Fain day or Rainy day?(第二章)


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「いいか、学校が終わったらすぐに帰って来るんだぞ!」
 朝から何度目になるか分からない亨の念押しに、水樹は少しウンザリしたような顔をした。
「分かってるわよ」
「絶対だぞ。どこにも寄っちゃダメだからな」
「はいはい」
「例外は認めないぞ。里奈ちゃんのところにも行っちゃダメ」
「それはさっきも聞いたわ」
「うーん、やっぱり心配だ。俺、水樹の学校まで迎えにいこうかな?」
 腕を組み、真剣に考えている亨を前に、さすがの水樹もブチッと切れた。冷たい氷のように据わった目で、ジロリと亨をにらみつける。
「ちょっと、しつこすぎるんじゃない? どこにも寄らないでまっすぐ帰ってくるって、さっきから何度も言ってるでしょう! わたしが平気で約束を破ったりするような人間だとでも、そう言いたいの?!」
 しかし亨は、そんな水樹のにらみつけなど屁とも思っていない様子で、逆に水樹をねめつけた。そして、ボソリと言う。
「寝ちゃったくせに」
 うっ、と水樹がわずかにひるんだ。
「不可抗力だとは分かっているけど、でも、約束破ったもんなー。寝ちゃったんだもんなー」
「わ、悪かったと思ってるわよ」
「だったら」
 ビシッと亨が人差し指を水樹に向けた。
「今日はなにがなんでも早く帰ってこいよ! 俺も急いで帰ってくるから。そしたら、二人で一緒の買出しにいって、上手い晩飯作ろう。誕生祝いの仕切りなおしだ」
「え、ええ」
「そんでもって、それ食って腹いっぱいになって満足したら…」
 亨は口を水樹の耳元にもっていった。そして、小声でささやく。
「その後、いいことしような?」
 真っ赤になった水樹を見て、亨は楽しそうににっこり笑う。
「今日は絶対に逃がさないからな」
 水樹は眉間にシワを寄せ、なんとも複雑な顔をした。
「わ、分かってるわよ! ……わたし、もう出るわ。戸締り頼んだわよ!」
 教科書類の入ったトートバッグを肩にかけると、水樹は慌てて家を飛び出したのである。


 亨と水樹が桜ヶ丘学園高等部を卒業し、家を離れ、新生活を始めるためにマンションを借りて同棲し始めてから、もう四ヶ月が経つ。
 大学生活や自炊にその他家事、すべてのことが始めてづくしで最初は少し戸惑いもあったものの、すぐにそういう生活にも慣れてきた。
 だって、好きな人とずっと一緒にいられるのだ。その幸せに比べれば、多少の問題があったにしても、そんなものはチャラになるどころか、お釣りがくるくらいのものなのだ。
 それに、亨はT大、水樹はK大と通う大学はバラけてしまったが、しかし、だからこその楽しい我が家。親や友達等に邪魔されることなく、二人っきりで甘い時を過ごせるその空間は、二人にとって天国のようなものだったのである。
 いや、そんなものになるはずだった、と言うべきか。
 ぶっちゃけ、水樹はいまだに処女である。そのことが、二人の間に存在するたった一つの、でも、とても大きな問題となっていたのだ。
 だって、四ヶ月。四ヶ月もの間一つ屋根の下に暮らしていながら手を出していないだなんて、亨、それって一体どういうことよ?! と問いつめたくもなるってもんだ。
 もちろん、亨は不能でもなければホモでもロリコンでもなく、健康的で健全とした肉体と精神の持ち主だったから、水樹とそういった関係になることを心から望んでいた。しかし、水樹の側にその受け入れ準備ができていなかったのである。全裸を見られることに対する羞恥心や、行為そのものに対する恐怖。その他にもプライドに関する精神的問題やら色々あって、水樹は亨を拒んできた。
 いや、拒んだというよりも、その行為自体を忘れたように、いや、ないもののように振舞ってきたのである。  そして亨はというと、アレすることを心底切望しながらも、水樹の乙女心をよく理解し、無理強いすることもなく、これまでじっと我慢と辛抱を続けてきたのだった。その精神力と忍耐力といったら、「アッパレ!」と喝采したくなるほどのものと言える。
 まあ、そんな感じで清らかな関係を続けている二人ではあったが、そこに大きな転機が訪れた。「アルバイト問題」やら、それに付随する形での「ホッペにチュウ騒動」やら「亨の家出騒動」やらと、この一ヶ月ほどの間に二人には色々な問題が持ち上がったのである。そして、なんとかそれらを無事解決することができ、気持ちの高まった二人は、ついに互いの合意の下、めでたく初夜を迎えることとなったのである。
 心身ともに受け入れ準備の整った水樹を居間に残し、先にシャワーを浴びに風呂場に向かった亨の喜びようといったら! なにせ四ヶ月もの間、目の前にある豪華な料理に待ったをかけられ、指をくわえて見ているしかできなかったのだから。そして、ついに料理の方が「食べていいよ」と言ってくれたのだから。
 その浮かれっぷりは、言葉では簡単に説明できないくらいのものであった。
 頭良し、顔良し、性格良し、ガサツに見えながらも物事をいつも冷静に判断し、どんな困難をも最善の方法で解決する能力を有した亨だって、言ってみればやはり人の子。ルンルン気分で体の隅々までを丹念に洗い、ちょっと神妙な気分でシャワー室を出て、小学生の女の子が初めて男の子に告白する時のようにドキドキしながら、バスタオル一枚を腰にまいただけの格好で、はやる気持ちを抑えつつ水樹の待つ居間へと戻ったのである。
 そして、そこに亨が見たものは。
 ソファーに座ったまま、スヤスヤと熟睡する水樹の姿だった。
 実は水樹、この三日間ほど徹夜していて、かなりの睡眠不足だったのである。そして、その原因には、全面的に亨に責任があった。
 だから亨は、身悶えしたいような気持ちでありながらも、ここでも神業的な自制心を発揮して、アレすることをあきらめだ。起さないように慎重に水樹をベッドの上に運び、ゆっくりと眠らせてやることにしたのである。(でも、心の中では号泣してた)
 ………とまあ、それが昨夜の出来事である。
 そんなワケで「今夜こそは!」と亨が意気込み、何度もしつこく念を押してまで水樹に早く帰ってくるように命じるのも、無理からぬことと言えるのだ。
 一方、水樹はというと。
 逃げるように家を飛び出し、大学に向かう電車に乗り込むと、やけに曇りある表情で窓から外の景色をボンヤリながめていた。
 車内は冷房がきいているものの、真夏の太陽は目に入る限りの物をギンギンに照り付けていて、見ているだけで汗が出てきそうである。そして、この明るく輝く太陽の下、しかもまだ朝の早いこんな時間から、今夜の予定について考えていた水樹は、なんとなく嫌な気分になっていた。
 そう、水樹は「アレ」について考えていたのだった。しかも、かなり憂鬱に。
 確かに昨日はその気だった。亨とそういう関係になりたいと水樹は本気で思っていた。
 でも、一晩過ぎて冷静になって考えると、やっぱり……やっぱり不安が募ってきてしまう。
 そもそも、ああいうことをするには、その場の勢いが必要だと水樹は思う。昨日はその勢いがあった。なんせ、喧嘩していた亨と三日ぶりに顔を合わせ、見事仲直りしたのである。甘いムードも気の高ぶりも頂点に達していた。
 でも、今日は違う。朝から何度も亨に念をおされ、それだけでもうウンザリな感じである。やる気満々の亨を見ていると、それだけでこちらの気持ちが萎えてくる。
 萎える? ―――いや、違う。そうじゃない。
 本当言うと、やっぱり水樹は恐いのだった。色々な意味でアレをするのはやっぱり恐い。避けられるものであれば、避けて通りたいと思っていたのである。
 だって、一糸まとわぬ生まれたままの姿で抱き合うのだ。考えただけで恥ずかしくて死にそうになる。それに、抱き合ってお互いの肌のぬくもりを感じ合うだけならまだいい。その後には、あんな行為やこんな行為をしたりされたりするのだそうだ。
 オーマイガッ!
 想像するだけで、水樹の体は恐怖のあまりブルブル震えた。
 そして、更にはそれだけにとどまらず、初めての時はすごく痛いとの情報もある。
「………」
 こんなことなら、昨日寝てしまった自分を起してくれて、さっさとヤることヤってくれた方がよっぽど良かった、と水樹は思わずにはいられない。そうすれば、今になってまたこの問題で悩むことはなかったのに。もうコトは全部終わっていたはずなのに。
 でも、亨は優しいから。だから自分を起さずに、静かに寝かせてくれたのだ。そして、そんな亨に水樹は心底惚れている。捨てられるくらいなら死んでやろうと本気で思ったほど、本気で惚れまくっていた。
 今までだって待ってくれていた。文句一つ言うことなく、ずっとガマンしてきてくれた。亨はいつだってそうだ。誰よりも自分のことを理解してくれる。
 そんな亨の気持ちが分かるからこそ、いくら我儘の得意な水樹でも、さすがに今夜を嫌だとは言えないのである。
 言えないから、憂鬱になる。そして、ため息ばかりが出るのだった。

 そんな冴えない気分のままに電車を降り、大学に入った水樹は、講義の最中も心ここにあらずといった感じで、ボンヤリと黒板の文字を書き写すばかりだった。
 時間が過ぎるごとに憂鬱感は大きくなる。
 父親か母親、どちらでもいいから交通事故にでもあってくれないだろうか。そうしたら、見舞いで実家に帰ることを口実に、アレから逃げることができるのに。
 一講目が終わり、教科書ノートをカバンにしまいながら水樹がそんなことを考えていた時、横田恵美が笑顔で話しかけてきた。
「はーい、水樹さん。約束の物持ってきたわよ」
 暑さ対策のためか、軽くウェーブのかかった長い髪をひとつにまとめてアップしている恵美の姿は、いつもと比べると下品っぽさが軽減し、ともすれば爽やかとも言えるような風貌に変化していた。メイクもナチュラルだし、服装もTシャツにジーンズである。
「ありがとう。助かるわ」
 受け取ったバインダーの中身を確認する水樹に、恵美はにっこりと笑顔を見せる。
「いいのいいの。ただね、やっぱり急だったから、あまりたくさんは探し出せなかったの。もうちょっと時間をくれれば、プリントとか問題集も見つかると思うんだけど」
 恵美が持参してきたのは、今年K大学付属高校に入学した彼女の妹が、受験勉強のために塾で使っていたという教材である。
 もちろん、水樹はこれを里奈の勉強に使う気でいた。
「これだけでも十分に助かるわ。悪かったわね、無理言って」
 礼を言うと、水樹はバインダーをカバンに入れた。そんな水樹の横に恵美が腰を下ろす。
「ねえ、水樹さんの連絡先教えてくれない?」
 言った恵美を、水樹は冷たくにらんだ。
「嫌よ。どうしてわたしがあたなに住所を? 冗談じゃないわ。用が済んだのなら、さっさとあっちへ行って」
「またぁ、そんな冷たいこと言って」
 しかし、恵美もひるまない。
「明日から夏休みでしょう? 学校ではしばらく会えないから、残りの教材が見つかったら水樹さんの家まで持っていってあげる。だから、ね。住所教えて」
「だったら、わたしが取りにうかがうわ。あなたの連絡先を教えてよ」
「いいわよ」
 恵美は手帳から紙を一枚破り取ると、そこにサラサラと住所と電話番号を書いて水樹に渡した。
「来てくれるのも大歓迎だけど、でも、やっぱり面倒じゃない? 持っていくのが迷惑なら、宅急便で送るけど。それでもダメ?」
「ダメよ。絶対に教えない」
 ツンとすました水樹を見て、恵美は苦笑した。
「そっかー、残念。ところで、ねえねえ、話は変わるけど、今日のあたしどう思う? いつもと感じが違うでしょう?」
 やたらとウキウキした様子の恵美を、水樹は怪訝そうに見る。
「そうね、いつもと違うわね。キャパクラ嬢ではなく、年相応の女子大生に見えるわよ」
 水樹は軽く皮肉を言ったが、それでも恵美は笑顔を絶やさない。
「うふふ、気に入った? 水樹さんのファッションを参考にしたの。ねえ、どう? どう思う?」
「どうって、なにが? あなた一体なにが言いたいの?」
 いささかウンザリしたように水樹が言うと、恵美は媚びるような表情をした。
「こういう格好してたら、友達にしてもいいって気にならないかなぁと思って。派手なのより、こういうアッサリした格好が水樹さんの好みなんでしょう?」
 聞いた水樹は唖然とする。
「そのためにわざわざ? あなた本気でバカじゃないの? ほら、向こうであなたにお似合いのお友達が待ってるわよ。さっさとあっちに行ってちょうだい。必要以上にわたしに関わらないで」
 ミもフタもない言われように、恵美は再度苦笑した
「やっぱりダメかー。でも、あたしはあきらめないわよ。絶対に水樹さんの友達にしてもらうんだから。それじゃ、教材が見つかったら連絡するわね。あ、電話番号だけでも教えておいてもらわないと」
「……まあ、それは仕方ないわね」
 確かに電話番号だけは恵美に教えておく必要がある。
 水樹はメモ用紙に電話番号を書きつけた。そして、少し考えると、その下になにかを書き加えてメモを恵美に渡した。
 それを受け取って見た恵美が、嬉しそうに顔を輝かせた。
「あ、住所も教えてくれるの? ありがとう!」
 素直に喜ぶ恵美を前に、水樹はフンと決まり悪そうに顔を反らした。
「感違いしないでちょうだい。友達と認めたわけじゃないわ。教材を取りに行くのが面倒だから教えるだけよ。でも、いい? 家に押しかけてきたりしたらら許さないから。宅急便で送ってくれればいいのよ、宅急便で」
「ええ、分かったわ。絶対にそうする! ありがとう、水樹さん!!」
 満面の笑みを浮かべた恵美は、大切そうにメモを握りしめながら友達のところに戻っていった。そんな恵美の後姿を見つめながら、水樹は小さくため息をつく。
「―――なにをやってるのかしら、わたし」
 今夜のことが気がかりで、脳が正常に働いていないに違いない。でなければ、恵美に住所を教える気になるはずがない。
 そう考えて暗い気分になった水樹は、また一つ重いため息をついた。
 あんなもの、この世の中からなくなってしまえばいいのに。


 そんな気分の水樹とは対照的に。
 亨と言えば上機嫌の絶頂にあったのである。
 だってだって、長きに渡り待ち焦がれていた時が、ついに今夜訪れるのだから。腰に手をおき、スキップしてまわりくらいに心が弾みまくっていた。
 誘われていた農学部の親睦会? そんなものはもちろんキッパリ断った。みんなはかなり残念がったが、そんなこと知ったことか!
 ってなワケで、亨は大学での講義を終えると、マンションへすっ飛んで帰ったのである。途中、本屋によって料理の本を買うことを忘れなかったのは、さすがというべきである。なんといっても、今日は水樹の誕生日を祝い直す日でもあるのだから。浮かれきってはいても、美味しい料理を作り、心から水樹を祝ってやりたいと、そちらもちゃんと考えていた。
 マンションの前のアーチを潜り抜け、エレベータに乗った亨は、買ってきた本を取り出すと、鼻歌交じりにページをめくった。そう手間がかからず、でも美味しくて、水樹の喜びそうな料理はどれだろうと物色する。
 料理本を見ながらエレベータを降りた亨は、ふとそこで顔を上げた。家のドアの前に人影が見える。
「………あれ、里奈ちゃん?」
「あ、亨さん!」
 それは水樹が近頃始めたアルバイト、家庭教師先の生徒である里奈だった。
 駆け寄ってきた里奈に亨は問う。
「どうしたんだ? こんなところに」
「うん、昨日は家庭教師の日だったのに水樹先生お休みだったから、どうしたのかなと思って。もしかして病気とか? 水樹先生、大丈夫なの?」
 里奈を安心させるように、亨は笑顔を見せた。
「心配しなくても大丈夫だ。水樹ならピンピンしてるよ。ただ、ちょっと色々あってな…」
「色々って?」
「うん……まあ、ちょっと、な」
 そこは詳しく説明せず、亨は笑いながら曖昧に誤魔化した。
「今鍵を開けるから待ってな。中で待ってるといいよ。もうすぐ水樹も帰ってくると思うからさ」
「はーい、お邪魔させていただきまーす」
 亨は里奈を居間に通すと、ソファーに座るように促した。そして、自分の部屋に戻って荷物を置いてくると、キッチンに入って麦茶入りのグラスを二つ用意した。その内の一つを里奈の前のローテーブルに置く。
「どうぞ。待ってた時間暑かったろう? こんなもんしかないけど、よかったら飲んで」
 そして、自分はキッチンテーブルの椅子に腰を下ろした。
「いただきます」
 すぐにグラスに口をつける里奈を見て小さく笑うと、亨は言った。
「アッサリした部屋で驚いた? ここ、必要な物以外の余計な物、なにも置いてないからな」
 何気に部屋の中をキョロキョロ見回していた里奈は、それに気づかれていたことを知って、ちょっと頬を赤くした。
「うん。でも、機能的な感じ。とても暮らしやすそう」
「まーね。でも本音を言うと、俺も水樹も苦学生だから、装飾品を買う余裕がないんだよな。でも、この部屋はとても気に入ってる」
「それって、水樹先生と一緒だから?」
「大当たり」
 片目をつぶって見せた亨に、里奈は楽しそうに笑った。
「ところで、受験勉強はどうだ? 進んでるのか?」
「うーん、まあまあかな。水樹先生、教えるの上手だから」
「でも正直な話、かなりキツイだろ? 水樹は完璧主義者だからな。やると決めたら徹底的にやるタイプだし」
 弱々しく里奈は笑う。
「実を言うと、ものすごく大変。一生分の勉強を、今まとめてしてるんじゃないかって思うくらい」
 大きなため息をつく里奈に、今度は亨が楽しそうに笑った。
「あんまり無理するなよ」
「でも、水樹先生に嫌われたくないから」
 そんな感じで二人が楽しく世間話をしていると、ガチャンと鍵の開く音がして、水樹が部屋に入ってきた。
「よっ、おかえり」
「ただいま。……って、あら」
 水樹の目に里奈がとまる。
「里奈ちゃんじゃない。どうしたの?」
「水樹に会いに来たんだって。昨日、アルバイト休んだんだろ? 病気なのかと心配してくれたんだそうだ」
 ああ、なるほど、と納得すると、水樹は里奈に微笑んだ。
「ごめんなさいね。でも、大丈夫よ。病気なんてしてないから」
「うん。先生の元気そうな姿見て安心しちゃった。それじゃ目的も果たしたことだし、あたしはこれで帰ります」
「え、もう?」
 ほんのわずかにではあるが、水樹の顔が引きつった。
「どうして? もう少しゆっくりしていけばいいじゃない」
「でも、帰って勉強しなきゃ。実は昨日、先生が来ないって聞いて気が抜けちゃって、ちょっとサボっちゃったの」
「た、たまにはそういうことがあっても、いいんじゃない?」
 水樹の言葉に、里奈が驚いた顔をする。
「ホントに? あたし、てっきり叱られるかと思ってた」
「息抜きも必要だわ。ね、そうなさいよ。なにも気にすることなんてないのよ」
 やたらと里奈を引きとめようとする水樹である。
「でもぉ、すぐ帰るってお母様に言ってきちゃったの。また帰って騒がれるのも面倒だし…」
「だったら、わたしが電話してあげるわ。わたしの所に来ているって分かったら、きっとお母様も安心なさるわよ」
 と、そこで、水樹がなにかを思いついたように、軽く手を打ち合わせた。
「そうだ。ねえ、里奈ちゃん。実はこれからわたしの誕生日のお祝いをする予定なんだけど、あなたも一緒にどう?」
「誕生日のお祝い? 水樹先生の? うわー、あたしも参加したい! ―――あ、でもぉ」
 里奈は上目使いに亨を見た。
「お邪魔じゃない?」
 それに対し、亨はにっこり笑顔でこう答えた。
「邪魔だなんて思わねーよ。ぜひ一緒にどうぞ」
 顔を輝かせて里奈が飛び上がる。
「いいの?! わー、嬉しい!」
「その代わり、料理はみんなで作るんだからな。買出しもこれからだ。里奈ちゃんにも、しっかり働いてもらうぞ?」
「あたし、なんでも手伝う! うわー、本当に嬉しいなぁ」
 大喜びする里奈であったが、でも、その時誰よりも一番喜んでいたのは水樹だったかもしれない。少しでも長く里奈にいてもらいたいと、水樹はそう思っていたのである。
 理由はもちろんアレのこと。もしかすると、里奈のおかげで今夜は回避できるかも、と、そう考えていたのだ。
 そんな水樹の目論見を知ってか知らずか、亨は得に機嫌を悪くした様子もなく、買ってきたばかりの料理本を部屋から持ってきた。
「なんの料理を作るかは、実はもう決めてあるんだ。すぐ買い物リストを作るから、ちょっと待っててくれな。それができあがったらすぐに出かけるぞ」
「だったらあたし、行く前にトイレ借りとこーっと」
 慌てて里奈がトイレに駆け込んだその隙に、水樹は何気なく亨の向かいの席に腰を下ろした。そして、伺うような表情で亨に声をかける。
「……里奈ちゃんを誕生祝いに誘ったこと、怒ってる?」
 本当は快く思っていないのではないか、と水樹は思っていた。だって、今日はずっと二人きりで過ごしたいと、亨はそう思っていたはずだから。
 しかし、そんな予想に反して、亨は書いているリストから目も話さず、平然と答えた。
「怒ったりなんかしてないよ。だって、今日は水樹の誕生祝いをするんだから。水樹が里奈ちゃんに参加して欲しいとと思うんだったら、別にかまわないんじゃないか? それに、こういうことは人数多い方が楽しいしな」
「そ、そう、ならいいのだけれど」
 水樹はホッと胸をなでおろした。
 すかさず亨が笑顔で言う。
「それに、お子様はどうせ夜には家に帰っちゃうしなー」
 水樹は表情を硬くして、口元に引きつった笑みを浮かべた。




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