう………い、いや、そうじゃなくて、教師と生徒じゃないか」
そこまで言うと、先生はふと思いついたように窓の外を見た。
夕日はすっかり沈み、もう空は濃い紫色になっている。音楽室の時計は、すでに六時を回っていた。
「と、とにかく、もういいから、忘れ物を取って早く家に帰りなさい。今の話は聞かなかったことにするから」
先生、あたしを厄介払いしようとしてる。
少し落ち着きを取り戻し、急に教師らしい雰囲気でもってそう言い出した先生に、あたしは頬を膨らませてみせた。
聞かなかったことにする? 冗談じゃない!
内ドアでつながっている隣の音楽準備室に行くと、忘れていた楽譜を取って、あたしはまた先生の目の前に戻ってきた。
そして、何気なく先生の頭を見上げて言った。
「あ、先生。髪の毛にゴミがついてる」
「え、どこ?」
頭を触ってゴミを見つけようとする先生。
「あ、違う。そこじゃない。取ってあげるから、ちょっとかがんで」
あたしの言ったウソを信じ、無防備に膝を曲げた先生の首元に、あたしは腕をからみつけて強く抱きついた。そして、そのまま先生の唇に自分の唇を重ね合わせた。
驚いた先生が、声にならない声を上げる。
「んー?! んん、んーっ!!」
そして、今度はあたしの体を自分から引き離そうとしたけど、そう簡単には離れてやらない。それどころか、あたしはキスを、それまでのものよりもっと深い、大人のキスに切り替えた。
先生がさらにジタバタしはじめる。
あー、もう、ホント、先生ってかわいい。
しばらくキスを堪能してから、あたしは先生を解放してやった。そして、放心状態の先生を見て、くすりと笑った。
「あたしたち、教師と生徒だもんねぇ。こんなことしちゃ、ダメなんでしょう?」
先生は目を点にしたまま、放心したようにあたしを見続ける。
「でも、しちゃったもんね。これってかなりヤバイんじゃない? どうする、みんなにバレたら?」
「………ま、まさか、みんなに言うつもりか?!」
血の気を引かせた先生に、あたしはにっこり笑って言った。
「言っちゃおうかなぁ。しかも、先生に無理矢理やられたって」
青いのを通り越して、先生の顔は白くなる。
「や、やめてくれっ!」
「だったら、あたしと付き合ってくれる? いいじゃない、後一年もしない内にあたしは高校を卒業しちゃうんだし。そしたら、もう教師と生徒でもなくなるでしょう?」
「そ、そんなこと、できるわけないだろう!」
「だったら、今から泣きながら職員室に駆け込んで、宮本先生に襲われましたーって、担任の先生に泣きついちゃおうかなぁ」
「そ、それは困る」
泣きそうな顔の先生。イジメちゃって、ごめんね。でも、これも愛あればこそよ。
「じゃあ、あたしと付き合ってよ。自分で言うのもなんだけど、あたし、けっこうな美人でしょ? どちらかと言うと大人っぽい顔してるし、童顔の先生とは、見た目にも似合ってると思うんだけど」
「そういう問題じゃないだろう!」
「そう悪い話じゃないと思うんだけどなぁ。性格だって、そう悪い方じゃないし、付き合っている内に、絶対に先生もあたしを好きになるわよ」
そう言うと、先生がちょっぴり怒った顔をした。
「こんな脅迫まがいのことをしておいて、どこが性格いいって言うんだ」
でも、あたしはそんなことではひるまない。
「これも、大好きな先生と付き合うためじゃない。一途な乙女心でしょう? ねえ、どうする? 付き合う? それとも、教師やめる?」
ニヤニヤしながらあたしが訊くと、先生は途方にくれた顔をした。そして、大きく溜息をつく。
「………わ、分かったよ」
「やったー!!」
あたしが歓喜の声を上げて飛び上がると、その隣で、先生はがっくりと肩を落とした。
「ああ、なんでこんなことになっちゃったんだろう」
そして、懇願するような目であたしを見た。
「頼むから、このことは絶対に誰にも言わないでくれよ。分かってるよな?」
「当然じゃないの。自分の彼氏を苦境に落ち込ませるようなこと、あたしがするわけないじゃない」
彼氏、という言葉を聞いて、先生がまた大きな溜息をつく。
そして、腕時計を見てから言った。
「とにかく、今日はもう遅いから家に帰りなさい」
「はーい」
あたしは上機嫌で素直に返事をした。そりゃそうよ。だって、今はもう先生はあたしの彼氏。彼氏の言うコトなら、ちゃんと素直になんでもききますよ。
当初の目的だった楽譜をしっかり手に持ち、音楽室のドアを出ようとして、あたしは先生を振り返った。
「先生、大好き」
そう言って手を振ると、先生は引きつった笑顔を見せながらも、つられたようにあたしに向かって手を振ってくれた。
「き、気をつけて帰るんだぞ」
あんなことしたのに、それでもあたしを気使ってくれる先生。ああ、本当に優しい人なんだな、とあたしは心底思う。
そして、そのことがとても嬉しくて、たまらなくなって、あたしはもう一度、走って戻って先生に抱きついた。あせった先生は、また顔を真っ赤にしてジタバタする。
「先生、本当に大好き! あたしが絶対、先生のこと幸せにしてあげるね」
「それは普通、男の言うセリフだろ?! っていうか、早く離れろ!」
「ふふふ、いやだよーだ」
こうして、あたしたちの楽しい交際がスタートした。後は少しずつ時間をかけて、先生にあたしを好きになってもらえばいい。
すっかり日が暮れて暗くなった家へと続く道を、あたしはウキウキ気分でゆっくり自転車を走らせた。
楽譜を忘れてよかった。
さ、明日から楽しくなるぞー!
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