そんなワケで、二人は身支度を簡単にすませると家を出たのである。
「その先輩って、どんな人なの?」
乗り込んだ電車の中で、水樹は隣に立つ尋ねた。亨はそれに即答する。
「いい人だぜ。柏木さんって言うんだけど、バイト入ったばかりの俺に、色々と教えてくれたのは先輩だったもんな。ちなみに、水樹と同じK大」
「あら、そうなの?」
「経済学部の三年生だったと思う。親父さんは大蔵省のお偉いさんとか言ってたかな? バイト仲間に聞いた話じゃ、かなりのお金持ちなんだって」
「ふーん。大蔵省、ね」
お国がらみの仕事を持つ父親。
なんとなくだが、水樹の頭に宗太郎のニヤけた顔が浮かんできた。
宗太郎の父親は県会議員でちょっと種類は違うが、でも、政治家も官僚も水樹にとっては似たようなものである。
「本当に大丈夫なの、その先輩」
渋顔の水樹に、亨はニカッと笑顔を見せた。
「大丈夫だって。本当に親切でいい先輩なんだ。ついでに言うと、かなりの二枚目だぜ。噂じゃ、ちょっと女グセの悪いところもあるって話だけど、水樹に手を出すことはないだろう。俺の彼女だって知ってるからな」
「女グセの悪い男の、どこがいい人なのよ?」
「まあ、少なくとも男の俺にとっては、申し分なくいい先輩ってこと。でも、万が一誘われたとしても、浮気はなしな。俺、マジで怒り狂うぞ」
「さーて、どうかしらね」
水樹が意地悪く目を細めてみせると、亨は顔をしかめて唇を突き出した。
そうこうしている内に目的の駅に着き、二人はもらっていた手書きの地図を頼りに柏木家を探したのである。
そして、閑静な住宅街の中を歩くこと十分。ある一つの家を前に、二人は呆然と立ちすくしていた。
でかい。とにかくでかい家である。家というようりは、豪邸と呼んだ方がしっくりくる。
「ずい分大きなお宅ね。本当にここで間違いないの?」
亨は頭をかきながら、何度か地図を確認した。
「あ、ああ、間違いない。表札もちゃんと柏木になってるし。でも、すっげーなぁ。先輩って本当にお金持ちのお坊ちゃんだったんだ。あ、でも、考えてみれば水樹んちの方がデカいよなぁ。庭とか倍くらい広いし」
「バカね。ここは東京の高級住宅街よ。わたしの家とでは、地価に雲泥の差があるわ」
「しっかし、すごいよなぁ。国家公務員って儲かるんだー」
感嘆の声を上げる亨に、水樹は淡々と言う。
「代々のお金持ちかもしれないでしょう? そんなことより、早く行きましょうよ。そろそろ約束の時間なんでしょう?」
水樹に促され、亨はドアフォンのベルを押した。
出迎えてくれた家政婦にすでに話は通っていたらしく、二人はすぐに居間に案内された。
家政婦が居間のドアを開けると、一人の青年がすぐに二人を出迎えた。
「やあ、よく来たね、室井くん。それから、きみが水樹ちゃんだね?」
社交辞令の愛想笑いを浮かべながら頭を軽く下げた水樹の隣で、亨が本物の笑顔を見せる。
「ちわっす。すいません、少し遅れましたか?」
「いや、ぴったり時間通りだよ。さ、そんなことより入って入って」
柏木に背中を押されるようにして、二人は居間の奥に足を進めた。
黒い本皮でしつらえたいかにも高価そうなソファーの前に、一人の上品そうな女性が微笑みながら立っているのが目に入る。
「いらっしゃい。さ、どうぞ、お掛けになって」
「俺の母親」
柏木が紹介してくれたが、言われるまでもなく二人が親子であることは一目瞭然である。性別の違いはあるが、それにしてもよく似た親子である。とにかく、二人ともやたらと愛想がいいし、ハイソな雰囲気がかもし出されている。
「飲み物は紅茶でいいかい?」
その質問に「おかまいなく」と答えながら、水樹は何気なく柏木という男を観察した。
確かに亨の言う通り、なかなかの二枚目である。優しさのにじみ出る甘い顔をしていて、軽いパーマっけのある茶色の髪が、その甘いマスクによく似合っている。体つきはかなりホッソリしているものの、上背と肩幅があるので、さほど気にならない。
堂々と自信に満ちた態度でありながら、しかし物腰は柔らかい。
とにかく、女にモテそうなタイプの男である。
そして、その母親はというと、四十代半ばのこれまた美人で、上品セレブなデザインスーツを見事に着こなすその姿は、いかにもお金持ちの奥様といった感じの女性である。
絵に描いたような上流階級の洗練された親子、といったところだろうか。
挨拶を終えると、亨と水樹は隣同士にソファーに腰を下ろした。
すぐに水樹は用件を切り出しす。
「お嬢さんに家庭教師を探しているということで、こちらにうかがわせていただいたのですが……」
「ええ、ええ、そうなの」
水樹が話している最中に、柏木の母親が笑顔で口を出してきた。
「ちょうど、あなたのように素敵でしっかりした方を探していたんですのよ」
「あんまり堅くならないでよ、水樹ちゃん。話は室井くんからだいたい聞いていて、こっちはもうそのつもりなんだから。後はちょっと話をさせてもらって、後は念のために人となりを確認させてもらおうと思っているだけだから」
にこやかにな母親の隣から、同じような笑顔で柏木がそう言った。
「はあ、そうですか」
こちらが断る可能性をまったく考えていないその言葉に、少し水樹はカチンときた。が、もちろんそれを顔に出したりはしない。
「それで、お嬢さんはいらっしゃらないんですか。できれば、会っときたいよなぁ、水樹? これから一緒に勉強していくかもしれない相手なんだから」
亨の問いかけに水樹はうなずく。
「お嬢さんにお会いできますか?」
一瞬、柏木とその母親は目を見合わせた。
その時に流れたちょっとおかしな空気に、水樹は心の中に「?」マークを浮かべる。ちらりと隣を見ると、同じように感じていたのか亨も水樹の方を見ていて、以心伝心、二人で無言の会話を目で交わした。
(今のなにかしら?)
(さあ?)
なんとなく、四人とも無言になってしまう。
ちょうどその時、家政婦がお茶を運んできたので、四人の間にあった妙な空気は、きれいさっぱりに流れてしまった。
テーブルにティーセットを並べ置き、部屋を退出しようとした家政婦に母親は声をかけた。
「早く下に降りてくるように里奈に言ってちょうだい」
そして、水樹と亨に微笑みを向ける。
「ごめんなさいね。すぐに降りてくると思うから、もうちょっと待って下さる? その間、水樹さんのお話をちょっとうかがいたいのだけれど、よろしくて?」
「ええ、かまいません」
水樹が答えると、母親は嬉しそうな顔をした。
「それじゃ早速だけど、確か水樹さんはK大の学生さんなのよね? 学部はどちら?」
「医学部です」
「まあ、医学部?! 優秀なのね」
それをかわきりに、出身地やら親の仕事のことやら家柄のことやら趣味のことやら、他にも根掘り葉掘りと色々なことを水樹は質問されたのである。質問してくる相手は、母親だったり柏木だったり。
水樹は失礼にならない程度に淡々と、しかしまあ、答えられる範囲で辛抱強くそれに答えたのである。誰もを魅了する作り笑顔を添えつけて。
すべての質問に水樹が答え終わった時、柏木の母親は感嘆の溜息をついた。
「まあ、本当に水樹さんは素晴らしいお嬢さんね。ご両親も、さぞかしあなたのことがご自慢でしょうねぇ。それに比べてウチの理奈は……」
そこで母親は、ハッとしたように口元に手をあてた。そして、柏木の方をチラッと見る。
柏木は苦笑いしながら肩をすくめた。
「お母さん、本人に会ってもらう前に、ちゃんと里奈のこと説明しておいた方がいいんじゃない? いきなりだと、驚かせてしまうかもしれないしさ」
「そうねぇ……」
わざとらしほどの大きな溜息をつく母親を見た亨が、微かに顔をしかめて柏木に言った。
「どういうことです? 妹さんになにか問題が?」
そんな話は聞いてませんよ、と目で強く訴える。
慌てたように柏木が手を振った。
「いや、問題というほどのものじゃないんだ。ただ…その、つまり、妹はかなりのはねっかえりでね」
「はねっかえり?」
亨と水樹は同時に口を開いた。
「どういうことっすか?」
「うん……まあ、とにかく反抗的でね。まったく言うことをきかないんだ。まだ中学生のくせに夜遊びはするし、本業である学業にはまったく興味をしめさないし」
やれやれ、といった感じで柏木は両手を天に向ける。
「不良少女とまではいかないんだけどね、暴力はふるわないし。ま、根性が腐ってるんだよ。里奈は我が家の落ちこぼれだから」
少し意地悪げに柏木は笑った。
そんな柏木の肩に手を置き、母親は誇らしげに息子を見つめる。
「この子はなにをやらせても優秀で、どこに出しても恥ずかしくない自慢の息子なのだけれど、里奈には…本当に手を焼かされているの。もう、どうしたらいいんだか」
「ま、ひがんでいるんだと思うんだ。いつも俺とくらべられて惨めな思いをしてきてるからね。本音を言うと見放したいくらいなんだ。でも、実の妹だからそうもいかないだろ? いくらミソッカスで我が家の恥とでもいう存在であってもね。だから、妹のいいお手本になってくれる水樹ちゃんのような素晴らしい家庭教師を探していたというワケなんだ」
その柏木の言葉に、亨と水樹が同時に顔をしかめた時である。
水樹たちの座るソファーの後方から声がした。
「あーあ、また二人してあたしの悪口言ってんのー?」
その場にいた四人は、パッと声の主に向かって顔を向けた。
そこには、Tシャツにジーパンというラフな装いの少女が、不機嫌そうな顔をして立っていた。
「里奈ちゃん、なんです、そのだらしない格好は?!」
「お客様に失礼だろ? 挨拶もまともにできないのか?」
母親と兄に向かって、その少女―――里奈―――はべーっと舌を出してみせた。そして、薄ら笑いを浮かべて言う。
「子供の躾がなってないのは親とか年長者の責任でしょ! 文句ばっかり言ってないで、少しは自分のことを反省してみればー?」
「まあっ、なんてこと言うの、里奈ちゃんたら。お父様が帰っていらっしゃったら叱ってもらいますよ!」
「とにかく、早くこっちに来るんだ」
ふん、と里奈は鼻から息を出すと、仏頂面のまま母親と兄の前まで歩み寄った。
「また新しい家庭教師を雇うつもりなの? 懲りないわねぇ。何度も言うようだけど、あたし、真面目に勉強する気はないの。絶対にまた追い出して……」
そこで、初めて亨と水樹をまともに見た里奈は、目を見開いて素っとん狂な声を上げた。
「うっわー、ウチはいつからタレント事務所になったのよ?! こんなカッコイイお兄ちゃんと美人のお姉ちゃん、今まで見たことない! あなたたち誰?! どうしてウチにいるの?」
目を輝かせて亨と水樹を交互に見る。
その素直な反応と、開けっぴろげな物言いに、水樹はくすりと笑った。
亨も、さっきまでの柏木とその母親を見ていた含みのある表情ではなく、楽しそうな笑顔で「よろしくな」と里奈に片目を閉じてみせている。
「そちらの田所水樹さんに、あなたの家庭教師をお願いするつもりでいるのよ」
「えっ、ホントにぃ?!」
母親の言葉を聞き、里奈は嬉しそうに顔を紅潮させた。が、ハッとしたようにそのかわいらしい顔をまた不機嫌そうにしかめて、プイとソッポを向いた。
「か、家庭教師なんて必要ないって言ってるでしょう。あたしは勉強なんて大嫌いなんだから!」
その仕草が、亨と水樹には興味あるが親の言いなりになるのが嫌だ、という里奈の心理をよく表していて、またそれを上手に隠し切れない幼さが、水樹の里奈に対する高感度をグッと上げた。
かわいいじゃないか、中学生。
実際、さすがは美人の母親とハンサムな兄を持つだけあって、里奈はかなりかわいい子である。今はまだ子供臭さが完全に抜け気っていないが、もう一・二年もたつ頃には、男の子からの誘いが引く手数多となることは疑いようもない。
「あんまりワガママばかり言うもんじゃないぞ。このまま負け犬人生をずっと送るつもりなのか?」
口調こそは優しいが、容赦ない兄からのあざけり声に、キッと里奈は眉をつり上げた。
「なにが負け犬よ。あたしのことは放っといて! お兄様とあたしとじゃ「勝ち」の定義が違うんだから! お兄様こそなによ、親の引いたレールの上しか走れない小心者のくせに。えらそうなこと言わないで!」
さっと柏木の顔色が変わった。
「よくもこの俺にそんな生意気な口を……」
それまでの温和な顔とは打って変わった鋭い顔つきになる。
「なんてこと言うの、里奈ちゃん! お兄様に謝りなさい」
その隣では、母親がオロオロしながら手に持つハンカチを強く握りしめている。
どうなることかと思いながら、水樹はチラリと亨に目を向けた。亨はニヤニヤしながら、そんな親子の様子を楽しそうに見物している。
まったく、バカらしい。付き合っていられない。早くウチに帰りたい。
亨は彼らのやり取りを楽しんでいるようであるが、生憎、水樹にはそんな忍耐強さはない。親子兄妹喧嘩になどにまったく興味はないのだ。
しかし、里奈に対しては興味を持った。
上流階級意識をふりかざす親と兄に対し、まっこうから戦いをいどんでいる中学生の女の子。確かに生意気そうではあるが、兄の嫌味に負けず、真っ向から対抗するその態度と物言いは小気味よい。
しばらく考えた末、水樹はすくっと立ち上がると、にらみ合う兄妹の間にスタスタと入り込んだ。そして、里奈の方を向くと、その手を取ってにこりと笑顔を見せた。
「里奈ちゃん、一緒に勉強しましょうよ。わたしも人に教えるのなんて初めてで上手くできるか分からないけど、でも、分かりやすく教えられるように努力するわ」
呆気にとられたような顔を里奈はする。
「え…でも、あたし……」
「確かに勉強だけがすべでじゃないわ。でも、やっておいて損することはないわよ。どんなことでも、やらないよりやった方がマシよ。人生に無駄なんてことは一つもないんですもの。ね、そう思わない?」
途惑った顔の里奈の耳元で、水樹は小さくささやいた。
「がんばって成績上げて、あの鼻持ちならないお兄様の鼻っ柱をねじり折って見返してやりましょうよ」
ね、と水樹が片目を閉じると、里奈はその顔を輝かせた。
「分かった。あたし、先生に勉強教えてもらうことにする」
単純なところがまたカワイイと水樹は思う。あつかいやすい子じゃないか。
満足そうにうなずくと、水樹はポカーンとした顔の柏木と母親の方に振り返って言った。
「ということで、そちらにご異存がなければ、家庭教師を引き受けさせていただきたいと思いますが、いかがでしょうか?」
母親は一もニもなく大喜びで頭を下げた。
「よろしくお願いします」
こうして、水樹のバイト先は決定したのである。
「まったく、どこがいい先輩なのよ」
柏木邸から帰る道すがら、水樹は白い目で亨を見ながら文句を言った。
「自分の妹に対するあの態度、最低だったじゃない。なにが我が家の恥よ。信じられないわ」
「うーん、一緒に仕事している時は、ひたすらいい人だったんだけどなぁ。俺もちょっと驚いた」
両腕を頭の後ろで組み、空を見上げながら亨も口をへの字に曲げた。
「でも、誰でも身内と他人との態度って違うもんじゃないか? 俺は妹いないから分からないけど、兄妹なんて案外あんなもんかもしれないぜ?」
「……そうね」
「だから、さっきのあれだけで柏木先輩を悪いヤツだと決め付けるのはよくないよ。少なくとも、今のところ俺には間違いなくいい先輩だしな。それにしても、よく家庭教師引き受けたな。俺、断るかと思ってたよ。水樹、かなり先輩とお袋さんの態度にムカついてたみたいだから」
笑いながら亨は言ったが、水樹は少し考え込むような顔をして黙り込んだ。
「どうした?」
「……あ、うん」
隣から自分の顔をのぞき込む亨を水樹は見上げた。
「わたしもね、断るつもりだったの。家庭教師をするってことは、度々あの宅にお邪魔することになるってことでしょう? できればもう会いたくないと思ったから。でも、その……なんて言うか……」
「里奈ちゃんのことが気になったんだろう?」
ニヤリと笑うと、亨は水樹の首元に自分の腕をからませた。そして、グッと自分の胸に水樹の頭を引き寄せる。
「やっさしいなぁ、水樹。俺、そんな水樹大好きだぜ」
「も、もうっ、離してよ、暑苦しい!」
水樹は顔を赤らめながらも、怒ったように亨の腕をふりほどいた。
「気になったというか、とにかくあの子を勝たせてやりたかったのよ。あの二人に」
「水樹の気持ちは分かるよ。確かにひどかったもんな、先輩とお袋さんの里奈ちゃんへの態度。あれを目の前で見ちゃうと応援したくもなるわな。それに、なかなかカワイイ子でもあったし」
そう言った亨の耳を水樹が引っぱった。
「カワイイは余計」
「お、嫉妬か? バッカだなl、俺が愛してるのは水樹だけだぜ」
「……バカ言って」
ふん、と亨の耳から手を離すと、水樹は言った。
「あの柏木さんとお母様を見ていると、わたし、自分の母と兄を思い出すのよね。他人に愛想だけはよくって、でもお腹の中では絶対に違うことを考えてる腹黒い二重人格タイプ。その二人に、里奈ちゃんは正面からぶつかってがんばってたでしょう? なんだか他人事とは思えなくて。それに、味方になってくれる人もいないんだろうなって思うと、少しでもいいから力になってあげられたらいいな、なんて」
「そっか」
亨は嬉しそうに、温かい目を水樹に向けた。
その視線に気づいた水樹が、らしくないことを言ってしまったとバツの悪そうな顔をする。
「ま、まあ、家庭教師を引き受けたことには、時給が良かったいう理由も大きいのだけれどね」
テレ隠しにそう言うと、亨もうなずいてそれに同意した。
「確かに破格の値段だよな。一コマ九十分で五千円だろ? 普通はそんなに出さないよな」
「たくさんお金を払うことがステータスとでも思っているんじゃないの? バッカみたい」
「でも、助かるっちゃあ助かるよな。ありがたくいただいておけばいいさ。働く日も、月水金と俺と同じ曜日にしてもらえたし。ま、とにかくがんばれよ。水樹なら上手くやれるに決まってるけどな」
「当たり前でしょう? わたしを誰だと思ってるのよ。家庭教師、しかも中学生相手なんて簡単よ」
言ってから、少し考えるように水樹はアゴに人差し指をあてた。
「でも、そうね、レッスンに使う問題集とか参考書は購入しないといけないわね。これから書店に行くの付き合ってくれる? 一緒に選んでくれると助かるわ」
「おやすい御用ですよ、お姫様」
「頼りにしてるわよ、T大生」
まっかせなさい、と亨が自分の胸を叩く。
そんな亨を見て笑いながら、人生における初仕事も、結局は自分の力だけで決められなかったなぁ、と、水樹は思った。
話を持ってきてくれたのは亨だ。だからこそ、こんなにアッサリと仕事が決まったのである。自分だけで探していたら、いまだにアルバイト雑誌とにらめっこしていたことだろう。
亨のたくましく頼りがいのありそうな肩に、水樹は自分の頭をコツンと乗せた。亨はそれを気にする風もなく、自然に自分の腕を水樹の肩に置く。
七月の上旬。空は晴れ渡り、セミがうるさいほどに鳴きわめく夏の昼下がり。
冬の寒い中、二人体を寄せ合って温め合うのも素敵だが、歩くだけで汗ばむほどの暑さの中、相手の体温を心地よく感じながらくっついていられるのも愛あればこそ。
夏も悪くない。
そんなことを思いながら、水樹は亨に見つからないように、そっと頬を染めた。
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