水樹がドアを開けると、むっつりした顔の亨がそこに立っていた。
「ただいま。あら、アルバイトは? 今日は仕事の日よね?」
「今日だけシフト代わってくれってヤツがいたから交代してやった」
言いながら水樹をひとにらみすると、亨はプイと部屋の奥へと行ってしまった。
「?」
なんだか様子がおかしい。
首を傾げながら急いで靴を脱ぐと、水樹は亨の後を追っていった。
「ねえ、どうかしたの?」
「どうかって?」
ソファーに座り、水樹の方を見もせずに亨が言う。
「どうかあったように見えるのか?」
「分からないけど……なんだか機嫌が悪そうだから」
「別になんにもねーよ」
そうぶっきら棒に言う亨の顔を見る限り、あきらかになにか含みがありそうである。
そんな亨の顔を見ている内に、段々水樹までが不機嫌になってきた。
それでなくても、今日は嫌なことがたくさんあったのだ。
バカ女に囲まれたり、バカ男にキスされたり。
もうこれ以上はイライラしたくない。やっと家に帰ってきたのだ。少し落ちつきたい。というか、精神を休めたい。
「あらそう。だったから別にいいのだけど。申し訳ないけど、今夜は食欲がないから食事はいらないわ」
今週の食事当番は亨である。最低限の礼儀と思って断りを入れると、水樹は亨に背を向けた。さっさと自分の部屋に帰ろうとしたのだ。
そんな水樹の腕を後ろから亨がつかむ。
「ちょっと待てよ」
「もう、なんなのよ」
ことさら機嫌の悪い顔で振り返ってみた水樹は、そこに自分以上に機嫌の悪い顔の亨を見つけて、ちょっと驚いた。
こんなに怒ったような顔の亨を見たのは初めてである。
いや、正確にいうと二度目だ。
初めて亨と生徒会室で対面した時、そう、文化祭でのジュリエット辞退を申し入れた時も、確か怒って今みたいな顔をしていた気がする。
ということは、本当に本気で怒っているのだ、亨は。
自分の怒りはあっけなくすっ飛び、水樹はなんだか不安になってきた。普段の亨はそう簡単に怒ったりはしない。他の人にはどうか知らないが、少なくとも水樹には。
「いったいどうしたの?」
「腹、減ってないのか?」
「え、ええ。……でも、やっぱりいただこうかしら。せっかく亨が作ってくれているのだし」
ご飯いらないっていったから怒ってるのか? いや、それはありえない。水樹が家に帰ってきた瞬間から、亨の様子は変だった。
なにがなんだかサッパリ分からない。
しかし、それよりもなによりも、亨につかまれたままの腕が痛くて水樹は顔をしかめた。
「あの、手、離してくれる? ちょっと痛いわ」
しかし、亨は手を離さない。それどころか、その手にさらに力を入れてきた。
「いっ、痛いってば、亨!」
「食事してきたのか、柏木先輩と? だから晩飯食わないのか?」
「は? なに言ってるの?」
痛みに顔をゆがめながら、水樹は亨を見た。
その顔を見た亨が、チッと舌打ちすると、突き放すように水樹から手を放す。
「車で送ってもらって帰ってきたのを見た。ついでに、キスされるのも」
まじまじと、水樹は亨を見つめた。
見られていたのか。アレを。それで亨は怒っているのか。
「……………」
ということは、もしかして、嫉妬しているだ、亨は。それでこんなに怒っているのだ。
その結論に達した水樹は、なんだか笑いたくなってきた。
嬉しかったのだ、ものすごく。
好きな男に嫉妬してもらえることが、これほど胸がはずむことだなんて知らなかった。
「食事なんてしてないわ。ただ送ってもらっただけ。心配しなくても、亨が誤解しているようなことしてないから。安心して」
怒っている亨の顔が、さらに水樹を有頂天にさせる。
安心させてあげようと、水樹はにっこり微笑んでみせた。
がしかし、亨の表情は怒気を含んだままである。
「じゃあ、あのキスはなんなんだ? 見たところ、抵抗したようにも見えなかったけどな」
その言い方には多少カチンときたものの、水樹はそれをガマンした。亨がこんな変なことを言うのも、すべて嫉妬心の成せるわざ。そう考えると、まあカワイイものじゃない、と怒りもどこかにふっとんでしまう。
「不意打ちだったから避けられなかったのよ。っていうか、あなたの先輩ってなに? よく自分の後輩の彼女にあんなことできるわね。信じられないわ。いい先輩が聞いて呆れるわよ、まったく。あなたからも、今度会った時でいいから、もう二度とあんなことしないように言っておいてちょうだい」
「あの人は先週末で急にバイトやめたよ。もう先輩でも後輩でもない! っつーか、ついさっき友達でもなくなった!」
初めて聞いた情報だったが、柏木がバイトを辞めようがどうしようが、そんなことは水樹の知ったことではない。ただ、あんなヤツと亨に付き合ってもらいたくない、とは思っていたので朗報と言えば朗報である。
だから、にっこり笑顔で水樹は言ったのだ。
「それはよかったわね」
「ちっともよくない!」
そう叫ぶと、亨は大きな溜息をついた。そして、呆れたような目で水樹を見る。
「水樹、おまえさあ、ちっとも自分のことが分かってないんだな。それに男のことも」
「……? どういう意味? 男のことはともかく、少なくとも自分のことくらいちゃんと分かっているわよ、わたしは」
「いーや、全然分かってない!」
即座にそう断定されて、段々水樹の機嫌も下降しだす。
「なによ? それじゃ亨にはわたしのことが分かるっていうの?」
「分かるね。もうこの際だからハッキリ言わせてもらう。おまえはな、非力で弱くて自分自身すら満足に守れない頭の悪いただの女なんだよ」
音をたてて顔から血の気が引き、水樹は青ざめた。目には怒りの光がやどる。
他人からこんなに侮辱されたのは、生まれてこのかた初めてのことだった。
「……いくらあなたでも、言っていいことと悪いことがあるわよ?」
しかし、怒りに満ちた水樹の顔を見ても、亨は気にもとめない。
「だったら俺の言ったことが否定できんのか? 自分が嫌っている男からのキスを平気で受けておいて?」
「あ、あれは……さっきも言ったでしょう、不意をつかれて仕方なかったのよ!」
「不意ねぇ」
亨は鼻先でふふんと笑う。
「不意をつかれただとか、優しそうな人だったからだとか、そんなことする人には見えなかったとか、そんな言い訳してどうなるってんだ? それに、俺は言ったはずだぜ? あのヤロウは女グセが悪いっていう噂があるって。そんなヤツの車に乗ったりするから、俺に頭が悪いって言われるんだ」
「よくも、よくもそんなことが言えるわね! わたしはね、亨の先輩だから邪険にしたら悪いだろうと思って気を使ったのよ! それを」
「それも言い訳」
小ばかにするような顔で亨は水樹を見た。
「もしアイツが車に誘った時、車の中で襲うつもりだって宣言してたら、それでも水樹は俺に気兼ねして車に乗るのかよ?」
「乗るわけないでしょう?! バカなこと言わないで!」
「そっ、危険は避けて通る。当たり前のことだ。でも、それができなかったからキスされたりしたんじゃないのか? もし柏木が本当の外道野郎だったら、今頃、水樹はアイツに車の中で犯られちゃってるぜ?」
「そ、それは……」
確かにそれはありえる。
しかし、それみたことか、という顔をしている亨を見ていると、それを素直に認める気にはなれない。
「い、いいでしょう! 結局そんなことにはならなかったんだから!」
「よくねーよ! もうちょっと自分ってものを自覚しろ。それでなくても、水樹は顔がキレイな分、他の女よりそういう危険が降りかかりやすいんだから。男を惹き寄せてるのはおまえ自身なんだぞ?」
「人を歩くフェロモン剤みたいに言わないで!!」
頭から湯気を立てながら水樹がそう言うと、あーあ、とわざとらしい溜息をつきながら亨が肩をすくめた。
「言っとくけど、俺は水樹のためを思って色々と忠告してあげてるんだぜ? 水樹があまりにも世間知らずだから」
「よ、余計なお世話よ! そんな忠告してくれなくたって、自分の身くらい自分で守れるわ!! これまでだってそうしてきたんだから!」
「自分で守れる、ねぇ……」
そこで言葉を止めると、亨はなにかを考えるような顔をしながらジッと水樹を見つめた。そして、言う。
「やっぱ、自分の迂闊さをちゃんと認識させとく必要があるか。……なあ、水樹」
亨の座るソファーの前で、怒り心頭、すごい顔して立っている水樹に、亨は打って変わった笑顔で話しかけた。
「ちょっとここに座って」
自分の隣の空いた席をポンと叩く。
「なによ?!」
キッと水樹はにらみつける。
「ま、いいからいいから。ホラ、座って!」
亨がソファーを再度叩くと、水樹は怪訝そうに眉を寄せながらも、素直にそこに腰を下ろした。
「なに? なんなのよ?」
それを見た亨が、呆れ顔で大きな溜息をついた。
「ホラな? 喧嘩の真っ最中で俺のこと怒っているのに、言われるとすんなり隣に座るんだよ、水樹は。そういうところがダメだっつーんだ」
「……? なにが言いたいの?」
と水樹が首をかしげた時である。
「?!」
急に亨が水樹をソファーに押し倒すと、上から覆いかぶさってきたのだ。そして、なにか言おうと開いた水樹の口に、自分の口を強く押し付けた。
これまでに水樹が経験したキスとは、あきらかに違うキス。
亨の舌がまるで命を持った生き物のように、水樹の口内で激しく動きまわる。舌を何度もからめられ、深く、そして激しく吸われた。
水樹の頭の奥が麻痺する。衝撃と、初めて感じるその快感に、体全体が麻痺したようにしびれわたった。
まさに、これから情事に突入するよ、というホイッスル的役目の濃密なキスだった。
「だから、こんな目にあわされる。な? 自分がどれだけ無防備で隙だらけかが、よく分かっただろ?」
亨の唇から解放されると、水樹は大きく息を吸った。呼吸するのを忘れていたのである。体と頭は依然しびれたままで、亨の声が遠くに聞こえる。
至近距離から自分を見下ろす亨の顔を、ぼんやりとした虚ろな目で水樹は見つめた。体中を巡った快感の余韻が、まだ残っていて心地いい。
そんな水樹をしばらく見ていた亨が、今度はその唇を水樹の首筋に這わせ始めた。
水樹はまだ放心状態で、熱い亨の唇からの新たなる刺激をされるがままに受けていた。が、それも着ていたシャツとその下のキャミソールの中に、亨の手が滑り込んでくるまでである。
さすがにそこでハッと覚醒し、慌てて亨の手を抑えた。
「ち、ちょっとっ、なにしてるのよ?!」
「なにって、だから言ったろう? 隙みせてるとこういう目にあうってことを教えてやってんの。二度と迂闊な行動を取らないように」
耳元でそうささやきながらも、亨の唇は水樹の首筋や肩を優しく愛撫し続ける。
そのゾクゾクした感じに気をとられないよう、必死になって集中しながら水樹は言った。
「分かった。もう分かったから。だからもうやめて!」
亨が顔をあげ、水樹を瞳をのぞき込んだ。
「本当に分かったのか?」
「わ、分かったわ。これからはもっと気をつけるようにするっ。だから、早くどいて!」
「……………」
しばらく無言でいた亨だったが、やがて彼は動き出した。また水樹へ愛撫を再開したのである。
「! ちょっ…なっ、なんでそうなるの?! もう分かったって言ったでしょう?! やめて」
「悪い。俺がとめられなくなった」
水樹は本気で青ざめる。
「ちょっ……。そ、それはないんじゃない? やめてったら……あっ…んんっ」
さきほどのキスの余韻がまだ体の中にくすぶっている。それに新しい刺激を与えられて、水樹の体はビクンと跳ねた。
亨の手が優しく水樹の前髪をかき上げる。
「俺、水樹のことが好きだからさ、本当はもっと前からこうしたかった。ここまできたら、もうやめられねーよ。……水樹は嫌か?」
嫌ではない。でも、それを自分の口から言うのはためらわれる。だから、思っていることとは違う言葉が口からこぼれた。
「嫌よ。だから、やめて」
「やめない。嫌よ嫌よも好きのうち、なんてことを本気で信じてるバカ男と俺は違うけど、でも今だけそんなバカ男になりきることにする。好きだ、水樹。これ以上、ガマンできない」
亨の手の動きや首筋を這いまわる唇だけでなく、その言葉さえもが水樹を甘く陶酔させる。
ああ、ついに亨と結ばれる日がきたのか………。しかもこのシチュエーションは、水樹が最も望んだ形である。
だって、水樹の心中は「嫌よ嫌よも好きの内」の典型だったのだから。
もたらされる快感に、少しずつ思考が麻痺し始める。のしかかっている亨の体の重みが、辛いどころかとても安心感を与えてくれる。
だけど、だけど電気だけは消して欲しいとそう思い、体を動かそうとして伸ばした腕を亨につかまれた。そのまま指を絡められ、堅く握りしめられる。
電気が消えないのならば仕方がない。せめて自分だけでも暗闇の世界にいるつもりになろうと、水樹はギュッと堅く目を閉じた。
怖さや不安も快感も、きっと目を閉じていればすぐに終わる。
「……………?」
ふと、それまで体全体を覆っていた重みがなくなり、水樹は不思議に思って目を開けた。そこには、苛立った顔の亨が見える。
亨は荒々しく自分の前髪をかきあげると、ソファーから体を起こした。そして、水樹に背中を向ける。
突然の行為の中断。
「と、亨………?」
とまどいながらも声をかけると、亨が低い声で掃き捨てるように言った。
「そんなに嫌か?」
「え?」
振り向いた亨が自虐気味に笑った。
「さすがに、あそこまで嫌な顔されると、そのまま続行する気にはなれねーよ。……正直、ちょっと傷ついた」
そして、重い吐息を一つもらすと、そのまま足早に玄関に向かった。そして、靴を履き始める。
驚いたのは水樹である。
慌ててソファーから体を起こすと、亨の後を追って急ぎ玄関に向かった。
「ちょっと待ってよ」
既に靴を履き終えた亨が、無言で水樹を振り返る。
その顔があまりにも無表情で、怒っているのか悲しんでいるのかよく分からず、強いて言うならとにかく重いものだったので、水樹は言葉につまって息を飲んだ。
「なんだ?」
その声は限りなく冷たい。まるで、突き放されたような気持ちになる。
それでもなんとか水樹は声をしぼり出した。
「どこに行くの?」
「分からん」
素っ気ない亨の答え。
「帰ってくるんでしょう?」
「……………」
それにはなにも答えずに、亨は出て行ってしまった。ガチャンと閉まるドアの音。
後に残された水樹は、そのまましばらく茫然と玄関で立ち尽くしていた。
いったいなにが起こったのか。さっぱりワケが分からない。
―――――あそこまで嫌な顔をされると―――――
そんなに嫌な顔をしていたのだろうか、自分は。
いや、そんなはずはない。
だって、受け入れるつもりでいたのだから。
これまで抱えていた「アレ」に関するバカな悩みから解放されることを、むしろ喜んでいたのだから。それに、なにより亨のことが好きだから。
だから、今日は行きつくところまで行ってやろうと、そう思いながら目を閉じたのだ。決心していたのだ。
「もしかして、目を強く閉じすぎて、そんなに嫌そうな顔に見えたのかしら?」
確かにあの時、水樹はギュッと目をつぶった。
明るい部屋で行為におよぼうとしている羞恥心を忘れるためと、それと恐怖心を拭い去るために。
鏡の前に立ち、水樹はギュッと目を閉じてみた。
当たり前のことだが、なにも見えない。目を閉じていて、鏡を見ることなんでできやしない。
……………。いつからこんなにバカになったのよ、わたし。
水樹は軽く頭を振ると、洗面所の鏡の前から離れた。そして、先ほど亨に襲われそうになったソファーに戻って腰を下ろす。
これまでだって、ケンカしたことは何度だってある。
ケンカと言うか、まあ口論というか、そんな軽いもんではあるが、そのたびに亨は「仕方ないなぁ」と笑いながら自分の方から折れてくれた。自分が悪いと分かっていても、素直に認められない水樹の心情を察して、ことを丸くおさめるために自分の方が謝ってくれた。
それなのに、今回に限ってそうはならなかった。
さらには家まで出て行ってしまった。行き先も言わずに……。
少しずつ水樹の中の不安が大きくなりはじめる。
このまま亨が帰ってこなかったらどうしよう?!
どうしてあの時、亨を引き止めなかったのだろう。
どうしてすぐ、亨の後を追っていかなかったのだろう。
いまさら後悔したって後の祭りである。
もしこの時水樹がもう少し冷静だったら、亨が怒って出て行ったのは、あながち自分のせいだけではないことに気づいたかもしれない。
だって、水樹は亨との新しい関係を受け入れるつもりでいたし、それを勝手に誤解して怒って出て行ったのは亨なのだから。柏木にキスされたのだって、元はと言えば、柏木を水樹に紹介したのは亨である。
しかし、水樹は冷静ではなかった。これまでになく冷静ではなかった。
だから、全部自分が悪い。もしかすると、このまま亨に捨てられてしまうかもしれない。と、そう思い込んでしまったのである。
ふとダイニングテーブルを見上げると、そこには豪華な食事が用意されていて、そのことに水樹は今初めて気づいた。家に帰った途端、すぐに亨とケンカになったので、今までまったく気づかなかったのだ。
テーブルの中央には四角い箱があり、それを開けてみて水樹はあっと声を上げた。
『Happy Biratyday 水樹 十九才おめでとう!!』
すっかり忘れていた。今日は自分の誕生日だったのだ。
「………亨……」
きっとこの料理も、亨が心をこめて作ってくれたものだろう。二人でお祝いするために、バイトのシフトも自分から頼んで交代してもらったに違いない。
きしむ心を抱きかかえるように、水樹はその場に座り込んだ。そして、ポロリと涙を流す。
結局、その夜は朝まで一睡もせずに亨の帰りを待ってみたが、やはり亨は帰ってこなかった。
前ページへ
|
「亨と水樹」目次へ
|
次ページへ