「それじゃ、この問題を解いてみて」
「はーい」
水樹が里奈の家庭教師をするようになって、二週間が過ぎた。
どうなることかと多少気をもんでいたのだが、やり始めてみると、それは水樹にとって、まあ、なかなか楽しいものであった。
なんと言っても、里奈は水樹に従順である。
言うことはよく聞くし、勉強態度も真面目だ。
どうやら里奈、水樹の美しさにひたすら敬服し、憧れの気持ちを抱いているらしい。水樹を見る時の、里奈のこのキラキラと輝く少女漫画にでも描かれていそうな潤った瞳。
そういう目で見られることに慣れているとはいえ、さすがの水樹も引いてしまうほどである。なんといっても相手は同性だ。
しかし、そうは言っても、そんなところがまたカワイイと言えばかわいい。
そもそも子供は嫌いな水樹である。
子供と言えば、ワガママで自分勝手で思い込みが激しい上にヒステリー。
そんなモノを相手にするなんてマッピラだとばかりに、これまで自分より三才以上年下の子とは口をきくもの避けていたのではあるが、なかなかどうして!
すっかり水樹は里奈のことを気に入ってしまったのである。
そうなった理由の大きな原因の一つに、里奈がバカではなかった、というのがある。
初対面の時の、兄や母親に対して放った言葉の端々からも感じていたのではあるが、基本的に里奈は頭の回転の速い子だった。飲み込みも早いし感もいい。
勉強を教えても、すぐに成果がはね返ってくるので、水樹としてもやりがいがあって楽しいのだ。
そうは言っても、これまで勉強をサボってきているため、基本的な部分からやり直さなければならない。そのため、まずは暗記を中心に授業を進めていくことにした。
毎回帰る時、里奈に五教科の内から三教科分のプリントを渡しておく。そして、そのプリントをそのままテストにして、次回来た時にちゃんと覚えたかどうかを確認するのだ。
そこまでに使用する時間がだいたい三十分。
残りの一時間は、問題集を使ってテストした部分の応用問題を解いたする。
高校受験なんて、言ってみれば暗記量だけで合否の結果が出ると言っても過言ではない。社会なんて本当に暗記だけの勝負だし、その他の教科にしても似たようなものである。問題をひたすら解きまくり、そのやり方を頭に叩き込めばいいだけなのだから。
応用力が求められるのは、大学受験からである。これはさすがに暗記だけでなんとかなるという世界ではない。
しかし、里奈は中学生。受験するのは高校である。まだタイムリミットまで半年以上もあるし、間に夏休みもある。
そして、里奈はかなり頭の回転のいい子なのだ。暗記力だって悪くない。水樹の言うこともよく聞く。
これは楽勝、ってな感じで、水樹は気持ちに余裕を持って授業することができたのである。
すでに水樹とってこの家庭教師の仕事とは、自分の立てた予測と計画に間違いがなく、思った通りに事が運ぶかどうかを確かめたいという、水樹自身の楽しみになっていた。
「水樹先生、問題終わりました」
「あら、早かったわね」
水樹が言うと、里奈はペンシルをお尻で頭をかきながら顔をしかめた。
「でも、この最後の問題だけはどうしても分からなくて」
水樹はまず、解けてある問題の答えが間違っていないことを確認すると、赤ペンでそれに丸をつけた。
「うん、答えはあってるわ。それじゃ、この正解した問題を解く時のポイントを説明してみてくれる?」
「ええっと、この問題は、この三角形が三平方の定理に当てはまることに気づくこと。この問題は、こことこの三角形が相似であることに気づけば簡単に解けた」
「その通りよ。よくできたわね」
水樹が微笑んでみせると、里奈は嬉しそうにへへへと頬を染めた。
「それじゃ、解けなかった最後の問題を見てみましょうか。 これは確かにちょっと難しい問題なの。でも、いい? 思い出してみて。この前にやった問題を応用して……」
里奈は真剣な顔をして水樹の説明に聞き入っている。そして、しばらくすると歓喜に顔を輝かせた。
「ああ、そっかぁ。そうやればいいんだぁ!」
「分かった?」
「うん! 分かった分かった。水樹先生の教え方って、すっごく分かりやすいんだもん。なるほどねぇ、こうやるんだぁ。学校の授業で習った時はチンプンカンプンだったのに、今日はすぐに分かった。さっすが水樹先生!」
こんな嬉しいことを言ってくれるものだから、俄然、水樹もやる気がでてくるワケである。
これが自分と同じ年くらいの男に言われたのなら、水樹にしても態度は違う。なにを媚びるようなことを言っているのだと、かえって不快に感じたかもしれない。
でも、相手が四つも年下の同性の女の子なものだから、水樹にしても素直に喜べるのだ。
その最後の問題を里奈が完全に理解したところで、水樹は参考書と問題集を閉じた。里奈が不思議そうな顔をする。
「まだ十分くらい時間あるけど?」
「ええ、でも予定していたところまで終わったから、後はのんびりやりましょう。なにか質問とかあるなら、訊いてくれてもかまわないけど。学校の宿題でもいいわよ」
「うーん、じゃあ、一つ質問させてもらおうかなぁ。先生は医学部なんだから、将来はお医者様になるんでしょう? それってどうして? なんでお医者様になろうと思ったの?」
勉強以外のことを質問されたことに、水樹は少し苦笑しながら答えた。
「それは家庭教師の仕事の範囲外だわね。答える義務なし」
里奈は頬をふくらませた。
「いいじゃない。教えてよ」
「ま、色々と複雑な理由があるのよ。ひと言で言えるようなものじゃないから言わないわ」
きっぱりとそう言った水樹を見て、里奈はすねたような顔をしながらも、あきらめる様子を見せた。
たった二週間の付き合いではあるが、里奈は水樹という人間を多少は理解しているらしい。これ以上しつこくしてもどうせ答えてもらえないし、下手すれば機嫌を損ねる可能性があることが分かっているようだ。
そういう人の機微に聡いところも、水樹が里奈を気に入っている理由一つだったりする。
だから、ちょっとだけ答えてあげた。
「まあ、お金が理由じゃないことだけは確か。それと、自分の家が病院だからってことでもない。病院は兄が継ぐことに決まっているから」
「ふうーん。それじゃ、水樹先生は自分の意志で医者になるんだ。親から無理矢理言われたりしたワケじゃなく?」
「そういうこと」
そうかそうかと何度かうなずいた後、おもむろに里奈は言った。
「あたしも将来なりたいものがあるんだ。実は歌手になりたいの」
「歌手?」
「うん、そう。絶対になるって決めてるの。だから、必要ないと思ってこれまだあんまり勉強しなかったんだ。勉強するくらいなら、友達とカラオケボックスに行って歌の練習してた方がマシだと思って」
なるほど、と水樹は思った。
里奈は頭のいい子である。学校の勉強くらい、そう苦にならなかったはずだ。その里奈が、どうしてこれまで勉強をサボってばかりいたのかと、水樹は不思議に思っていたのである。
それと、もう一つ分かったこと。里奈の母親が言っていた夜遊び。これもきっと、カラオケボックス通いが原因なのだろう。
水樹が納得していると、顔をしかめた里奈が不機嫌そうに言った。
「本当はボイストレーニングに通いたいんだけど、ウチの親は頭が堅いから行かせてくれないの」
「歌手になりたいって言ってみたの?」
「もちろん。そしたらもうすごい剣幕で、なにをバカなこと言ってるの、そんな恥さらしなこと許しません、だって。挙句の果てに、あなたは大学を卒業したら仕事なんてしなくていい、お料理習ったりお花を習ったりしながら花嫁修業をしなさい。その内、いいお宅のご子息と結婚することになるんだから、って。バカにしてると思わない?」
頭から湯気を出して怒り狂っている里奈を、水樹は同情をこめた目で見た。
里奈の憤りが、水樹には分かる。
水樹とて、無理矢理県会議員の息子と婚約させられそうになったことがあるからだ。その相手とは、もちろん、ナルシスト男の宗太郎である。
娘を持つ上流階級の親というのは、どこも同じようなことを考えるものなのね、と、その単純な思考回路に腹が立ってくる。
自分は上手くことが運び、なんとか婚約をま逃れることができた。そして今、亨との幸せな生活を送っている。
しかし、里奈はどうだろう?
自分のように、親の魔手から逃れることができるだろうか?
ぜひとも、そうさせてあげたい。
里奈に夢があるのなら、それを叶えさせてあげたいと水樹は思う。
とは言え、余計な助力をするつもりは毛頭ない。本人にやる気があり、その努力を怠らなければ、きっと道は開けるはずである。なにごとも、本人次第なのだ。
「わたしは里奈ちゃんが歌手になること、応援するわよ」
水樹が言うと、里奈は嬉しそうに顔を輝かせた。
「水樹先生、それホント?!」
「ええ。とは言っても、応援するだけで、なんの力にもなれないけど。唯一できることと言ったら、あなたに勉強を教えることくらい」
ショボくれた顔を里奈は見せた。
「勉強かぁ。水樹先生が教えてくれるからがんばるけど、でも本音を言うと、歌の練習の方に力を入れたいのよね」
「だめよ、まずは高校受験に合格すること。いい子のフリして親を安心させておくの。陰でなにをやっても疑われないようにね。本当に歌手になりたいのなら、歌の練習はいつでもどこでもできるし、やるなと言われてもやるでしょう?」
「うん、そうかも」
「あなたがずっと歌手になるって情熱を持ち続け、さらに才能があるのなら、必ずその道は開けると思うわ。だから、まずは勉強よ。それでなくても険しい道のりだもの。少なくとも、親からの妨害くらい入らないようにしておかなきゃね」
話を聞いていた里奈が涙目になった。
「ありがとう。あたしの話を真面目に聞いてくれたのは、水樹先生が初めて。友達だって、歌手になんてなれるワケない、って笑ってたのに……」
ティッシュを取ると、里奈はたれてきた鼻水をフーンとかんだ。そして、言う。
「あたしがんばる! 水樹先生の言う通り、まずはがんばって高校受験に合格する! だから、これからもよろしくお願いします」
「わたしの授業は厳しいわよ。特に夏休みはハードスケジュールになる予定だから。真面目にやらないと、家庭教師はすぐにでも辞めさせてもらいますからね」
笑いながらも脅すように水樹が言うと、里奈は真剣な顔をしてそれに答えた。
「あたしっ、死ぬ気でがんばる!!」
その夜、居酒屋のアルバイトから帰ってきた亨に、水樹は今日のできごとを話して聞かせた。
「へぇー、歌手ねぇ」
さっぱりとシャワーを浴び、タンクトップに短バンといった格好の亨は、濡れた髪をタオルでごしごし拭きながら、少し首をかしげるようにして言った。
「ちょっと意外だなぁ」
「そう? あの子かわいいし、そういう夢を持っても不思議じゃないと思うけど」
「そうじゃなくて」
亨は肩をすくめた。
「俺が言いたいのは、水樹がそこまで里奈ちゃんに親身になってるってこと」
タオルを肩にかけ、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出そうとしている亨を、水樹はキョトンとした目で見た。
「わたし?」
「そう、わたし」
麦茶を飲み終わると、亨は水樹の座るダイニングテーブルに自分も腰を下ろした。
「だってさ、あまり他人のことに首を突っ込むタイプじゃないだろ? どうでもいいって感じでさ。どっちかって言うと、煩わされたくないって方じゃない? だから、ちょっと意外に思ったワケ。優しいんだなぁ、里奈ちゃんには」
う、と水樹は下唇を噛む。
「べ、別に優しいわけでも親身なわけでもないわ。わたしはただ、ああ言えばちゃんと勉強をちゃんとしてくれるようになると思っただけよ。あの子の成績が上がらないと、わたしの力量を疑われるんだから」
「でも、今のところ勉強は真面目にやってるんだろ? そんな必要ないじゃないか。ホントにもう、すぐ自分を悪ぶってみせようとするんだから。かーわいいなぁ、水樹は」
頬杖をつき、にこにこしながら自分を見る亨を前に、水樹は赤くなる。
「ち、違うわよ。本当にそうなんだってば!」
「いいよいいよ、どっちでも」
亨は笑う。
「とにかく、俺は水樹が色々な人と付き合ったり、親身になって相手してやったりすることに大賛成だからさ。ま、がんばってみろよ。俺に手伝えることがあるなら、なんだってするからさ。でも」
笑っていた亨が、ちょっと真面目な顔をして水樹を見つめた。
「俺のことも忘れずにかまってくれなくちゃ嫌だぜ?」
「……………」
その言葉の深い意味に、もちろん水樹は気づいている。
同棲を始めてから、もう三ヶ月以上たつ。しかし、いまだに二人の関係はキス止まりなのだ。そういう素振りは見せないが、亨がそれ以上の関係を求めていることを、水樹は知っている。
「そりゃ、いつかは俺だって、水樹とあーんなことやこーんなこともしたいもんな」
以前、亨はそう言ったことがある。
亨だって若い男だ。付き合っている相手にそれを望むことは、別にいやらしいことでもなんでもなく当たり前のことだと言える。
亨は待ってくれているのだ。
水樹がそれを受け入れることができるようになるのを。
ずっとガマンしていてくれてるのだ。
それが分かっていながら、水樹にはOKの返事を出すことができない。
裸を見られるのが恥ずかしいとか、やっぱりちょっと怖いとかの理由はもちろんあるが、目下、水樹にとって亨にOKの理由を出せない一番の理由はこういうことだった。
その返事とは、いったいどうやって出せばいいものなのか?
まさか、
「抱いていいわよ」
とか、
「わたしも亨とそういうことしてみたい」
なんて自分の方から言えるわけがない。そんなこと、口が裂けても言えやしない。
水樹にしても、亨とそういう関係になることに興味はある。本当言うと、そうなってもいいと思っているのだ。
でも、そのことを、なんと言って亨に伝えたらいいのか分からなかった。
この際、亨が「もうガマンできん!」とばかりに強引にしかけてくれでもすれば、成り行きまかせにそれを受け入れることもできる。でも、亨は優しいから、水樹を大切に想ってくれているから、絶対にそんなことはしない。
水樹としても、困っているのだ。
ホント、困っているのである。
だから今も、熱い目で自分を見つめる亨になんて言ったらいいか分からず、顔を背けて高飛車にこんなことを言ってしまった。
「なによ、これ以上どうかまえっていうの? このわたしと一緒に住めるだけでもあり難いと思いなさい」
それに対し、亨は不快な顔一つ見せず、笑いながらこう答えた。
「ははは、そりゃそうだ。感謝してます、お姫様」
そんな亨の笑顔を見て、水樹は落ち込んだ。
違うのに。そうじゃないのに。
本当に言いたいことは、あんなことじゃないのに。
なのに、どうして自分は素直になれないのだろう。
顔には出さず、こっそり水樹が自己嫌悪におちいっていると、居間の片隅にある二人共用デスクの上に置かれたノートパソコンとプリンタを見ながら亨が言った。
「しかし、こうなってみると、あのパソコンとプリンターも役に立つな」
話題が変わったことにホッとしながら、水樹もそれら機材に目を向けた。
「ええ、ホント。すごく助かってる。里奈ちゃんのテスト問題作ったりするのに、今ではなくてはならない必需品だもの」
「兄貴が同棲祝いとかなんとかいって、いきなり送りつけてきた時にはどうしようかと思ったけど。いやぁ、良かった良かった」
少し考えるようにして水樹は言った。
「そう言えば、わたしまだお兄様に直接お礼を言ってなかったわ。今度、電話でもしてみようかしら?」
それを聞いた亨が、微かにだが動揺した素振りを見せた。
「いやっ、いいよ! 俺からちゃんと言ってあるから。大丈夫、わざわざ電話することないって!」
「そう?」
「うん、ホントホント。それより、もう寝ようぜ。お互い明日は朝イチから講義入ってんだからさ」
亨がそう言うと、少し怪訝そうにしていた水樹も素直にうなずいた。
「そうね。亨も遅くまで働いて疲れてるでしょうし」
そして、お互いにおやすみを言い合って、二人はそれぞれの部屋に戻ったのである。
部屋に入った亨は、額の汗を拭きながらふぅっと息を吐いた。
実を言うとあのパソコンとプリンタ、亨の兄である憲正がくれたものではない。水樹の父親が贈ってくれた物なのである。
「少しでも役に立てばと思って。大学では論文やレポート書くのに必要だろうからね。水樹にはわたしからということは伏せていて欲しい。聞くと、きっと送り返してくるからね」
苦笑交じりに電話先でそう言った水樹の父親の言葉からは、娘に対するとても深い愛情を感じた。だから亨は、バレたら水樹にとんでもなく怒られると分かっていながらも、つき返せなかったのだ。
家庭教師をするようになって、水樹は頻繁にあのパソコンを使用するようになっている。
あの姿を見たら、親父さんもさぞかし喜ぶだろうと思いながら、亨は目を細めてそんな水樹を見ていたのである。
「しかし、好きな人への隠し事は、ホント、体によくねえなぁ」
そんなことを呟きながらベッドに入った亨は、しばらく天井を見つめていたかと思うと、おもむろに大きく息を吐き出した。
今日もなにごともなく一日が終わった。
そう、ナニゴトもなく。二人の関係に、なんの進歩もみられず。
自分たちの関係が、一歩進んだものになるのは、いったいいつのことなのだろうか。
それを考えると、ホントにホントに大きな溜息が出てしまうのだ。
亨が見る限り、水樹にはまだそういう意味で自分を受け入れる心の準備ができていないように思える。だから、ひたすらガマンにガマンを重ねてきた。
「でもなぁ、水樹。俺にもガマンの限界ってモンがあるんだぜ?」
まさか水樹の方でもその準備がほとんど整い、後はきっかけを待っているだけとは思ってもみない亨である。
そりゃそうだ。
だって水樹は、完璧にそれを隠しているのだから。女がそれを求めていることを恥ずかしいと思っている水樹は、そのプライドの高さも加わり、その想いを微塵たりとも表に出してはいない。
だから亨は、もう無理矢理でもいいから強引に襲ってきて、なんて水樹が思っていることなど、考えたこともないのだ。
そんなワケで今夜もまた、亨は一人ベッドの上で、悶々と深い溜息をつき続けることになる。同じことを考え、水樹も自分の部屋で溜息をついていることになど、まったく気づきもせずに……。
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