受付にいた女性から指示された待合室に里奈と向かい、水樹がそのドアを開けた瞬間、それまでザワついていた室内の人間が、一瞬にしてシーンと静まりかえった。かと思うと、その内の半数ほど女性陣が、好戦的な敵意ある視線を水樹に送りつけてきたのである。
不思議に思いながらも、負けじと水樹は鋭く冷たい視線を彼女たちに送り返した。その気迫に、水樹をにらんでいた女の子たちの幾人かが、決まり悪そうに視線を反らす。
売られた喧嘩は買う。泣き寝入りは絶対にしない。それが水樹の基本理念である。
さて、話は数日前にさかのぼる。
オーディションが間近に迫ってきたとあって、さすがに里奈も落ち着きをなくし、ソワソワする日々が続いていた。気が漫ろだと、朝から何度も水樹に注意される始末である。しかし、それでも里奈のソワソワはとまらない。
ついに堪忍袋を切らせた水樹が、授業の合間の十分休み、すごい勢いで里奈をにらみつけていた。
「勉強はちゃんとやると約束したはずよ! あなた、わたしとの約束を破るつもり?!」
「だ、だってぇ、勉強に追われて結局歌の練習なんて少しもできなかったし、着ていく服だってまだ買ってないし……。気になっちゃうんだもん」
里奈は背中を丸めたが、やがて上目使いに水樹を見た。
「せめて前日だけでも、思いっきり歌の練習させてもらえないかな? ねえ、お願い」
「またそんなこと言って!」
「だ、だってぇ〜」
居間のソファーで吉田とくつろいでいた亨が、そんな会話を耳にして里奈に笑顔で言った。今日はバイトが休みらしい。
「前日だけ練習したって、急に上手くなるもんじゃないんじゃない? それに、そんなに必死にならなくても、里奈ちゃん歌上手いと思うぜ?」
「俺もそう思う」
同じく吉田もうなずきながら同意する。
それを聞いた里奈がシラけた顔をした。
「褒めてもらえるのは嬉しいんだけど、二人ともあたしの歌なんて聞いたことないじゃない」
「あるよ」
と亨。
「あるさ」
と吉田。
水樹も呆れたような顔をしてみせた。
「毎日聞いてるわよ。あなたお風呂に入るたびに大声出して歌ってるじゃない。もしかして、あれって無意識なの?」
「えー、みんな聞いてたのぉ?」
赤くなった頬を里奈は押さえる。
「うわー、恥ずかしい!」
「よく言うわ。あれだけ大声張り上げて歌っておいて。今のところご近所からの苦情もないからいいものの、そろそろ注意しようと思っていたところよ。少し声を落とすように」
「そ、そうだったんだ。ご、ごめんなさい」
申し訳なさそうな様子の里奈を見て、険しかった目元を水樹は緩めた。
「これから気をつけてくれればいいわ」
「うん。分かった。―――ねえ、それでなんだけど…」
里奈は顔を上げると、その視線を水樹、亨、吉田の順に移動させた。
「あたしの歌、本当に上手いと思った?」
異口同音に三人が肯定すると、さらに里奈は訊いてきた。
「歌手になれるレベルだと思う?」
「それは……俺たち素人には分からないな」
そんな大人な受け答えを亨がしたところで、水樹も言った。
「それを確かめるためのオーディションでしょう? そもそも、あなた言っていたじゃない。自分がどれくらいのレベルにいるのかを知るために、今回のオーディションを受けるんだって。まさか、優勝しようなんて大それたこと、思っているわけじゃないわよね?」
里奈はテレくさそうに笑う。
「あわよくば、そうなればいいなあって思ってるのが本音だったりして」
「呆れた。世間はそう甘いものじゃないわよ」
「うわー、里奈ちゃん気をつけないと、水樹を怒らせると顔に水をぶっかけられちゃうぞ?」
柏木の彼女、美咲との一件を亨と吉田は話で聞いて知っている。からかうようにそう言った亨を、水樹が不機嫌そうににらんだ。
「誰にでもそんなことをするわけじゃないわ。それに、今は真面目な話をしているのよ、茶化さないで。……でも、そうね。ちょっと頭を冷やすために、里奈ちゃんにはバケツの水でもかけてあげた方がいいかもしれないわね」
冗談とも本気とも取れない表情の水樹に、里奈が顔を引きつらせた。
「そっ、それだけは許して!」
「だったら、もっと身を入れて勉強なさい。本気でオーディションに行かせなくするわよ」
そんな風に厳しく諭しながらも、なんだかんだ言って水樹は里奈に甘かったりするのだ。
結局、オーディションの二日前には、着ていく服を買いに二人でショッピングに出かけたし、前日には亨や吉田も含めて、みんなでカラオケに行ったりもしたのである。
歌の練習にはならなかったかもしれないが、連日の勉強からくるストレスはきれいにすっ飛んだようで、里奈はとても楽しそうに、晴れ晴れとした顔をしていた。
そして、オーディション当日。
十八才未満の参加者には保護者同伴が必須ということで、その代理として水樹は里奈に付き添い、オーディション会場へと足を運ぶことになったのである。そこで、待合室に入った瞬間から、言われなき敵意のこもった視線を矢のように受けていたのだった。
空いている席を見つけて腰を下ろすなり、水樹は憤慨して呟いた。
「一体なんなのよ」
そして、傍らに座る里奈に問いかける。
「ねえ、わたし、どこか他人の気に障るような格好をしている?」
「してないと思う。でも、みんなが水樹先生に敵意持つの、あたしには分かるなー」
水樹は怪訝そうに眉をしかめる。
「どういう意味?」
にやにやと里奈は笑った。
「きっとね、みんなは水樹先生のこと、オーディション参加者の一人だと思ってるのよ。だからライバル心剥き出しなわけ。敵だと思ってにらみつけてるのよ。そりゃそうよね。もし水樹先生が参加者だったら、あたしなんてオーディション受ける前に合格をあきらめちゃうもの」
「バカバカしい。この待合室には歌手希望の子だけが集まっているのでしょう? 自分の歌に自信があるのなら、容姿なんて関係ないじゃない」
「そうは言っても、やっぱり見た目は大切よ。少なくともここに集まっているのは、一次審査の写真選考で勝ち残った人ばかりだもの。ぱっと見ただけでも、綺麗だったりかわいかったり、すっごく個性的な顔の子ばかりしかいないみたいだし。その中でも、やっぱり水樹先生はピカ一だわ。よかった、先生がライバルじゃなくて」
言うと、里奈は手鏡を取り出して髪型のチェックをしたり、声を出して発声練習などをし始めた。
本日行われるオーディションでは、歌唱力の有無を見極めるための二次審査と、それに合格した者だけが引き続き三次審査に進み、またもや歌唱力のチェックと面接を受けることになっている。そこで合格した者は、また日を改めての最終オーディションを受けることになる。
あと五分で受付時間が終了しようとしていた頃、ドタバタと足音が聞こえ、待合室のドアが勢いよく開いた。そして、オーディションスタッフと思われる数人の男女が入ってきたかたと思うと、誰かを探すように部屋の中を見回し始めた。
「なにかしら?」
気になる素振りで里奈は首を伸ばすが、水樹は我関せず、といった感じで家から持参してきていた医学書を読みふけっている。
「あ、いた。あれじゃないか?」
キョロキョロしていたスタッフの内の一人が、声を上げて指差した。そして、手にした書類をめくりながら部屋の中へと分け入ってくる。他のスタッフもそれにならい、彼らはなぜか水樹の前でその足を止めたのである。
本の文字が人影で読みにくくなり、水樹は不機嫌そうに顔を上げた。
そんな水樹の顔を見た途端、スタッフ全員が思わず息を飲んだのである。言葉なく、そのまま水樹を凝視する。
いきなり自分を取り囲み、呆けたように黙り込んでいる数人の大人たちの態度に、もちろん水樹はカチンときた。それでなくても、この部屋に入って以来の水樹は機嫌が悪い。それを隠そうともせず、水樹は書類を持った男をにらみつけた。遠慮なしの仏頂面である。
「なにかご用?」
言われて男はハッと我に帰ると、書類と水樹を交互に見ながら問いかけてきた。
「えっと……きみ、名前は? こっちの不備だと思うんだけど、きみの履歴書が見当たらなくってね。この部屋にいるってことは、歌手部門での参加者かな? おかしいな、事務所に忘れてきたのかなぁ」
質問の内容から、水樹は相手の勘違いに気づく。このスタッフは自分をオーディション参加者の一人だと思っているのである。
「書類がなくて当然よ。わたしは保護者としてここに来ただけ。オーディションなんて受けないわ」
それを聞いた男は、驚愕のあまり叫び声を上げた。
「えぇっ?! そ、それホントかい? オーディション受けないの?!」
「嘘つき呼ばわりするつもり? 本当よ、受けないわ」
「そんな、もったいない! 今からでもいいから、オーディション受けてみる気にならない? 特別枠で参加させてあげるよ。歌手部門じゃなくてもいいからさ。どう?」
男の隣にいたスタイルのいい女性が、笑顔で口を挟んできた。
「だったら、ぜひモデル部門に出て欲しいわ。いいえ、オーディションなんてする必要もないわね。その気があるのなら、すぐに事務所に入れるよう手配するけど、どうかしら?」
「抜け駆けはズルイぞ。この子だったら俺だって欲しいさ」
別の男が身を乗り出して水樹に問いかける。
「俳優はどう? 演技に興味ない?」
次々と質問をしてくる大人たちに、水樹の機嫌は更に下降する。人が真面目に勉強している最中に、ウザったいことこの上ない。
「興味ないわ」
短くそう答えると、もう用はない、という風に医学書に注意を戻した。
が、しかし、書類を持った男は尚も詰め寄ってくる。
「どうして?! きみなら間違いなく大物になれるよ! 俺が保障する! この部屋は百人近くの女の子がいるのに、ちょっと室内を見回しただけで、すぐにきみに目が止まった。きみのオーラは特別に輝いているんだよ。芸能界で大成功をおさめる人間は、みんなきみと同じオーラを持っている。なあ、考え直してくれよ」
他のスタッフも一様にうなずいているが、水樹は顔を上げようともしない。
「ねえ、どうかな?」
肩に置かれた手を、即座に水樹は叩き払った。
「しつこいわね。興味ないっていってるでしょう?! 読書の邪魔よ、早く消えて」
「そんなぁ! なあ、考え直してくれよ?!」
尚も男が食い下がろうとしたところで、入り口のドアが開き、年若いスタッフが顔をのぞかせた。
「オーディション開始時間です。関係者の方は会場に戻って下さーい」
水樹に話しかけていた男は、腰に手を置いて首を傾けると、大きくため息をついた。そのまま水樹が無視していると、やがて男はポケットから名刺を取り出し、それを水樹の読んでいた本の上に置いた。
「気が変わったらいつでも連絡して。待ってるから」
そして、名残惜しそうに振り返りながらも、他のスタッフを引き連れて足早に待合室を去っていったのである。
「ったく、なんなのよ」
そう水樹が憮然と呟いた時、待合室がいっせいにざわついた。その場にいた全ての人間が、羨望や嫉妬、その他にも色々なものを含んだ目で水樹を見つめていた。
しかし、当の水樹はそれを気にする様子もなく、置かれた名刺を手取ると、それに目を通しもせずにいきなりグシャリと握りつぶした。隣にいた里奈が毛を逆立てて叫び声を上げる。
「きゃー、もったいない!」
そして、慌てて名刺を水樹から奪い取った。
「いらないなら、あたしにちょうだい!!」
大切そうに名刺を持ち、食い入るようにそれを見つめている里奈を、水樹は怪訝そうに見つめる。
「かわないけど、そんな物どうするのよ?」
「どうするって……水樹先生ったら知らないの?! 今の人、超有名な音楽プロデューサーよ! 彼に育てられた歌手のほとんどが、みんな売れっ子になってるんだからっ! すっごい人なのよ!!」
「知らないわよ、そんなこと。芸能界になんて興味ないもの」
「それにしたって……」
里奈はハァ〜ッとため息をついた。
「でも、やっぱり水樹先生はすごいなぁ。さっきのって、どう考えてもスカウトだよね? うやらましいなぁ。あたしなんて隣に座っていたのに、目も向けられなかった。スター性ゼロなのかなぁ?」
「才能の開花する時期なんて、人によって様々だと思うわ。今はだめでも、先のことは分からないわよ」
「うーん、そうは言ってもね……」
すっかり落ち込んでしまった様子の里奈である。里奈だけでなく、水樹と有名音楽プロデューサーとのやり取りを見ていて、同じように暗い顔をしている女の子は他にも大勢いるようだ。
結局その日のオーディション、落ち込んでいたワリに里奈は健闘してみせ、見事四次審査への切符を手にすることができたのである。しかし、マンションに帰りついたか里奈の表情はなぜか暗い。
「初めて受けたオーディションで、四次審査まで残ったんだろ? すごいなー、おめでとう」
「俺は思ってたぜ。里奈ちゃんだったら絶対にやれるって」
亨と吉田から賞賛の言葉を浴びるが、それでもやはり里奈の顔は晴れないままである。
「ありがとう。―――でもねぇ、なんて言うか……」
ソファーで膝を抱えて座る里奈が、小さくため息をついた。
「今日の審査に合格したのは嬉しいの。でもねぇ、自分が芸能人になる輝きを持っていないことを思い知らされたって感じで、とても複雑な気分」
「それって、水樹がスカウトされたとかされないとかの件があったから?」
亨に問われて里奈はうなずく。
「その通りよ。やっぱり、あたしには無理なのかなぁって。天性の才能に欠けてる気がするのよねー」
「そんなことないと思うけどな」
すっかり自信を失くしてしまっている里奈に、吉田は笑顔で話しかける。
「里奈ちゃんだって人目を引くよ。遠くから見て、かわいい子がいるなぁと思って近づいてみたら、あらビックリ里奈ちゃんだったってこと、俺あるもん」
「ほ、ほんと?」
嬉しそうに里奈は顔を輝かせた。
吉田には里奈と同じくらいの年頃の妹がいるらしい。だからかもしれないが、とても里奈をかわいがっているし、その扱いも実に上手い。
「ほんとほんと。だから、自信持っていいと思うよ」
「へへへ。ありがとう」
すっかりとまではいかないが、里奈は少し元気と自信を取り戻したようである。
それ見て安心すると、吉田は振り返って水樹を見た。
「それにしても、もったいないなぁ、水樹ちゃん。芸能人になればいいのに。そしたら俺、芸能人に知り合いがいるって人に自慢できるのになぁ。ついでに業界で仲良くなった芸能人を紹介してくれたりしたら、もっと嬉しいのに」
「なんのためにわたしが医学部に通っていると思うの? 芸能人になるためじゃないわ」
つんと水樹は顔をすます。
すると、亨が言った。
「アルバイトとしてならどうだ? 家庭教師より金にはなるかもしれないぞ?」
ふむ、と水樹が考えるような仕草を見せると、里奈が焦ったように水樹の腕にしがみついた。
「やだやだ、そんなの! 先生、あたしの家庭教師やめないで!!」
水樹は小さく微笑する。
「冗談よ。わたしはさらし者になるなんてゴメンですもの。収入だって、里奈ちゃんの家庭教師のアルバイトで十分間に合っているし」
里奈がホッとしたところで、吉田が時計を見ながら亨に声をかけた。
「そろそろバイトの時間だせ。行こう」
「そうだな」
亨は立ち上がると、自分の部屋に向かった。そして、ドアの前で水樹に手招きする。
「水樹、ちょっといいか?」
「え? ―――ええ」
促されるまま、水樹は亨の部屋に入った。その後ろから自分も部屋に入った亨は、すぐにパタンとドアを閉める。そして、二人きりになった部屋の中で、水樹をじっと見つめた。
すぐに水樹は亨の意図に気づいた。
水樹にキスをする前、いつも亨はこんな目をする。まるで、この世にこれ以上に愛しい者はないと言わんばかりの、温かく、愛情に満ちた目。
だから、水樹はそっと目をふせた。その唇に、すぐに亨の温もりを感じることができる。亨の背中に水樹は腕をまわした。
やがて唇を離すと亨は嬉しそうに言った。
「キスするの、久しぶりだな」
「そうね」
「あいつらがいるせいで、二人きりになれる機会なんてそうないもんな」
それを聞いて、水樹は少しうつむいた。吉田の居候を別の下心から許したことで、やはり後ろめたさを持っているのだ。
「……ごめんなさい。わたしのせいね」
「なに謝ってんだ? 水樹はいいことしたんじゃないか」
「そうだけど…」
「吉田のことでは俺、有難いと思ってるぜ? それに、あいつら二人がいるおかげで、これまで水樹と二人きりで暮らしてこれたことの有り難味がよーく分かって、それもよかったと思ってる」
そう言って、亨は笑った。
「一緒に生活して、ずっと傍にいて、好きな時にキスして、抱きしめることができて。いつの間にか、それを当たり前に思うようになってたんだよな。でも今回のことで、自分がどれだけ幸せだったかが心底よく分かった」
水樹を抱きしめると、亨か前髪の上から彼女の額にキスをした。そして、指をうなじにすべりこませると、長くつややかな髪をまるで櫛でとくようにして、指の間をするりと流す。
「だからってワケじゃないんだけどさ、アレのことは気にしなくていいんだぞ?」
うつむいていた顔を水樹は上げた。
「亨…」
「すごく気にしてただろ? ごめんな、俺が悪かった。つい気持ちが先走っちゃってな。この数日間で、俺すっごく反省したよ。水樹の気持ちも考えずに、ホント悪いことしたって」
「そんなわたしの方こそ…」
「いや、俺が悪かった。望んでもいないのに俺の都合で無理矢理そういう関係になって、水樹に変なトラウマを残すようなことはしたくない。そう思っていたはずなのに…俺もまだまだガキだな」
そう言って、亨は情けなさそうに小さく笑った。その笑顔が、水樹の心を熱くつまらせる。
「いつかまた、水樹が俺とそうなってもいいと思える日が来るまで、俺、いつまでだって待つよ。そして、いつかその日が来たら、それはきっと俺たちに大切な記念日になる。そうなりたいって俺は思うんだ」
胸を熱くした水樹がなにかを言おうとした時、ドアの向こうから吉田の声がした。
「おーい、遅れるぞー?」
「おう、すぐ行くー!」
返事をすると、亨は名残惜しそうに水樹の頬にキスをした。そして、笑顔で言う。
「それじゃ、がんばって仕事してきます!」
ドアノブに手を伸ばした亨に、水樹は慌てて声をかけた。
「あ、ちょっと待って!」
「ん?」
振り返った亨に水樹は訊いた。
「吉田さんが言っていたように、あなたもわたしが芸能人になったら嬉しいと思う?」
「俺? 俺は…そうだな」
その質問に、ほんの少しだけ考えて亨は答えた。
「どっちでもいいや。医者になろうと芸能人になろうと、水樹は水樹だかんな。でも、売れっ子芸能人になって滅多に会えなくなるってのは、ちょっと困るかな」
顔をしかめ、だけど冗談っぽくそう言うと、亨はドアを開けて部屋を出た。そして、そのまま玄関に向かうと、吉田と一緒に大慌てで家を飛び出していってしまったのである。
なんとも言えずにその場で立ち尽くしていた水樹だったが、嬉しさを押し隠してキッと表情を引き締めると強く心に誓った。
なにがあっても芸能人なんかにはならない!
水樹としても、亨と会えなくなるなんてことは、真っ平御免なことだったのだ。
夕食をとり、明日のテスト勉強のために里奈が部屋に引きこもった後、居間のソファーに座りながら水樹は考え込んでいた。
亨と出会って、自分はとても変わってしまったと、そんなことをボンヤリと考える。
以前の水樹は、誰と一緒にいても心はいつも一人だった。ある一定の領域から内側には、絶対に他人を踏み入れさせない。だから、心から信頼し合える相手なんて一人もいなかったし、それを寂しいと思ったこともない。
他人にも厳しかったが、自分に対してはもっと厳しかった。それは強くありたいと願っていたからである。
強く賢くさえあれば、他人に頼らずにいられる。どんな困難が迫っても、自分自身の力で解決できるのであれば、他人に頭を下げる必要もない。一人でだって生きていける。
そんな強さを水樹は自分に欲していた。実際、そうやってこれまで生きてきたのだ。
でも、今の自分はどうだろう。
亨と出会い、少しずつではあるが水樹は人に頼ることを覚えた。温かく見守られることの心地よさを知った。亨のことが好きで、今ではもう彼なしの人生なんて考えられない。そう思うほど、心が亨に依存するようになってしまった。
今もし亨がいなくなったら、自分はどうなってしまうだろう。
それを想像するだけで、水樹の体は激しい恐怖に震えてしまう。
と同時に、また別の恐怖心が水樹の中に湧き上がるのだ。
このままでは、自分は亨なしでは生きていけない心の弱い人間になってしまうのではないか。一人ではなにもできない、誰かに守ってもらい、助けてもらわなくては何一つできない弱い人間。これまで最も軽蔑してきたタイプの人間に、自分がなってしまうのではないかという想いに、水樹の心は恐怖した。
このままではいけない、とそう思う。こんな弱い自分は大嫌いだ。
今後なにか問題が起きた時、すべて自分の力で解決しようと水樹は思った。亨に頼ることなく、どんな手助けも受けず、全部自分の力だけで解決する。
いつの間にか、亨にはかなわないと思うことを容認していた自分。付き合い始めた頃は、そうではなかった。すべてにおいて彼と対等どころか自分の能力の方が上だと思っていたし、たまに負けると悔しくて歯軋りしたものだ。
でも、今は違う。ありとあらゆる面から考えて、亨にはかなわないとそう思う。それだけでなく、亨に心を見透かされ、自分という人間を理解してもらえていると感じることが、なぜがとても心地いいのだ。
そんな自分の気持ちに気づく時、水樹はとても戸惑ってしまう。だって、こんなことは今までなかったことだから。
人に心の内を読まれるのは大嫌いだ。だから、いつも無表情でいるか、見る人によっては怒っているといった表情をしていることが多かった。プライドが許さなかったからだ。
でも、亨にだけはそうじゃない。気持ちを察してもらえると嬉しいし、自分という人間をもっと理解して欲しい、すべてを分かって欲しいとそう思ってしまう。
不思議だった。亨という人間の存在が、水樹にはとても不思議だった。そして、彼に出会えたことを、泣きたくなるくらいに感謝してしまうのだ。好きになってもらえたことを、奇跡のように思ってしまう。
だからこそ恐いと思う。亨を失うことを、だったら死んだ方がマシだと思う自分の弱さを、とても恐いと思うのだ。
いつから自分はこんなに弱くなってしまったのか。
亨と出会ってからだ。亨に優しく守られて、自分は変わってしまった。弱い人間になってしまった。心が亨に依存しきってしまっている。
このままではいけない。もっと強くならねば。自分はそうなれる人間のはずだ。
もう、今後一切亨には頼らない。
自分自身を見つめ直し、水樹はそう決意を新たにした。
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