Fain day or Rainy day?(第二章)


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 共同生活が始まって数日が経ったある日のこと。
 亨と吉田は家を出ると、駅前にあるコーヒーショップに入った。そこで、亨はアルバイト求人雑誌を、吉田は賃貸情報雑誌を見ながら、コーヒー片手にのんびりおしゃべりしていたのである。
 二人とも夜の居酒屋でのアルバイトは続けている。しかし、今は夏休み。アパート探しの吉田にはその余裕がないが、亨は日中家ですることもなくブラブラしているばかりである。これってかなりの時間の浪費だったりする。
 それに水樹と里奈が勉強しているので、邪魔にならないためにも外に出ていた方がいい。さらに他にもちょっとした理由があって、亨は新しいアルバイトを探していたのである。
「どんなのにすっかなー」
 雑誌のページをめくりながらそう呟いた亨に、同じように雑誌を見ながら吉田が答えた。
「コンビニのレジ打ちみたいな軽い仕事がいいんじゃない? 夜のバイトもあることだしさ、あんまり疲れないようなヤツにすれば?」
「コンビニで男を雇ってくれるのは夜勤だけだろ? 昼間はおばちゃんとか高校生の女の子の仕事だよ」
「それもそうか。したい仕事の希望はあるのか?」
 コーヒーを一口飲んでから亨が答える。
「面白そうなやつ。滅多に経験できないような、そんな珍しいの。ちょっとくらい大変でもいいから、自給がいい方が望ましい」
「珍しいやつねぇ……」
 そこで吉田は、なにかを思い出したように顔をニヤつかせた。
「それにしても、水樹ちゃんって本当に美人だよなー。俺、同じ家に住んでいることが信じられないよ。気を抜くとさ、つい見惚れちゃうんだよなー。芸能人と同じ家に住んでる気分。彼女見ているだけで、お茶碗三杯のご飯が食べれそうだよ」
「なんだ、それ」
「だってさ、オーラが違うもんな、オーラが! 水樹ちゃんの周りだけ、特別な空気が取り巻いてる感じ。やっぱ、選ればれた人間っているもんなんだな。俺、初めて知ったよ。いやー、本当に美人だ」
 夢見がちにしゃべっている吉田を、亨が上目使いに軽くにらんだ。
「無駄口はいいから、さっさと住むとこ探せ」
「はいはい。……いいじゃないか、そんな慌てて追い出そうとしなくったって。水樹ちゃんだって、ゆっくり探していいって言ってくれてんだし。いっそのこと、おまえん家に住みついちゃおうかなー」
 パタン、と亨が読んでいた雑誌を閉じた。
「あのなー、おまえふざけんなよ? おまえと里奈ちゃんのせいで、俺がどんだけ泣きたい思いをしてるか知ってるのかよ?! ったくよー」
 ブツブツ文句を言う亨を見て、吉田が薄ら笑いを浮かべる。
「ホント、おまえってかわいそうなヤツだよなー。付き合って一年だろ? それでまだ手を出させてもらってないなんて………考えると不憫すぎて涙が出そうだ」
「そう思うなら、とっとと出てけ」
「俺が出て行ったところで、里奈ちゃんがいるだろうが。あの子、高校の夏休みが終わるまで居座るつもりみたいだし。そう考えると、おまえに春が来るのは、どんなに早くても八月が終わってからだな」
 吉田のからかい口調に、亨はふて腐れたように唇をとがらせた。
「おまえがウチに転がりこんでさえこなかったら、里奈ちゃんがそうなることもなかったんだからな」
「悪いと思ってるよ。なるべく早く次のアパートみつけるから、それで許せ」
 絶対だぞ、と吉田に念を押しながら、亨はポケットから携帯電話を取り出した。そして、唇の前に人差し指を立てる。
「ちょっと静かにしてろよ。新しいバイト先に面接申し込みの電話すっから」
「いいのあったのか?」
「まあね」
 亨は雑誌を見ながらダイヤルをプッシュした。そして、電話に出た相手に用件を伝えてしばらく話をした後、通話を切って携帯電話をポケットに戻した。そして、吉田に言う。
「今すぐ面接してくれるって」
 雑誌を持つと亨は立ち上がった。
「俺、ちょっと行ってくるわ」
「急な話だな。ま、がんばって」
 店を出ようとしていた亨は、手をひらひらさせながら自分を見送る吉田を振り返った。そして、踵を返して足早に戻ってくると、自分の顔を吉田のそれにぬっと近づける。
「言うまでもないとは思うが、俺がいない間のおまえの行動。理性に準じたものであると信じてっからな」
 亨の言いたいことを理解して、吉田は思わず苦笑する。
「大丈夫だよ。水樹ちゃんを襲ったりしないって。第一、里奈ちゃんが一緒にいるっていうのに、変なことできるわけがないだろう?」
「里奈ちゃんがいなくてもするな。つーかもう、水樹を見るな」
「意外と嫉妬深いんだなぁ。心配しなくても、この年で犯罪者になるつもりはないよ。天下のT大に入った俺には、輝かしい未来が待っているんだからな!」
「ちゃんと卒業すればの話だろ?」
 笑いながら吉田の頭を丸めた雑誌でポンと叩くと、亨はスタスタと店を出て行った。その後ろ姿を見つめながら、吉田は考える。
 多分亨は、相当に凹んでいるらしい。
 吉田とて、早くマンションを出て行ってやりたいとは思っている。なにも好き好んで二人の邪魔をしているわけではないのだ。
 しかしこの時期、いい物件には既に借り手が決まっていて、なかなか目ぼしい物がみつからない。せめて夏休み前ならばよかったのだが、そんな文句を今さら言ったところで始まらない。地道にのんびり探すしかない。
 飲みかけのアイスコーヒーを全部飲み終えると、吉田も席を立ち、レジで清算して店を出た。冷房のきいた涼しい店内と違い、外は茹だるような暑さである。さっきまで読んでいた雑誌を団扇代わりにしながら、吉田はマンションへと足を向けた。
 亨と水樹がいまだ清い関係でしかないことを、吉田は知っている。言葉では励ましつつ、しかし内心では亨のことを「意外とヘタレなやつだなぁ」なんてこれまで思っていた吉田は、水樹を見てその考えを一変させた。
 確かに、あれは容易に手を出せる相手ではない。迂闊なことをして嫌われでもしたら大変である。
 しかし、水樹は本当に亨のことが好きなのだろうか?
 亨が水樹にベタ惚れ状態であることは間違いない。吉田のアパートが燃える前、亨を三日間泊めた時、ノロケ話を散々聞かされたので、それはよく分かってる。
 しかし、水樹の方は?
 一緒に暮らして数日ではあるが、吉田は水樹の気持ちを図りかねていた。だって、自分や里奈の前ではいつも凛と涼しげな顔をするばかりで、亨に対する愛情を感じさせるような行動を全くとらないのだから。
 亨と二人きりの時は、ちょっとは違うのだろうか?
 傍から見ていると、とてもそうとは思えない。あの水樹が男に甘える姿を想像するなんてこと、吉田には無理だった。
 詳しくは知らないが、聞いた話では水樹は両親のことを嫌っていて、それで遠くの大学を受験して家を飛び出し、亨と同棲し始めたらしい。
 もしかすると、亨は利用されているだけなんじゃないか、と、そんな考えがつい吉田の頭をよぎってしまう。本当は好きでもなんでもないのに、家を出るために亨の経済力を利用しているだけ。その可能性もあるのではないか。
 水樹の持つ冷たい雰囲気は、彼女ならばそれをし兼ねないと吉田に思わせるのに十分なものだった。
 もしそうだとしたら、亨がかわいそうだと吉田は思う。
 亨はどんなにいいヤツだか、知り合ってからこの四ヶ月の間に、吉田は分かり過ぎるくらいよく分かっていた。大学でも人気者だし、同級生からだけでなく、先輩たちからの受けもいい。大学に入って早々いい友達ができたことを、吉田としても心底喜んでいたのである。
 その亨がもしだまされているのであれば、このまま放っておいてはいけない気がする。しかし、恋愛なんて当人同士の問題であって、他人が口出しすることではないことも吉田は十分に分かっていた。それに、そもそも恋愛なんてものは、男と女のだまし合いなのだ。だまされる方が悪いと言えないこともない。
「どっちにしろ、俺は水樹ちゃんのことをよく知らないわけだし、もう少し様子を見てみるかな」
 そう呟いたのと同時に、吉田はマンションに到着した。勉強の邪魔にならないように静かにドアを開け、小さな声で「ただいま」と言ってみる。それに気づいた水樹と里奈が、同時に顔を上げた。どうやらダイニングで勉強していたらしい。
「あっ、吉田さんだぁ。おかえりなさーい」
「おかえりなさい」
 水樹と里奈にそう言われ、吉田はちょっとテレくさくなる。これまで一人暮らしをしていたのだ。かわいい女の子二人からの自分を迎え入れるその言葉に、ついつい顔が緩んでしまう。
「ただいまー。俺のことは気にしないで勉強続けて。すぐ部屋に引っ込むからさ」
「区切りのいいところまでいったから、ちょうど休憩しようと思っていたところなのよ」
 水樹がそう言うと、里奈は両手を上げて大きく伸びをした。
「あー、疲れたぁ。もう頭が破裂しそう!」
「大袈裟ね。この時期の受験生なら、皆やってることだわ」
 水樹に冷たくそう言われ、里奈はかわいらしく頬をふくらました。
「そうかもしれないけどー、でも一日中暗記ばかりやってる気分。授業中はテストと問題解き、授業以外の時間は次の日のテストのための暗記三昧。テストで八十点以下だと再テストな上に延長授業なんだもの。気が抜けないっていうか……。これじゃ歌の練習なんてする暇ないよぉ〜」
「これまで二年以上もサボっていたあなたが悪いのよ。基礎からやっているんでもすも、仕方ないわ」
 鳥つく島もない水樹の物言いだが、確かに里奈のスケジュールはハードなものだった。
 朝起きると身支度と朝食を済ませ、火木土曜日は九時から十二時まで授業(間に十分休み二回)。月水金はそれプラス二時から六時までまた授業(間に十分休み三回)。一日三回から七回の授業枠の最初には、必ず十分間テストが行われるのだが、それで合格点が取れないと、その日の授業が終わってから再テストと追加授業が行われる。
 おかげで里奈は、授業が終わってからもテレビなんて一分も見る暇なく、ひたすらテストのために暗記に励まなくてはならないでいた。
 これではなんのためにこの家に転がり込んだのか分からない。歌の練習どころか、友達と電話で話す暇も惜しいくらいに、ひたすら頭に年表やら英単語やら公式やら四時熟語などをつめ込んでいるのだ。睡眠時間だって、三、四時間取れればいい方だったりする。
 しかし、そんな里奈よりも、さらに大変なのが水樹である。里奈に勉強を教えるだけでなく、テスト問題を作ったり、次になにをどういう風に教えるかなど、参考書や問題集を見ながら熱心に取り組んでいる。それが分かっているからこそ、里奈は本気で文句言うつもりもなかったし、そもそもこの家に来たのは里奈の希望だったのである。文句を言える筋合いもないというわけだ。
「ねえ、吉田さんも高校受験の時、こんなに苦労したの?」
 里奈が問いに吉田はうなずく。
「やったよ。でも、俺は中学一年の時から塾に通ってたからね。そんなに大変だとは思わなかったなぁ」
 ほらね、という目で水樹から見られ、里奈は背中を丸めた。
「こんなことなら、もっとちゃんとやっとくんだった」
「後悔先に立たず、よ。今の気持ちを忘れずに、高校生になった一年生かららちゃんと真面目に勉強するのね。どうせまた大学受験が控えてるんだから」
「はぁ〜い」
 里奈は席を立つと、居間のソファーに座って次のテストのための暗記をし始めた。それを満足そうに見た水樹が、今度は吉田にその視線を移した。
「亨は? 一緒じゃなかったの?」
「ついさっきまで一緒だったんだけど、バイトの面接に行ったよ」
「バイトの面接? また違うアルバイトを始めるつもりなの?」
「らしいね。今度は昼間働けるやつ。働きもんだなぁ、あいつ」
「……………」
 手元にあるティーカップを見つめながら、水樹は黙り込んだ。
 亨がアルバイトを探している理由が、水樹にはなんとなく分かる。生活費のためでもあるし、そもそも室内でじっとしているよりは、外で動き回っている方が性に合っているタイプでもある。家でじっとしていることは、亨にとって実は苦痛なことだったりするワケだ。
 しかし、今回の理由は、そういったものだけではないだろうと水樹は思った。
 里奈の勉強の邪魔をしないため、なるべく家を空けようと思っていることが一つ。そして、もう一つは……。
 自分を気使ってくれてのことじゃないか、と水樹は思っていた。
 亨のことだから、どうして水樹が家に吉田を入れることを許したのか、その理由にきっと気づいているのだ。自分といると、水樹が気まずい思いをすると分かっているのだ。顔には出さなくても、申し訳ないという気持ちで胸がいっぱいにしていることに、気づいているのだ。
 だから亨は、少しでも水樹がそんな思いをしなくていいように家を空ける。もちろん理由はそれだけでなく、自分自身の気持ちを他に向けて、アレのことを考える時間を減らそうという思いもあるかもしれない。
 水樹は亨が好きだった。心から神様に誓って好きだった。だから、いつでも傍にいたいし、いて欲しいとも思う。
 でも今回ばかりは、亨の気使いをありがたいと思う。傍にいると、やはり罪悪感を感じずにはいられないからだ。
 誰よりも自分をよく理解してくれている亨。いつも優しく自分を守ってくれている亨。そんな亨の優しさや愛情に触れるたび、ますます水樹は亨を好きになる。そしてまた、亨の希望を叶えてあげられない自分自身が、本当に嫌になるのだ。
 出るのはため息ばかりである。
 この日の授業は午前中までだったので、昼食をすませた水樹と里奈は、連れ立って夕食の買出しにでかけた。たまには息抜きも必要だろうと、途中で喫茶店に入って里奈の大好物だというチョコレートパフェを奢ってやる。
 ウェイトレスが運んできたパフェを前に目を輝かせていた里奈が、ふと優雅に紅茶を飲む水樹を見て、不思議そうに首を傾げた。
「水樹先生って甘いもの嫌いなの? 食べてるとこ見たことない」
「嫌いってことはないけれど……そうね、好んでは食べないわね」
「そっかー、だから先生はそんなにスリムなのね。羨ましい」
「あら、里奈ちゃんだって、太ってないじゃないの。痩せてるってワケじゃないけど、ちょうどいいくらいだわ」
 里奈はクリームをパクリと口に頬張りながら、ちょっと困った顔をした。
「ちょっとでも体重増えたら、ダイエットすることにしてるもん。気を抜くと、すぐに三キロくらい太っちゃうの」
 手にしていたカップを置き、水樹がその形のよい眉をわずかにひそめた。
「子供がダイエットなんてするものじゃないわ。体の器官がまだ発達途中なのよ? 栄養をちゃんと取らないと、大人になった時に困るわよ。多いらしいのよ、十代の頃の無理なダイエットがたたって、不妊症や流産で悩む女性。栄養不足で子宮がちゃんと育たなかったことが原因みたい」
 それを聞いた里奈が、途端に顔を青ざめさせた。
「そ、それ本当?!」
「本当よ。だからもうダイエットなんてやめなさい。あなたは太っていないんだから」
「やめる。ダイエットなんて、もうやめる。二度としない!」
 焦ったようにパクパクとパフェを食べ始めた里奈を見て、水樹が小さく肩をすくめた。
「ダイエットもよくないけど、甘いものの摂取しすぎも体によくないのよ。近頃では小学生の生活習慣病患者も増えてるって聞くわ。糖尿病とか肥満症とかね」
「………なんだかもう、食べた方ががいいのか、食べない方がいいのか分からなくなっちゃう」
 泣きそうな顔で里奈を見て水樹が笑った。
「なんでもほどほどがいいってことね」
 そんな風に、二人が楽しいのか楽しくないのか分からないけれど、でも実に女の子らしい会話をしていたところで、突然水樹の斜め後方から、誰かが小さな声で話しかけてきた。
「あ、あの……」
 振り向いた水樹の目に映ったのは、二十才前後の女性である。
 肌は白く、目は少し目じりの下がった二重瞼が印象的で、全体的に柔らかい感じの雰囲気がかわいらしい。肩にかかるくらいの髪を後ろでキレイにアップしている彼女は、小柄で線が細く、仕立てのよい清楚なワンピースがよく似合っていた。
 水樹には、全く見覚えのない相手である。誰だろうと思っていると、向かいに座る里奈が声を上げた。
「美咲さん!」
「こんにちは、お久しぶりね、里奈ちゃん」
 美咲は里奈に笑みを向けた。緊張しているめか表情は堅いが、しかし、彼女が笑うと小さくて可憐な花が咲いたように、周囲の空気が優しく揺れた。
 水樹は視線で「誰?」と里奈に問うた。それに気づいた里奈が、すぐに答える。
「この人は須賀美咲さん。お兄様のお付き合いしている人」
 小さく美咲が頭を下げた。
「初めまして」
 そして、なぜかうかがううような視線を水樹に向けた。
「こちらこそ。田所水樹です」
 こちらも軽く頭を下げながら、ああそう言えば、と水樹は記憶の糸をたぐりよせた。以前に亨から聞いたことがある。水樹と同じK大の学生で、しかも昨年度のミスK大に選ばれたという柏木の彼女の話を。
 なるほど、確かに亨が絶賛していただけのことはあり、かなり優れた容姿をしている。水樹とはまったくタイプが違い、美人というよりは美少女といった感じの、かわいらしい容姿と雰囲気の持ち主である。
「美咲さんはね、お兄様の彼女でもあるけど、あたしにとっても幼馴染みたいなものなの。親同士が古い付き合いだから、家によく遊びに来たり行ったりしてたんだ。よく遊んでもらったんだー」
「そうなの。―――それじゃ、わたしは先に失礼するわね」
 腰を浮かせた水樹を見て、里奈が驚きの声を上げた。
「ええっ、もう帰っちゃうの? あたし、まだ全部食べ終わってない」
「ゆっくりしてくるといいわ。久しぶりに会ったのなら、こちらと積もる話もあるでしょう?」
 脇に置いていた買い物袋を手に取り、卓上の清算票に伸ばした手の上に、美咲が手を添えた。
「待って。わたし、あたなにお話があるの」
 手を引っ込めながら、水樹は怪訝そうに美咲を見た。
「わたしに? 里奈ちゃんではなくて?」
「ええ、あの……わたしも座っていいかしら?」
 長い話になるのだろうか。それに、なぜ初対面の相手が自分に? といぶかしみながらも、取り合えず水樹はうなずいた。そして、先ほどまで座っていた椅子に腰を下ろす。美咲は里奈の隣の席についた。
 思いもよらぬ展開に、里奈も戸惑いを隠せないでいる。
「……それで、お話って?」
 水樹が切り出すと、美咲はおずおずと話し始めた。
「さっき里奈ちゃんが言っていたように、わたしと雅也さんはお付き合いしています」
「それは……素敵な彼氏をお持ちですこと」
「やっぱりそうお思いになる?」
 雅也とは柏木の名前に違いない。水樹は皮肉を言ったつもりだったのだったが、美咲ははにかみながら嬉しそうに頬を赤らめた。
「ええ、本当に素敵な人よ。優しくて、すべてが洗練されていて、彼以上の男性にわたしは会ったことがないわ」
 ウットリと美咲はそう語る。もはやなにを言う気にもなれず、水樹は黙ったままである。里奈は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「実はわたしたち、両家公認の元、大学を卒業したら婚約するつもりでいるの。その話を父からされた時、わたしとても嬉しかった。それなのに……」
 それまで嬉しそうに話していた美咲が、途端に顔色を曇らせた。
「ここしばらく、雅也さんの様子が変なの。あんなに優しく、わたしを気使ってくれていたのに、なんだか素っ気無いというか、よそよそしいというか。わたし、もう悲しくて不安で…」
「ちょっと待って」
 堪らず水樹は待ったをかけた。
「あなた方二人がお付き合いしていることは分かったわ。でも、それがわたしとどういう関係なの? さっぱり意味が分からないわ。あなたと柏木さんの交際がどうなっていようと、わたしにはどうでもいいことよ。一体なにが言いたいの? 要点をおっしゃってくれない?」
 厳しく水樹からそう言われ、美咲はうつむいて下唇を噛んだ。そして、しばらくして顔を上げると、涙目でまっすに水樹を見つめた。
「それじゃ、率直に言うわ。………お願い、雅也さんをたぶらかすのはもうやめて」
 これには里奈の方が驚愕した様子で、ガタンと高い音をたてて立ち上がった。
「な、なに言ってるの美咲さん! 水樹先生がそんなこと…」
「だって、そうとしか考えられないわ! そうでなければどうして?! どうして彼があんなことを言うの?! おかしいわよ!」
 気が高ぶっている様子の美咲ではあるが、対して水樹は表情を変えることもなく、落ち着いた様子で彼女に問うた。
「柏木さんがなにを言ったの?」
「あなたとキスしたって」
 落ち着こうとして飲んでいた水を、里奈はぶーっと噴出した。
「え、えぇーっ? それ本当なの?!」
 悲しみにくれた顔で美咲はうなずく。
「雅也さんはわたしを大切にしてくれていたわ。誰よりも一番かわいいのはわたしだって。それなのに、最近急に態度が変わってしまって…。田所さん、あなたが現れてからだわ。あなたが里奈ちゃんの家庭教師を引き受けるようになって、彼の態度はおかしくなった。ねえ、本当のこと言って。あなたが彼を誘惑したんでしょう? そうなんでしょう?!」
「ちょっと待ってよ、美咲さん! そんなことありえないわよ!」
 里奈は必死になって美咲を落ち着かせようとする。
「だって、水樹先生にはちゃんと彼氏がいるのよ。しかも、お兄様よりも何倍も素敵な彼氏が。それなのに、誘惑なんてするはずないじゃない」
「そんなこと分からないじゃないの! ―――でも、そうだったの…田所さん、あなた彼氏がいるのね。ということは、目的はなに? お金? 誘惑するだけしといて、後で別れるための手切れ金を請求するつもりなの?」
 水樹は黙ったままなにも言わず、ただ無表情に美咲を見つめるばかりである。
 否定しない水樹の態度を肯定と受け取った美咲は、テーブルに身を乗り出すと、すがるような目を水樹に向けた。
「だったら話は簡単だわ。そのお金、わたしが払います。いくらなの? いくら払えば雅也さんから手を引いてくれるの? わたしの父、全国にチェーンのあるホテルのオーナーなの。わたしが頼めば、きっといくらだって出してくれるわ。さあ、金額を言ってちょうだい」
「ち、ちょっと美咲さん。もうやめようよ。いくらなんでも失礼だわ」
 なにも言おうとせず、冷ややかな目で美咲を見るだけの水樹のその態度に、里奈はぞくりと背筋に悪寒を走らせた。だからもう必死になって美咲を説得しようとするのだが、しかし、興奮してしまっているのか美咲は里奈の話を聞こうとしない。
 ついには涙をポロポロ流しながら、懇願するように水樹に訴えた。
「お願い。わたし、あの人のことが好きなの。雅也さんと結婚したいの。お金くらいのことで解決できるのなら、いくらだってお支払いします。だから、ねっ、お願……」
 その時、やっと水樹が動きをみせた。
 傍に置いてあったお冷のグラスを手に取ると、その中身を勢いよく美咲の顔にぶちまけたのである。そして、にっこりと笑ってみせた。
「少しは頭が冷えたかしら? わたし、冗談はあまり好きじゃないの」
 水樹のその冷たい微笑みに、里奈はブルブルと体を震わせた。自分たちの周りだけ、急に温度が下がったかのごとくに寒気を感じる。
 ……こ、こわい。水樹先生、本気で怒ってる。
 そして、水浸しにされた美咲はというと、突然のことに頭も体も反応できないのか、その場で固まってしまっていた。濡れた自分の手をわずかに持ち上げると、それを呆然と見つめるばかりである。
 水樹は買い物袋を持って立ち上がると、里奈に声をかけた。
「さ、帰るわよ。それとも、もう少しここに残る?」
「――あ…いや、あたしも帰る!」
 背筋を伸ばしてスタスタと歩くと、水樹はレジへ赴き、清算しながら店の店員に言った。
「床を少し濡らしてしまったの。ごめんなさいね」
「い、いえ、どうかお気になさらずに」
 水樹のしていたことを見ていたのだろう。店員の顔は微笑していながらも、どこか硬く緊張しているように見える。それに気づいているのかいないのか、水樹の態度は普通そのものである。
 店を出ると、里奈が何度も喫茶店を振り返りながら心配そうに呟いた。
「だ、大丈夫かな…?」
 それを耳にした水樹が平然と言う。
「平気よ。床は絨毯じゃなかったもの。少し雑巾で拭くだけでなんとかなるわ」
「そうじゃなくて、美咲さんのことなんだけど」
「さあ、どうかしらね。どちらにしろ、わたしには関係のない話だわ。それよりも、予定よりずい分遅くなってしまったわね。急いで帰りましょう」
 里奈に微笑みかけ、歩く速度を速めた水樹の様子を見る限り、機嫌を損ねてはいないようには少しも感じられない。しかし、実際は最高潮に不機嫌であることが、水樹を取り巻くピリピリした空気から里奈には分かる。
 恐い笑顔とは、さっきの水樹の笑顔のようなもののことを言うのだろう。
 そんなことを思いながら冷や汗をかきつつ、里奈はごくりを唾を飲み込んだ。そして、前を行く水樹に遅れないように、必死になって歩調を合わせたのである。




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