「なあ、そろそろ家に帰れよ」
ベッドに腰をかけ、ツメを切りながらそういう友人に向かって、亨はふてくされた顔を向けた。
「帰れるものなら、俺だってとっくに帰ってるよ」
ここは大学で知り合った友人、吉田の住むアパートの一室である。
水樹から体の関係を拒否されて(と思い込んで)家を飛び出し、亨がこのアパートに転がり込んでから、もう三日が経つ。
「帰りたいけど帰れない。だから困ってんじゃねーか」
「そうは言ってもよぉ、もう明日で今学期も終りだろう? どうすんだよ。このままズルズル俺んちに居候する気か?」
「すまんな、迷惑かけて」
「いや、それはいいんだけどよ。でも、マズイんじゃないか、このままじゃ?」
「……………」
それは分かっているのだけど、でも、どうすればいいんだと亨は頭を悩ませる。
この三日間、ずっと亨は死ぬほど反省しまくっていたのだ。
だって、こともあろうか水樹に襲いかかったのである。しかも、よりにもよってめでたい誕生日の夜に。さらには相手を傷つけるような暴言までも吐きまくってしまった。
あのプライドの高い水樹が、そう簡単に自分を許してくれるとは思えない。いや、下手すると、今度会ったが最後、別れを宣告される可能性だってあるのだ。
そうなっても仕方がない。だって、本当にひどいことをしてしまったのだから。でも、もちろん別れたくなんかないのだ。
そんなことを考えると、なかなか家に帰れない亨なのであった。
「ああ、俺ってば本当にバカだよなぁ。なんであんなことしちゃったんだろう?」
ガックリ肩を落とす亨に吉田は言う。
「まあ、おまえの気持ちも分かるぜ? 一年も付き合ってる彼女とエッチできないんだもんな。しかも、一緒に住んでるのに。それはフラストレーションもたまるわ」
「……………」
「もうこの際だから、そんな女とは別れちゃえば? おまえ、他にいくらでも女できるだろうよ。顔がどんなにキレイだって、そんなお高くとまった女となんて、付き合ってても仕方ないよ」
慰めるようにそう言った吉田を、キッとすごい目で亨はにらみつけた。
「水樹と別れる? 冗談じゃない! 水樹はなぁ、顔がキレイなだけじゃなく、あれでけっこうカワイイ性格してんだよ。意地っ張りで強がっていても、実は弱くて守ってあげたくなるっていうか……。自分が悪い時に素直に謝れなくて、でも顔だけは冷静でいながらも、チラチラこっちを見ながら謝るタイミングを必死になって探しているとこなんか、もう見ていておかしいやらかわいいやら」
「ふーん。で、その場合、結局は謝ってくるワケ?」
「うんや。俺の方から謝る」
胸を張ってそう言う亨を、吉田は呆れたような顔で見た。
「バカか、おまえ。そんなの彼女を甘やかしすぎだろう」
「そうなんだけどさ。でも、そうやって俺の方から謝ると、アイツすごくバツの悪い顔するんだ。俺に申し訳ないと思ってるのが顔に書いてあってさ、それがまた最高なんだよな。上手く隠しきれない辺りがさぁ、もう本当にかわいくて!」
にこにこ顔の亨見ながら、吉田がはウンザリしたように溜息をついた。
もうこの三日間というもの、毎日ようにこんなノロケと懺悔の言葉を聞かされているのである。この亨の惚れっぷりを見ていると、ウザったさを通り越して不憫にさえなってくる。
「だったら、早いとこ謝って許してもらえよ。聞くところによると、相当な美人なんだろう? あまり放っておくと、本当に捨てられちまうぜ? おまえがいない間に新しい彼氏ができたらどうすんだよ?」
「あのな、怖いこと言うなよ。シャレになんないんだからよー」
亨は頭を抱え込んだ。
楽しい誕生日になる予定だったのに。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
いや、そりゃもちろん自分が悪いのは分かっているが、でも、あんなことになった原因の元をただすと、それは柏木にある。
あいつが水樹にキスしたりするから悪いのだ。ほっぺとは言え、それは許されることではない。もしあれが口だったとしたら、きっとその場でヤツを殴りに行ったに違いない。
「くっそ〜っ! 柏木のやつ、今度会ったらギッタンギッタンにしてやるからな! 覚えてろ!」
「だから俺が忠告してやったのに。あいつは胡散臭いから気をつけろって。ああいうやたらと愛想のいいやつってのは、腹の中で全然別のことを考えてるもんなんだよ。俺の忠告無視して美人の彼女まで紹介するなんて、ライオンの檻にうさぎを投げ込むようなもんだよ。女たらしって噂も教えてやったよな?」
「ああ、もう、そうだよ。全部俺が悪いんだよ。分かったから、これ以上追い討ちをかけるようなこと言わんでくれ」
取り合えず、今は柏木がどうのこうのより、まずは水樹と仲直りすることが先決である。
女の一人暮らしは危険だし、これ以上水樹を一人にしてはおけない。それに、この精神状態の悪さに対抗するのも、もう限界だ。
どうすればいいんだろう、とりあえず土下座か?
「……………」
いや、待て自分。冷静になれ自分。
本当に悪いことをしたのだから、土下座くらいするのは当たり前かもしれない。しかし、土下座なんかを軽々しくする男を、水樹はどう思うだろう。
「安っぽい男ね、バカじゃないの? さよなら」
……別れの時を早めるだけかもしれない。
いや、ダメだ。やっぱり土下座はマズイ。
それじゃ、どうすればいいのか。どうすれば、この反省の気持ちを分かってもらえるだろうか?
考え込んでいる亨に、吉田が後ろから声をかけた。
「おい、そろそろ出ないと講義に遅れるぞ」
「お、おう……」
アパートを出て大学へと向かう道すがら、ずっと冴えない顔した亨の横を歩いていた吉田が、見かねたように声をかけてきた。
「やっぱさ、こういう場合は下手な小細工なんてしないで、素直に頭さげた方がいいんじゃない? ごめんなさいってさ。それで許してもらえなかったら、そん時はもう男らしくすっぱりあきらめるべきだと、俺はそう思うぞ」
「……そうだな」
呟くような小さい声でそう言った亨の背中を、吉田は活を入れるように思いっきりバシンと叩いた。
「元気出せよ。フラれたら俺が徹夜の自棄酒付き合ってやるからさ」
「気持ちはありがたいが、ことが起こる前から縁起の悪いこと言わないでくれよ、本気で」
悪りぃ悪りぃ、と吉田は明るく笑った。それを見て、亨もつられたように笑う。
吉田と知り合ってから、もう四ヵ月近くになる。
同じ農学部なこともあり、ちょくちょく講義で顔を合わせる内に、いつの間にか仲良くなった。
吉田といると、なぜか亨は安らげる。
多分、今は青桐学園大学部に通っている心の友、中村一樹と雰囲気が似ているせいだろう。
一樹とは、大学に進学してからも電話やメールで頻繁に連絡を取り合っている。しかし、ここ一週間ほどは音沙汰なしだ。
彼女でもできたかな、とか思いつつ、でもそれはありえないと思う亨である。彼女ができでもしようものなら、真っ先に電話で知らせてくれるはずだから。
どんな理由かは分からないが、しかし、一樹から電話がかかってこないことは、今の亨にとって実にありがたいことだった。
水樹に襲い掛かったことを知られようものなら、すぐにでもすっ飛んできて、きっと自分は殺されるに違いない。それくらい、水樹の熱狂的ファンなのだ、一樹は。
そんな風に一樹のことを考えていると、ふいに去年の文化祭のことが頭に思い浮かんできた。
あの時は、本当に大変だった。
水樹からジュリエット辞退を宣言された時は、もう本当に焦ったものである。文化祭をなんとしてでも成功させるため、生徒会長としての義務から、水樹に何度も頭を下げた。しかし、どんなにがんばっても水樹は「うん」と言ってくれず、挙句の果て、ストーカー扱いされて警察官に連行されるハメにもなった。かと思うと、その数日後には水樹から付き合って欲しいと言われ、ニセ恋人芝居を始めることになったりもした。
高慢で可愛げがなく、なんて嫌な女なんだろうと思った。
今は、そのすべてが愛しいのだが。
あーあ、やっぱ心底惚れてるな、と亨は心の中で思う。
そのせいで、こと水樹に関することにのみ、亨は時々冷静ではいられなくなるのだ。
今の自分は周囲からどのように見えているのだろうか。恋に悩むショボくれた情けない男に写っているのだろうか。
とまあ、本人はそんなことを考えているのであるが、もちろん、そんなことはない。
一人でいる時や、今の状態を知っている吉田と一緒にいる時を覗いて、やはり亨は男らしくて頼りになって、頭もよければ顔だっていいという「筋金入りのいい男」なのであった。
だから、大学でも当然よくモテる。
キャンパスを歩けば、男女問わず色々な人が亨に話しかけてくる。大学に入ってからまだそう日は経っていないのに、かなりの数の知り合いができた。
亨は臆することなく人の中に入っていけるし、入った先では必ず気に入られる。だから、鼠算式に友人が増えていくのだ。
その友人たちの誰一人として、亨が女のことで悩んでいるなど考えもしないだろう。
だって亨はモテるから。その気になれば、両手に花の選り取りミドリなのである。そんな亨が恋の悩みを抱えているなんて、誰が思うだろうか。
いや、唯一吉田だけはそのことを知っているが、それも亨が話しさえしなければ、気づきもしなかったに違いない。
その日も、暗く沈む亨の心とは裏腹に、キャンパスに入るやいなや、たくさんの友人知人が周りに集まってきた。そして、みんなが亨に話しかけてくる。
まったく、ゆっくり悩んでいる暇もない。
そして、なんとかこの日の講義をすべて受け終わり、
「今日こそは水樹に謝って仲直りしよう」
と、急ぎ懐かしの我が家へ向かおうとする亨の足にも、それら友人たちは重い足枷となってまとわりついてくるのだ。
「ようっ、室井、考えといてくれたか? 絶対に楽しいから入れよ、テニスサークル」
「それよりも、絶対に演劇サークルよ! 室井くんは背も高いし顔もかっこいいから、かなり舞台栄えすると思うのよね。ねえ、入ってよ、お願い」
「ねえ、夏休みはみんなで旅行にいこうよ! 沖縄とかさぁ。なんなら、グアムでもいいけど」
「今度のコンパには来てくれんだろう? おまえが来ると女の集まりがいいんだよ」
「あー、すみません。今日は俺ちょっと忙しいんですよ。話はまた今度ゆっくり聞きますんで」
まとめてそう返事をすると、亨は脇目もふらずに門へと急いだ。後ろからガッカリしたような声が上がっているが、そんなものを気にしている場合ではない。
とにかく、早く家に帰ろう。
色々と考え悩むのにはもう飽きた。
気まずいとか言っている場合ではない。こうなったら、いつもの自分らしく素直に率直に謝るのだ。
もっと早くそうすべきだった。三日間もグダグダ悩んだりして、本当に時間の無駄だった。
そんなことを考えながら小走りしていると、やっと門の近くにまで到達した。
そこで、亨は「ん?」と目軽くを見開く。
門の前に、小さな人だかりができていることに気づいたのだ。
なんだろうと思って亨は足を止めた。すると、すかさず誰かが亨の腕に自分の腕を絡ませてきた。
「やっと捕まえた!」
「?!」
驚く亨の周りに四、五人の女の子たちが群がる。みんなに見覚えがある。確か、同じ農学部の生徒である。
「ねえ、室井くん。明日で学校終わりでしょう? だからさ、農学部のみんなで親睦会を兼ねたお疲れ様会やることにしたの」
「室井くんも来てよ」
「明日の七時から」
「いや、俺はちょっと……」
「いいじゃない。滅多にないことなんだし」
普段の亨なら、多分すぐにでもOKの返事をしたことだろう。酒を飲むのもみんなでワイワイ騒ぐのも嫌いじゃない。というか、大好きだ。
しかし、今はそれどころじゃない。
早く家に帰って水樹謝りたかったし、もしそれで許してもらえなかった場合、飲み会になんて行く気にはなれないのも分かっている。
走って逃げたいが、両腕をがっちり組まれているので、それもできやしない。
あー、もう、まったく!
女の子相手に、そう邪険にするような態度を取るのもかわいそうだと思いガマンしてきたが、しかし、鬱陶しいと思う気持ちがどんどん高まってくる。
「室井くんが来ると、女の子はみんな大喜びなのよねー。だから行こう? ね?」
なにが「ね?」だ。そんな不特定多数の女より、俺は水樹を喜ばせたい。謝って許してもらいたいのだ!!
イライラを募らせてきた亨が、もうはっきり言ってやろうと口を開きかけた時、門の前にできていた人だかりが二つに割れた。そして、その先にいた人物を見て、亨は目を大きく見開く。
なんと、その人だかりの中心にいたのは水樹だったのである。
** **
さて、亨が家を出て行ってからの水樹はというと。
もう毎日毎日気の落ち着く暇もなく、ずっと不安と戦っていたのである。もし、このまま亨が戻ってこなかったらどうしよう?!
寝不足も続いて体はだるいし、気分はもう最悪である。大学に行っても、おちおち勉強なんかしている気分ではない。
喧嘩した日の翌々日、今日こそは亨が家に帰って来るかもしれないと思い、テキストやノートをカバンに詰め込み、急ぎ講義室を立ち去ろうした水樹を、誰かの声が呼び止めた。
「ねえ、水樹さん!」
表情は普通だったものの、ドスのきいた目でもって、水樹はその相手を振り返った。
急いでいるのに! 声をかけてくるバカは誰だ?!
そして、その声の主が横田恵美だったことが、さらに水樹の機嫌を悪くした。二度と話しかけるなと、恵美には先日言っておいたはずだ。
水樹は冷たい微笑をその美しい顔に浮かべた。
「あら、つい数日前にわたしが言ったことをもう忘れているなんて、その頭の中にはいったいなにが入っているのかしら? ひょっとして日本語自体が理解できていなかったとか? ごめんなさいね、そこまで気が回らなくて」
「いや、あの……」
「それで、いったいなんの御用なの? まさか、また男あさりに誘うわけじゃないわよね?」
「いえ、今日はそうじゃなくて……」
「実はわたし今日はとっても急いでいて、あなたなんかとお話している暇はまったくないの。残念だけど、だからもうこれで失礼するわね、永遠に!」
目を白黒させる恵美をその場に残し、水樹はサクサク歩き出した。バカにかまっている暇は本当にないのだ。
しかし、恐れ多くも恵美は小走りに水樹の後を追いかけてきた。
「ねえ、ちょっと待ってよ」
水樹はそれを無視して歩く。
それでも恵美は尚も食い下がって水樹の後を追い続けてくる。
「待ってったら、水樹さん。ちょっと話聞いてよ!」
それがあまりにもしつこく、このままいくと大学出てもずっと着いてきそうな勢いだったので、渋々ながらも水樹は足をとめた。さっきまでの笑顔は吹き飛び、ギロリと恵美を激しく睨みつける。
「もう本当に勘弁してくれないかしら。本当に日本語が理解できないの? あなたなんかと同じ大学にいるなんて、がんばって勉強してここに入った自分が哀れになってくるわ」
しかし、そこまで言われても恵美は嬉しそうに顔を輝かせた。
「ああ、よかった。やっと振り向いてくれた」
のん気なことを言う恵美を、水樹はさらに激しくにらみつけた。
「なんの用なのよ! 時間がもったいないわ、早く言って!」
「いや、実は用ってほどの用でもないんだけど……」
恵美は少し恥ずかしそうに笑った後、思い切ったように言った。
「実はあたし、水樹さんと友達になりたいの!」
は?
無言で水樹は恵美を見た。しばらくして、あきれたように言う。
「あなた、本当にバカなんじゃないの? あれだけ屈辱的なことをわたしに言われておいて、それで友達になりたいだなんて、いったいどういう神経しているの? 頭がおかしいとしか思えないわ」
「あたしも不思議なんだけど、なんだかあそこまで言われると逆に快感になっちゃって。それに、女同士とはいえ、やっぱりきれいなものには惹かれるのよ。あなたみたいなきれいな人と友達になれたら、それはそれで嬉しいものじゃない? 人にも自慢できるしさ」
「……………」
呆気にとられた顔で、水樹は目の前でにこにこしている相手を見た。
なんなんだ、その理由は。そんなふざけた理由で、誰かと友達になりたいだなんて思うだろうか。いや、普通は思わない。人に自慢できるから友達になりたいだなんて、人をバカにするにもほどがある。自分がどれだけ失礼なことを言っているかに、きっとこのバカは気づいてさえもいないのだ。
怒鳴りつけてやろうかとも思ったが、しかし、ムキになるのもバカらしい。
コホンと水樹は咳払いを一つした。そして、笑顔で相手を諭すように言う。
「ごめんなさいね。友達は間に合ってるわ。実はわたし、あなたに似たタイプの知り合いが既にいるの。同じタイプの知り合いばかり増えても仕方がないでしょう? 正直、まったく役に立たないし。だから、気持ちはありがたいけど間に合ってるわ!」
似たタイプの知り合いとは、もちろん百合子のことである。頭痛の種になりそうな知り合いは、彼女一人で十分なのだ。
それでなくても、百合子から頻繁に送られてくる携帯メールに、水樹は辟易しているのである。教えてもいないのに、なぜか百合子は水樹のメールアドレスを知っていて、くだらない内容のメールばかり送りつけてくるのだ。
アドレスを教えたのは由香に違いないと水樹は思っている。無理矢理言わされたのだとは分かっているが、しかし、それでも許せるものではない。今度会ったら文句の一つも言ってやらねば。
そんなことを思っている水樹に、恵美は不満そうな顔で言う。
「ええー、ダメなのぉ? お願い、あたしと友達になってよ」
「ダメよ」
きっぱり言う水樹。
「どうしても?」
「どうしてもよ。天と地がひっくり返ったって無理!」
「………………」
恵美はがっくりと肩を落とした。
「あーあ、残念。でも、あたしでなにか役に立つことがあったら、いつでも声をかけてね。あたしはここに幼稚舎の頃からいるから、この学校に関してなら情報にかなり詳しいの。妹も高等部の一年にいるし」
「妹さんが高等部に?」
水樹はその瞳にわずかではあるが興味の色をのぞかせた。
「妹さんも幼稚舎からここにいるの?」
「ううn、妹は去年受験したわ」
「塾には行っていた?」
「もちろん。え、なになに? なにか役立てることがある?」
喜々とした顔の恵美を前に、水樹は少し考えるようにうつむいた。去年高等部を受験した妹。彼女が受験勉強に使用した教材を借りられれば、それは里奈に勉強を教える上でとても役に立つに違いない。
しかし、こいつに借りを作るような真似をするのは気が引ける。
しばらく考えた末、水樹は決めた。前に亨が言っていたこと、嫌いなやつほど利用してやればいい、という考えを採用することにしたのだ。
「ねえ、あなたの妹さん、塾で使っていた教材をまだとってあるかしら? あれば貸して欲しいのだけど」
「それならあると思う。あたしの妹は整理整頓が苦手だから、いらない物をいつまでも取っておくタイプなの。今日にでも聞いてみるわね」
「できれば、明日大学に持ってきてくれると助かるんだけど。明後日から夏休みだし」
「いいわよ、でも、どうして? 高等部受験の教材なんてなにに使うの?」
「家庭教師のアルバイトでちょっと。受け持っている生徒、来年ここの高等部を受験する予定なの」
「ふうーん、そっかぁ。……分かった、オーケーよ。で、どうなの? これであたしたちもお友達?」
ウキウキする恵美に、水樹は冷たく言った。
「まさか、そんな簡単にわたしと友達になれるわけがないでしょう。甘すぎるわよ、あなた。……でも、そうね、顔見知りくらいには思ってあげてもいいわ」
両手を上げて恵美はバンザイをした。
「それでも全然いいわ! これから少しずつ友達になればいいんだもの。あたし、がんばっちゃおーっと」
めげずに笑顔でそう言った恵美を見て、水樹は思った。
この人、バカではあるがそう悪いヤツではないのかもしれない。少なくとも、百合子よりは百倍役に立ちそうである。
そんなこんなで少し遅くなったものの、それでは早い時間に水樹は家に帰り着いた。そして、ソファーに座って微動だにせず亨の帰りを待ち続ける。
明るかった空がオレンジ色に染まり、やがて薄紫から濃い紫をへて漆黒へと姿を変える。
しかし、どんなに待ってみても、やはり亨は帰ってこなかった。体調が悪いと嘘をつき、家庭教師のアルバイトをサボってまでして待っていたのに、それでも亨は帰って来なかった。
今日でもう丸二日。
もしかすると、亨はもう帰ってこないかもしれない。
今頃は、新しい彼女と楽しくやっているということも考えられる。その可能性は十二分にある。だって亨はモテるから。望めばどんな女でもモノにできるのだから。きっと、自分のようにひねくれた性格の女ではなく、従順でかわいらしい子を彼女にしているのだ。そうだ、そうに違いない。
その夜もソファーに座って一睡もせずに起きていた水樹は、朝日を見たのと同時に心に決めた。
T大に行こう。行って亨に会おう。
大学は広いから探しても見つからないだろうが、下校時間に門の前で張っていれば、きっと捕まえることができると思う。
心労と寝不足とで体力も限界だったが、取り合えず水樹は徹夜のままK大へと向かった。そして、そこで恵美から約束の教材を受け取り、講義を午前中だけ受講すると、昼食も取らずにT大へと向かったのである。
そして、門の横で亨を待ち続ける。
亨はいつ出てくるか分からない。しかし、午後にも講義はあるはずだから、ここで待っていれば、必ず会えるはずだ。
炎天下の中、水樹はT大を囲む壁に体をもたれかけさせ、静かに亨を待ち続けた。門から人が出てきた時にだけ、うつむいていた顔を上げて相手の顔を確認する。
が、亨はなかなか出てこない。
それでも水樹は、いつまでだって待つつもりでいた。もともと汗をあまりかかない方ではあったが、そんな水樹でさえもじんわり汗がにじみ出るほどの猛暑である。時々、玉のような汗が水樹のシミひとつないミルク色の肌を滑るように流れ落ちた。
せめて帽子でもかぶってくるんだった、と、水樹が顔を上げると、気づかない内に自分の周りには人だかりができていた。
「ねえ、あれ誰?」
「すっごい美人!」
「大学の関係者か?」
「違うでしょう。だって、今までに見たことないもの」
「もしかして、芸能人じゃない?」
「うわー、サインもらっちゃおうかな、俺」
みんなヒソヒソ話しながら、興味深そうに水樹を見ている。中には、
「ねえ、誰か探してるの? よかったら、呼んできてあげようか?」
とか、
「どっかに遊びに行かない? きみを待たせるようなヤツのことは放っといてさ」
などと、声をかけてくる男たちもいたが、水樹は黙ってそれを無視した。
頭の中でボンヤリと、T大にもナンパするような男がいるんだ、なんて思ってみる。そして、亨もそういった男の一人かもしれないと考えて、なんだか腹が立ってきた。いや、亨本人にではなく、亨にナンパされる女たちに。
今頃、亨はすでに大学を出ていて、かわいい女の子たちと楽しく遊んでいるのかもしれない。そう考えると本当にムカムカしてきて、そのあまりの怒りに気持ちが悪くなってきたほどである。
それでなくても、水樹はここ三日ほどほとんど睡眠を取っていない。気力体力ともに、すでに限界にきていたのだ。だからこそ、余計なことを考えてイラつきもする。
もうこれ以上待っていられない。大学内に亨を探しに行こう。
そう思って、水樹はキッと顔を上げた。そして、大学内に足を踏み入れる。水樹を囲っていた人ごみがサッと道を開けた。
そこで。
水樹は見たのである。
両手に花状態で女の子たちと腕を組んでいる亨の姿を。
体を堅くして、水樹は息を飲んだ。
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