幼い頃から、柏木雅也はいつもクラスのリーダーだった。
頭が良くて顔もよくて家柄もいい。既に引退してしまっているが、彼の祖父は何代か前の内閣において、大臣の地位にもあった人物である。それは柏木が通った名門私立小学校の中でも、特に際立った経歴あるお家柄で、当然のごとくクラスメートたちは柏木を憧れや羨望の目で見つめ、まるで金魚のフンのように彼の後ろをついて回った。
柏木の周りには、彼に気に入られようとする友人たちがいつも取り巻いている。
顔がよく外面もよかったので、女の子にもよくモテた。成績優秀だったので、教師からもかわいがられた。
両親、特に母親はそんな息子を自慢に思い、異常なほどかわいがった。望む物はなんでも買い与えたし、どんな不自由もさせなかった。
言うことをなんでも聞く友人たち、それに母親。親戚や近所の大人たちも、みな笑顔で「えらいえらい、かわいいかわいい」と柏木の頭を撫でてくれる。
自分はすごい。だから誰も逆らわないし、誰もが自分に夢中になるんだ。
柏木少年がそう思い、極度の自愛心と自尊心を己の中に育て上げるのに、そう時間はかからなかった(迷惑なことに)。
しかし、まあ、それだけなら、水樹の昔からの腐れ縁、今は地元の青桐大学に通っている山崎宗太郎や横山百合子とそう変わりはない。面倒臭い相手ではあるが、そう御しにくいわけではない。使い方によっては役に立つこともある。
しかし、彼らと柏木には大きく違う点があった。それは、柏木がバカではない、というところで、それだけにまたタチが悪かったのである。
その柏木こそが里奈の兄、天下の名門私立K大学、今は経済学部の三年に在籍する柏木雅也という男だった。
「ひどいわ。ねえ、あんまりだと思わない。あの人、人前でわたしの顔に水をかけたのよ」
涙が流れる大きな瞳をハンカチで押さえながら訴える美咲に、柏木は同情するような声で言った。
「そうだね。あまりにひどいね。美咲、大丈夫だったかい?」
場所は人気のない夜の公園、駐車場に止めた柏木自慢の愛車の中である。その助手席に座り、しくしくと泣き続ける美咲の肩に、柏木は優しく慰めるように右手を置いた。
「まさか、彼女がそんなことをする子だったとはね。俺も驚いたよ。美咲、もう気にするな。それに、二度と水樹ちゃんには近寄らない方がいい。ほら、涙を拭いて」
頬をつたう涙を柏木が指で拭うと、美咲はたまらず柏木の胸に自分の頬をうめた。
「だって、雅也さんがあんなこと言うから、キスしたなんて言うから、だからわたし、勇気を出してあの人に会いに行ったのよ。ねえ、本当のことを教えて。雅也さん、あの水樹って人に惹かれているの?」
「俺が? まさか」
微笑ながら柏木は言う。
「そんなこと、あるわけないじゃないか。俺は美咲だけだよ。キスだって頬にしただけさ。外国式の挨拶のようなもの。それ以上の意味はないよ」
柏木の胸の中で美咲が顔を上げる。
「本当に? でも、最近のあなたの態度、少しおかしかったわ。わたしと一緒にいても、心ここにあらずっていう感じだった。それでわたし、不安になってしまったの。―――あの人、とても綺麗な人だったわ。わたしなんて、とても太刀打ちできないくらい」
「最近、少し疲れててね。態度がおかしかったのは、そのせいだよ。卒業後のことを考えて、政治のことを勉強するように父から言われていて、それで寝不足が続いてるんだ。それと、実は理由がもう一つある」
「なに?」
「大好きな美咲に嫉妬して欲しかったのさ」
茶目っ気のある顔で柏木がそう言うと、美咲は困ったような嬉しいような表情をしてみせた。
「悪い人ね。わたし、本当に不安だったのよ」
「でも、俺は嬉しかったよ。美咲の俺を想う気持ちがよく分かって。それから言っておくけど、確かにあの水樹って子は綺麗だけど、美咲の方が全然綺麗だよ。少なくとも俺はそう思ってる」
美咲の頬に手を添えると、その唇に柏木はキスをした。
陶酔したように、うっとりと美咲は瞳を閉じる。それに対し、柏木の表情は冷静そのものだ。目を閉じようともしない。
単純な女だ、と無表情に美咲を見つめながら柏木は思う。しかし、従順で扱いやすく、結婚するならこの女しかいない、とも柏木は思っていた。
そう、結婚するならこの手のタイプが一番なのだ。逆らうことはせず、ただひたすらに男を信じて後ろからついてくるような、そんなタイプが。
いずれ美咲と結婚をする。そうすれば親も喜ぶし、自分としても不満はない。妻として他人に紹介した時、充分に優越感に浸れる容姿を美咲は備えている。
祖父の後を継いで政治家になった伯父に息子はなく、彼の持っている選挙基盤はいずれ柏木のものになると決まっていた。その際に、美咲の親の財力は役に立つ。いや、柏木家も充分な財産のある家柄ではあるが、金はあるに越したことはない。
色々な意味で、美咲は結婚相手として申し分のない相手だった。
そう、結婚相手としては。
しかし、恋愛相手としては退屈すぎてつまらない。恋をするなら、もっと刺激のあるタイプがいい。その方が楽しめる。
柏木はこれまでたくさんの女たちと付き合ってきたが、どれもピンとこない相手ばかりだった。顔だけよくても頭が悪い。そんな女はすぐに飽きる。それに、そういった女たちの全てが、容姿において美咲に劣っていた。これではつまらない。
そう思っていた柏木が、出会った瞬間にビビビッを感じる相手を見つけたのが、約一ヶ月前のことである。
彼女の名前は田所水樹。
美しく聡明で、どこか近寄りがたい雰囲気を持つ水樹をひと目見た時、さすがの柏木も驚いた。こんな女がいるんだ、と驚愕したとともに、心が歓喜に躍りたった。
しかし、彼女には男がいる。その男がまた水樹に似合いのいい男で、柏木はその男が大嫌いだった。誰とでもすぐに仲良くなり、自然体で周囲の人間から好かれる彼を見ていると、柏木はイライラするのだ。
暇つぶしのためと、女との出会いを目的に柏木がアルバイトをしていた居酒屋に、その男は後輩バイト生としてひょっこりと現れた。その日から、柏木を取り巻く雰囲気はガラリと変わった。
誰もがその男を好きになり、彼が店に出てくるのを楽しみにするようになった。シフトの関係で彼がいない日など、みんな目に見えてつまらなそうにしている。
柏木は表面上は穏やかだったし、親切に仕事を教えて彼と仲良くなりながらも、本当は歯軋りしたい思いだった。
今その男がいる場所は、以前は柏木がいた場所だった。
世界は自分を中心に回っている。それは、柏木がいつも思っていることである。
居酒屋でもそうだった。バイト仲間のリーダは自分だったし、一番皆から慕われているのも自分だった。女の子はみんな自分に色目を使った。
だったのに………。
その場所を意図も簡単に奪われた。悔しいだなんて思わない。自分が嫉妬しているなんて認めない。ただ、ひたすらにその男が憎らしかった。
その憎らしい男が、妹の家庭教師にどうかと、家に連れてきたのが水樹である。
目を見張る美貌、知己にとんだ会話、優雅な身のこなし。冷たい雰囲気があるものの、それが生まれ持った気品からくるものと思えば納得できる。どこを取ってみても過不足のない女。
一目見て、柏木は水樹に惹かれた。嫌なあの男から奪ってやろうと、すぐにそう思った。
しかし、一筋縄ではいかない。
親切を装って車で家に送ってやった時、水樹は柏木に見向きもしなかった。隙をついて頬にキスをしたら、猛烈に怒った表情を見せた。
大抵の女は自分にキスされると喜ぶのに……。
脈はないとあきらめることにした。下手に告白なんかして、フラれるなんてことは自尊心が許さない。だから、そうたいした女じゃなかった、と思うことにした。
しかし。
「顔に水をかけた、ね」
美咲から唇を離すと、無意識に柏木はそう呟いた。それを耳にした美咲が、怪訝そうな顔をする。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。それより、もう遅い時間だから家に送るよ。それとも、もっと遅くなっても平気なのかな? もっと落ち着ける場所に行く?」
美咲は顔を赤くしてうつむいた。
「嫌だわ、変な冗談言って。お母様には雅也さんと一緒だって言ってあるの。あまり遅くなっちゃうとあなたが信用を失ってしまうわ。わたし、そんなの嫌よ」
「冗談だよ。さ、行こうか」
笑顔でそう言うと、柏木は車のエンジンをかけた。そして、軽快なエンジン音を響かせて車を走らせる。
美咲を家に送り届けたら、並行して付き合っている他の女の中から一人選んで、憂さ晴らしにホテルにでも行こう。優しげな笑顔の裏で、柏木はそんなことを考える。
確かに美咲はかわいいし純粋だし財産はあるし、妻にするならもってこいの女だ。しかし、彼女としては退屈すぎる。面白みがない。
そう刺激、柏木は刺激を求めていた。
そして、その刺激を最も与えてくれそうな女をついに見つけたのだ。
柏木は唇の片側をつり上げて、ニヤリと笑った。
美咲に水をかけたのは、それはきっと嫉妬したからだ。それはなぜか? 美咲が自分の彼女だからに決まっている。ということは、つまり水樹は………。
ああ、もう本当に笑いがとまらない。
美咲さえ隣にいなければ、高笑いしているところである。やはり、世界は自分を中心に回っていると柏木は確信する。
近いうちに水樹とコンタクトをとらなければならない。彼女もそれを望んでいるはずだから。
柏木の見る限り、水樹はかなりプライドの高い女である。普通に迫っても、嬉しさを隠し、きっとまた興味のないふりをして迷惑顔をするに違いない。
しかし、柏木の女関係は幅広い。あの手の女とは、これまでに何人も付き合ってきている。金持ちのお嬢様に多いタイプで、安く見られたくないがために、いつも取り澄ましてお高くとまっていが、しかし、そういったタイプに限って一度体の関係を持ってしまえばなし崩しである。
素直じゃないんだよね。
心の中でそう呟き、柏木は美咲に気づかれないように密かに笑った。
言い換えると、そういうところが、あの手の女のかわいいところと言えるのだけれど。
「まあ、いい。うまい手を考えてあげるよ。じっくりと、ね」
柏木は頭の中でよからぬ計画を考え進めながら、ハンドルを握っていない方の手で、美咲の髪を優しく撫でた。
その日、里奈と吉田が駅前で会ったのは、全くの偶然だった。ついつい太陽の存在を疎ましく思ってしまう、熱気こもった湿気の多い午後の昼下がりである。
「あれぇ、吉田さん、こんなところでなにしてるの?」
「里奈ちゃんこそ、勉強もしないでフラフラして、また水樹ちゃんに叱られるぞ?」
からかうように吉田が言うと、里奈は苦笑した。
「あたし、そんなに怒られてばっかりじゃないわよ。それに、今日は家に顔を見せに帰ってて、今戻ってきたところなの」
「そうだったのか。俺はいつものごとく、またアパート探し」
「大変だね。いい物件見つかった?」
肩を落として吉田は首を横に振る。
「ないこともないんだけど、値段が高かったり学校から遠すぎたり。微妙に条件が合わないんだよな」
「のんびり探すしかないよ。水樹先生だって、そうしろって言ってくれてたじゃない」
「う〜ん、それがそうもいかなくってなぁ」
「?」
亨と水樹の関係を考えると、一日も早くマンションを出て行ってやらねばと吉田としては思うのだ。しかし、その辺の事情を中学生の里奈に話すのは、さすがにちょっとはばかられる。
吉田は適当に言葉を濁して話を変えた。
「自分の家がちゃんと決まらないと、やっぱ落ち着かないからさ。それより、今日はもう授業はないのかい?」
「うん。今日は午前中までだったの。だから午後は自由時間。とは言っても、また暗記しなきゃならないんだけどね。明日もまたテスト三昧よ」
「勉強することに対して、そろそろ体と頭が慣れてきた頃じゃないか?」
「うん。コツをつかんだって気はする。暗記にも、以前みたいに時間はかからなくなったの」
自慢げに指でピースしてみせる里奈に、吉田は楽しそうに笑った。
「よーし、それじゃがんばってる里奈ちゃんに、今日は大学生のお兄さんが一日付き合ってあげよう。遊びに行きたいところとかある? どこでも言ってごらん」
「本当にぃ? わーい、嬉しい! いっぱいいっぱいあるんだ!」
そんなこんなで意気投合した二人は、遊びに出かけることになったのである。
まずは電車に乗って場所移動。原宿に着くと、そこでしばらくウィンドウショッピングを楽しんだ。次はゲームセンターに立ち寄ると、対戦式のカーレースやUFOキャッチャーで大いに盛り上がった。
「よーし、次はカラオケ!」
人差し指を空に向かって突きたて、はりきってそう言う里奈に吉田は苦笑して見せる。
「元気だなー。俺、自分の老いをを感じちゃうよ」
「なに言ってるの。あたしと四つしか変わらないくせに」
「どちらかと言えば俺はインドア派だからさ。こんなに動き回ったのは久しぶりかも」
少し心配そうに里奈が吉田を見上げた。
「疲れちゃった? もう帰ろうか?」
「いや、カラオケに行こう。歌の練習がしたいんだろ?」
「へへへ、実はそうなの。次のオーディションもあるし」
腕時計を見ながら吉田は言う。
「あんまり遅くなると水樹ちゃんが心配するから、いったん家の近くまで戻ろうか。前にみんなで行ったカラオケ、あそこに行こう。なんだったら、水樹ちゃんを誘ってもいいし」
「うん、そうしよう!」
電車に乗った二人は、空いていた席を見つけて腰を下ろした。
原宿からマンション最寄駅までは少し距離がある。吉田は思い切って、前から気になっていたことを里奈に訊いてみることにした。
「水樹ちゃんだけどさ、ホントに室井のことを好きなのかな? どう思う?」
大きく目を見開いて、里奈は吉田を凝視した。
「なっ、なに言い出すの、突然! そんなの好きに決まってるじゃない! あの二人はどう見てもお似合いのカップルだわ!」
「見た目にはね。でも、どうなのかなぁ? 室井はさ、ホラ、ああいう性格してるから、水樹ちゃんを好きだっていう気持ちをいつも前面に出してるだろう? だから分かりやすいんだけど、水樹ちゃんは……。里奈ちゃんは見たか聞いたかしたことある? 水樹ちゃんの亨を好きだっていう気持ち」
「そんなのあるに決まって……」
そこで里奈は言葉をとめた。そして、必死になって考え込むと、やがて唖然としたように言ったのである。
「ないかも。水樹先生の亨さんに対する気持ち、今まで一度も聞いたことないし、態度でも見たことない。ええー、嘘でしょう?!」
里奈は頭の中の記憶を引っ掻き回したが、求めるものは浮かんでこない。
「でもっ、でもっ、先生が亨さんのこと好きじゃないなんて、そんなこと考えられないわ。だって、二人は同棲してるのよ。水樹先生の性格で考えると、好きでもない人と一緒に住むなんてありえないもの」
「そうか? 俺も一緒に住んでるけど?」
ぐっ、と里奈は言葉をつまらせる。
しかし、そこで引き下がったりしない。
里奈はこれまで、水樹と亨を理想のカップルだと思い、ずっと憧れてきた。そんな二人が、実は両想いじゃないだなんて、そんなの認められるはずがない。
「そ、それは、先生が優しいからだわ。吉田さんの家、火事で焼けちゃったんだもの。亨さんの友達だし、仕方ないじゃない。だけど、あたしたちが来る前は、二人だけであのマンションに住んでたんでしょう? ってことは、その…つまり……二人はいわゆるそーゆー関係なわけで…」
顔を赤くし、恥ずかしそうにうつむきながら里奈は言った。無論、肉体関係のことを言っているのである。
「だったら間違いない。絶対に先生は亨さんのことが好きよ!」
まるで、そうでなければならない、といった感じで里奈は吉田に食ってかかった。しかし、それに対して吉田は複雑な顔をしてみせる。
「あいつらなぁ、まだ、らしいんだ」
肩をすくめた吉田を見つめながら、里奈はキョトンとする。
「まだって? なんのこと?」
「だから、里奈ちゃんの言うところのそーゆー関係には、まだなっていないってこと」
たっぷり十秒ほど里奈は押し黙った。そして、大声で叫んだ。
「う…うそ―――っっ?!」
「シーッ、声が大きい!」
慌てて吉田は里奈の口を押さえた。そして、しばらくして里奈が落ち着いたことを確認すると、その手を離した。
「電車の中だぞ」
叱られて里奈は首をすくめる。
「ご、ごめんなさい。でも、今の話って本当なの? なんで?! そんなことがありえるの?!」
「室井が言うには、水樹ちゃんが拒否されてるんだってさ。だから、四ヶ月も二人で一緒に住んでいながら、ずっとガマンしてるんだって。な? 水樹ちゃんの気持ちって微妙だろ?」
さすがの里奈も、もうこれ以上は反論できなかった。
そうこうしている内に電車は目的の駅に着き、二人はなんだか暗い気持ちで電車を降り立ったのである。吉田は亨のことが心配で。里奈は聞いたばかりの新情報に衝撃を受けて。
「……どうする? カラオケ行く?」
吉田に問われ、里奈は元気なく首を横に振った。
「やめとこうかな。なんだかそんな気分じゃなくなっちゃった。このまままっすぐマンションに帰ろう?」
「そだな」
言葉少なく、二人はとぼとぼと歩き出した。
真夏とは言え、夕方の五時台ともなると空気も涼しくなってくる。
歩きながら里奈は考えた。
本当だろうか。本当に水樹は亨のことが好きじゃないのだろうか?
いや、そんなはずはない、と里奈は手を強く握った。
水樹とその両親との間にある確執について、少しだけだが里奈だって知っている。それに、家庭教師のバイトをしているのは、学費の支払いや生活費のためだということも。
水樹は里奈にとって憧れの女性である。そんな彼女が好きでもない男と同棲、しかも利用するためにそうしているだなんてこと、里奈は信じたくなかった。
絶対に違う。水樹だって亨のことが好きに決まっている。二人が相思相愛じゃないなんて、そんなこと信じない。あるわけがない。
吉田の横を歩きながら、里奈はずっとそんなことを考えていた。だから、突然後ろから走ってきた赤いスポーツカーが自分の横にとまり、開いた窓から兄が顔を見せた時、心臓が止まるくらいに驚いたのである。
「おっ、お兄様?!」
「よう、里奈。それと……」
里奈の横でムッとした顔をしている吉田に、柏木は爽やかな笑顔を見せた。
「久しぶりだね、吉田くん。まさか里奈と一緒にいるとは……これはどういうことだい?」
既にバイトの先輩ではなく、もともと柏木を嫌っていた吉田は、そっぽを向いて無視を決め込んだ。柏木は笑いながら肩をすくめる。
「まあいいさ。それより、さあ乗って。室井くんのマンションに帰るところだろう? 送っていくよ」
「け、結構よ。すぐ近くだもん。歩いて帰れるわ」
「いいから乗るんだ!」
突然怒鳴るように言われ、里奈はビクッと体を振るわせた。
「さあ、早く。こんなくだらないことで喧嘩しても始まらないだろ?」
うって変わったような優しい口調の柏木に、里奈は恐怖を感じてしまう。
下手に逆らわない方がいい。
そう判断すると、里奈は助手席のドアを開け、しぶしぶ中に乗り込んだ。そして、不安そうな目を吉田にチラリと向る。
「悪いけど、吉田くんは乗せてあげられないんだ。この車はツーシートでね」
それだけ言うと、その場に吉田一人を残し、柏木と里奈を乗せた高級スポーツカーは猛スピードで走り去ったのである。
一瞬ぽかんとしたものの、里奈の見せた不安そうな目を思い出し、吉田は慌てて走り出した。
さて、吉田が自分を追いかけて猛ダッシュしていることなど露知らず、里奈は自分の前に突然現れた兄を怪訝に思うのと同時に、底知れない不安を感じて気まずい思いをしていた。
里奈と柏木は、決して仲のいい兄妹とは言えない関係にある。だから、このいけ好かない兄が、ただの親切心から自分を車に乗せたとは、到底思えないのだ。
相手の様子をうかがいながら黙っていると、やがて柏木が機嫌よさそうに言った。
「久しぶりだな、里奈。元気か? ずっと会ってなかったからね、心配してたんだぞ?」
兄からの気持ち悪いほどの優しい言葉に、ますます里奈の猜疑心は高まってくる。
「それはどうもありがとう」
警戒しながらも、当たり障りなくそう里奈はそう言った。が、柏木はさらに心配そうな表情を妹に向けてくる。
「水樹先生のところだから安心よ、なんてお母さんは言ってたけど、でも、本当は違うだろう? 室井くんも一緒だよな。 あの二人が同棲していること、お母さんは知らないんだろう?」
「……………」
「俺は心配なんだよ。二人きりじゃないにしても、自分の妹が若い男と同じ家で寝泊りしているってことが、ね。これまでは黙っていたけど、やっぱりお母さんには本当のことを話した方がいいかなって、最近ちょっと考えているところなんだ」
相手の出方を見ようと、おとなしく柏木の話を聞いていた里奈も、さすがに慌てて身を乗り出した。
「ち、ちょっと待ってよ!」
居候させてもらっている水樹の家に、実は亨も一緒に住んでいることがバレるのは、里奈にとって非常にまずいことである。
あの母親にそれが知られたら、一体どんなことになるのか、考えるだけで恐ろしい。
「心配してくれるのは有難いけど、でも本当に大丈夫だから! だから、お母様にはなにも言わないで!」
「そうは言ってもね…」
柏木は深いため息をつく。
「正直、俺は水樹ちゃんのことを見損なったよ。自分が彼氏と同棲している家に、中学生の女の子を呼んで一緒に住まわせるなんて。あまりにも非常識だよ」
「それはあたしが無理に頼み込んだからで…」
「それにしたって、普通はきっぱり断るだろう? それが常識ある人間の行動だと俺は思う。―――うん、やっぱりこれ以上は黙っていられない。やっぱりお母さんに…」
「待ってったら! それは困るわ!」
「困る? どうして?」
わざとらしく首を傾げる柏木に、里奈は必死になって言った。
「だって、そんなことが知られたら、お母様大騒ぎするに決まってるもの!」
下手をすると、だまされたとか言って水樹を訴えることもしかねない。里奈は自分の母親のことをよく知っている。彼女に知れると、水樹に多大な迷惑がかかることは必然だった。少なくとも、水樹は家庭教師の職を解雇される。それは間違いない。
「お願いよ、お兄様! お母様には言わないで!」
そう里奈が懇願したところで、車はマンションの前についた。
柏木は静かに車をとめると、ハンドルから手を離し、まっすぐに里奈を見詰めた。その顔は、いかにも心配そうである。
「おまえの気持ちも分かる。でもね。知り合ってまだ一ヵ月かそこらの水樹ちゃんを、そう簡単に信用するわけにはいかないんだ。彼女がどんな人間だか、よく分からないからね。もしかすると、適当でちゃらんぽらんで常識なく無責任で、とても俺のかわいい妹を預けておけない人間かもしれないじゃないか?」
「そんなことない! 水樹先生は立派な人よ。とても熱心に勉強を教えてくれるわ。思いやりもあるし親切よ!」
「立派で思いやりがあって親切な人が、初めて会った相手の顔に、水をぶっかけたりするものかな? 聞いたよ、美咲のこと。かわいそうに、泣いていたよ?」
里奈は渋い顔をした。
美咲は兄の彼女である。あの一件が兄の耳にに伝わることは、当然と言えば当然だった。
「あ、あれはっ……あれは美咲さんだって悪かったのよ。だって、水樹先生を侮辱するような酷いことを言ったんだもの」
「とは言ってもやりすぎだよ。おまえはそう思わなかったか?」
思わず里奈は黙り込んだ。確かに、あれはやりすぎだったと里奈も思う。少なくとも、自分なら絶対にやらない。
「でも……だけど………」
言う言葉が見つからず、里奈が泣きそうな顔になった時、柏木は優しく微笑んだ。
「だからね、俺は一度水樹ちゃんとゆっくり話がしたいんだ。本人の口から、きちんと言い分を聞いてみたい。そしたら、彼女がなにを考えておまえを男と同棲している家に招きいれたのか分かるし、彼女の人間性も知ることができるだろう?」
里奈は疑うような目を柏木に向けた。言っていることには一理ある。しかし、それを言葉どおりに受け取るほど里奈はバカではない。
でも、自分の方が分が悪いだけに、それを言葉にすることはできなかった。兄の機嫌を損ねるわけにはいかない。母親にチクられてしまう。
「で、でも、それは水樹先生に訊いてみないと……あたしが勝手に承諾できないわ」
「もちろんだよ」
柏木はにっこりと笑った。
「でも、拒否された場合、俺はすぐお母さんに全部話すからね。そうなると水樹ちゃん、困った立場になると思うな」
「……………」
「こちらの条件は一つ。水樹ちゃんが一人で俺と会うこと。外野がいると、変に邪魔されてじっくりと話ができなくなるから。俺はね、彼女の人間性が知りたいんだ。そのために、二人きりで落ち着いて話をした方がいい。それで納得できれば、お母さんにはなにも言わない。約束する」
迷った挙句、里奈はうなずいた。これはもう選択の余地がない。
「わ、分かった。とりあえず、水樹先生に訊いてみる」
「俺の携帯電話の番号、知ってるよな。連絡してくれ。そう長くは待てないぞ?」
「分かった」とか細い声で返事をすると、里奈は車を降りた。窓から出した手を軽く振りながら、柏木は車を発進させる。
それを見送る里奈の顔は、不安でいっぱいである。
兄がなにを考えているのか、どうして急にあんなことを言い出したのか、それがさっぱり分からない。
なにか絶対に裏がある。でも、それはなんだろう?
ついつい眉間にシワが寄る。
そんな里奈とは裏腹に、柏木は満面に笑みを浮かべていた。
網は張った。しかも完璧に。
あとは獲物が引っかかるのを待つだけである。そして、引っかかった後の段取りも、もうちゃんと練り上げてあるのだ。
「もうすぐだよ、水樹ちゃん。もうすぐ二人きりになれるからね」
いやらしく笑いながらそう呟くと、柏木はアクセルを踏む足に力を入れた。
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