水樹は勉強机の前に腰を下ろし、昨日受けた講義の復習をしながら、しかし心ここにあらずといった感じでイライラを募らせていた。
時計に目を向けると、時刻は夜中の一時三十分である。
既に風呂もすませ、肌触りのいいコットンタッチのパジャマ姿という、ラフなカッコウの水樹ではあるが、それでもどこかしら気品を感じさせるオーラを発しているところは、さすがというべきである。
「……遅い、遅すぎるわ」
他に誰も聞いている者もいないのに、わざわざ口に出してそう言うと、水樹は立ち上がってキッチンにある冷蔵庫に向かった。中から麦茶を取り出し、グラスについで一口飲む。
そこでまたしばらくしかめっ面をした後、水樹はグラスを持ってリビングにあるソファーに腰を下ろした。リモコンのスイッチを押し、テレビをつける。
若くてかわいい女の子が、なぜか水着姿で仔犬とたわむれている映像が映し出された。
くだらない。実にくだらない。
チャンネルを変えても、どこも似たり寄ったりのエロ系番組ばかりで、それがまた水樹のイライラを募らせる。
こんな番組を観て喜ぶ人間がいるのだろうか、と、水樹はそう思わずにはいられない。
「男、よね。女がこんなもの観て喜ぶわけないもの」
画面をにらみつけながら、水樹は手に持つグラスから麦茶をまた一口飲んだ。
番組として放送されている以上、それなりに視聴率があるのだろう。しかし、こんなくだらない番組を喜々として観る人間の気がしれない。
そもそも、水着で仔犬と遊ぶ意味が分からない。低俗で下品でな上に、これっぽっちの意味もない。
その内、テレビの中の女の子は、どこからか持ってきたミルクを体に塗り始めた。それを仔犬はしっぽをプリプリ振りながら、嬉しそうにペロペロなめる。
女の子は体をよじってキャッキャと笑った。
『きゃっ、やだー、くすぐったいー。やめてよ、もー、悪い子ねぇ』
嫌なら体にミルクなんて塗らなきゃいいだろうが!
眉間に青筋を立てた水樹が、テレビを消そうとローテーブル上のリモコンに手を伸ばしかけた時、ピンポーンというチャイムが聞こえた。そして、ガチャガチャと玄関の鍵をはずす音が聞こえてくる。
バッと水樹は立ち上がった。
田所水樹が私立青桐学園高等部を卒業して、もう三ヶ月が経つ。
水樹が高等部卒業とともに学園からも卒園し、他所の大学に行くことをその時になって初めて知らされた学園の生徒たちは、そりゃもう大騒ぎしたものである。
「ど、どうしてなにも言ってくれなかったのよーっ! あたしとあんたの仲で、水臭いじゃないのよ、水樹―!」
号泣して鼻水を垂れ流し、涙と化粧で顔をグシャグシャにした百合子から抱きしめられ、思いっきり顔をしかめながら水樹は言った。
「離してよ、気持ち悪い。あなたはわたしいなくなることを喜んでくれるかと思ってたけど?」
「そんなワケないじゃない。だって、あたしたち親友でしょー?!」
いつ、誰と誰が、どこで親友になったって?
喉元まで上がってきたその言葉を、なんとか水樹は飲み込んだ。
親友なんかではあり得ないが、しかし、百合子は水樹がこの青桐学園で過ごした六年間、たくさんの思い出を(良くも悪くも)提供してくれた一人であることには違いない。
ま、ある意味、とても貴重な存在だったとも言える。
百合子以外にも、幼馴染の由香であるとか、他の取り巻き連中や水樹ファンクラブの会員たちに涙ながらに取り囲まれながら、水樹はちょっと困惑していた。
自分との別れを惜しんでくれる人間がこんなにいるなんて、思ってもみなかったのである。
慣れていない水樹は、みんなの温かい気持ちや態度にどう接していいか分からず、ひたすら途惑っていた。そして、ふと少し離れた所に目を向けると、やはり水樹と同じように、亨がたくさんの生徒たちから取り囲まれている姿が目に入った。亨の周りにいる生徒たちの数は、水樹を囲む生徒の数より数段多い。
みんなにもみくちゃにされながら、亨は最高級の笑顔を見せていた。
亨は人気者だ。
明るく楽しくて、頭も良ければ顔だっていい。
だからみんなに好かれていて、いつでも周囲にたくさんの友達がいる。老若男女問わず、誰もが亨に惹きつけられる。
これまで生きてきて、かなわないなぁと水樹が心底思い知らされた唯一の相手、それが亨だった。
そして、そんな亨と水樹とは、去年の文化祭で行われた演劇上演のキャスティングでもめた時に色々あって、まあ、つまり、その………早い話が「相思相愛のラブラブな関係」になってしまったのである。
亨がみんなから好意を寄せられている姿を見ると、いつも水樹は思うのだ。
どうして亨は自分なんかを好きになってくれたんだろう。
不思議に思わずにはいられない。まさに奇跡である。
確かに水樹は美しい。ちょっとやそっとじゃお目にかかれないくらいの、超一級品の美人である。
がしかし、それに反比例するかのごとくに性格は悪いのだ。
冷淡でワガママ、根性曲がりな上に皮肉屋でもある。金持ちのお嬢様として大切に育てられてきたので、世間知らずで態度もでかい。
自分の性格の悪さを、水樹はちゃんと知っていた。
だから、本当に思うのだ。
自分は幸せ者だ、と。
亨のような男に好きになってもらえて、自分は世界一幸運なのだ、と。
でも、素直じゃないし意地っぱりだしプライドも高いので、そんなこと亨には言わない。亨に骨抜きになっていて、もう彼なしでは生きていけないとまで思っていることなど、絶対に口が裂けても言えないのだ。
そんな可愛げのない自分に、こっそり溜息をつくのも、近頃では習慣化してしまっている。
春休みには、二人で新しい住まい探しを行った。
新学期から通うことになる大学へは、家から通おうと思えば通えない距離ではない。しかし、亨と水樹、それぞれ異なる思惑を元に、二人とも家を出る気満々だったのである。
「なんか、新居を探す新婚さんみたいだな」
ウキウキしたような亨の言葉に、実は胸をときめかせながらも水樹は冷たく言った。
「バカなこと言ってないで、真剣に探してよね。大学から近くて、できれば安く借りられるところよ!」
「そう都合のいい物件が見つかるもんかね?」
住宅情報雑誌を手に取り、それをぺらぺらめくりながら呑気にそう言った亨を、水樹はキッとにらみつけた。
「なにがなんでも見つけるの! わたし、絶対に春休み中に家を出るんだから!」
しかし、二人で必死に探してみても、そう簡単に条件に合った物件が見つかるワケがない。
このままでは家を出られない。タイムリミットはどんどん迫る。どうしたらいいんだと水樹が途方にくれていたところで、やはり解決策を持ってきたのは亨だった。
「親父の知り合いの不動産会社の社長がさ、格安で部屋を貸してやってもいいって。明日にでも見に行ってみようぜ。間取りとか気になるし」
亨の父親は元々農家の跡取り息子で、親から広大な農地を譲り受けた。その一部を売り払って得た金で次々と貸しビルや駐車場を建設し、それにより更に財を増やしたという、地元ではちょっとは名の知れた不動産オーナー兼不動産会社社長である。
そのため、不動産業界に多少の顔がきくのだそうだ。
「相手の社長さん、親父の飲み友達らしいんだ。あのガンコ親父も、たまには役に立つよな」
亨は笑顔でそう言ったが、しかし水樹は複雑な気持ちになった。
自分は本当に、なんの役にも立たないらしい。
水樹の父親だって、医者という職業柄、かなり顔の広い人物である。しかし、水樹には父親を頼ることができないのだ。いや正確には「頼りたくない」と言った方が正しいかもしれない。
水樹は自分の父親を、心の底から嫌っているのだから。
それはそうと、翌日二人は電車に乗り、紹介してもらったマンションを見に出かけたのである。
一目見て、二人はその部屋を気に入った。
外装はそう新しくないが、しかし、内装はきれいにリフォームされていて、間取りは2LDK。二人で住むには充分な広さである。近くにはスーパーもあるし、駅だってそう遠くない。なんとか歩いて行ける距離である。
まさに理想的だ。
が、しかし。
「どう? 気に入った?」
部屋を案内してくれた不動産会社社長の娘さんである、20代半ばの小奇麗なお姉さんにそう問われた時、水樹は返事ができなかった。そして、かすかに顔を青ざめさせた。
一瞬の内に、色々なことが頭をよぎったのである。
この部屋を借りてしまえば、自分たちの同棲は決定してしまう。
亨のことは好きだ。誰よりも好きだ。できればいつも一緒にいたいと思う。
でも………。
同棲するということは、相手に自分のすべてをさらけ出すというコトである。それは、いい面も悪い面も含めた全部。
「……………」
そこで水樹は恐怖した。
これ以上、亨に自分の嫌なところを見られたくない。知られたくない。知られて、嫌われるのが怖かった。
同じトイレで用を足すことを考えただけで、なんだか頭がクラクラしてきてしまう。それに同棲なんて、やっぱりどう考えても―――――破廉恥だ。
固まってしまった水樹を、亨とお姉さん二人が不思議そうにのぞき込んだ。
「どうした、水樹? 気に入らないか?」
「う…いえ、部屋は気に入ったけど……でも…」
「他にも紹介できる物件あるから、気に入らなければはっきり言ってくれていいのよ?」
「いえ、気に入らなかったワケじゃないんです。ただ、その………もう少し考えさせて下さい」
「もちろん、かまわないわ」
お姉さんは笑顔で言った。そして、持っていた鍵を亨に手渡す。
「部屋、ゆっくり見てちょうだい。後で会社に鍵を持ってきてくれる? わたしは他に仕事があるから、先に戻ってるわね」
軽く手を振ってお姉さんが部屋から出て行った後、亨は改めて水樹に問うた。
「やっぱ、気に入らないか? 他を紹介してもらう?」
しばらく眉をしかめてうつむいていた水樹が、思い切ったように顔を上げた。そして、真っ直ぐ亨の目を見上げる。
「この部屋は気に入ったわ。でも、問題はそこじゃないの。もうハッキリ言うわね。わたし、同棲するのが嫌なの。狭くてかまわないから、自分一人で部屋を借りたい」
「えぇ―――――っ! な、なんで?!」
すごい驚きっぷりを亨が見せる。
「だって、前はいいって言ったじゃねーか」
「あの時は…まあ、そう言ったけど、でも、気が変わったのよ」
「そんなぁ、ここまできて、いまさら!」
確かに以前、水樹は亨からせがまれて、同棲することを承諾したことがある。でも、その時はあまり深く考えていなかったのだ。
好きだから一緒にいたい。一緒に暮らせればきっと楽しい。
ただそれだけしか考えていなかったのだけど、こうして現実的に物事を考えてみると、同棲するなんてどう考えてもありえないことだった。
一緒に暮らせば、そりゃ確かに楽しいだろう。でも、その楽しさよりも、嫌な面を見られて嫌われることの方が水樹は怖かった。
それに、「アレ」の問題もある。
「水樹ったら、まだ亨くんにヤらせてあげてないのぉ? かわいそうじゃないのぉ」
「そうだよ、そうだよ。いくらなんでも室井が気の毒だよ」
去年の妊娠騒ぎ以来、ことあるごとに百合子と宗太郎からそんなことを言われ続けてきた水樹である。
そう、水樹はいまだに処女だった。清い体なのである。
そりゃ水樹だって、「アレ」というものに興味がないワケではない。亨が言うには、「アレ」とは手をつないだ時やキスした時に感じる満ち足りた気持ちを、さらに大きくしたような感覚を味わえるものであるらしい。
亨と一緒にそんな気持ちを感じることができるなら、それはぜひとも経験したいと水樹だってそう思う。
でも、それよりもなによりも。
「アレ」をするってことは、つまり、裸を見られるってことなのだ。無防備な姿を、相手にさらすということなのだ。
冗談じゃない、と水樹は思う。
そんな恥ずかしいこと、できるワケない。想像しただけで、顔から火がふきそうである。
「と、とにかく、同棲はできないわ」
そんなことを頭の中でグチャグチャ考えながら水樹が言うと、亨は眉間にシワを寄せて唇を突き出した。
「なんでだよ。そんなの納得できないよ。俺、水樹と一緒に暮らせることを楽しみに、受験地獄を必死に乗り切ったってところもあるんだぜ?」
「亨だって知ってるでしょう? わたしは潔癖症なの。いくら相手があなたでも、他人と一緒に生活することができるかどうか自信ないわ。後になってやっぱり無理でした、って言うよりは、最初から別々の部屋を借りた方がいいと思う」
「そんなの絶対大丈夫だって。俺、こう見えてもキレイ好きだぜ? 水樹に不快な思いをさせないって約束するから」
なんとか水樹の気持ちを変えようと亨も踏ん張るが、水樹にしてもここで折れるワケにはいかない。
だって、亨に嫌な面を見られて嫌われたくないのだ。それくらいなら死んだ方がマシだ。それに、「アレ」をすることになるチャンスが増えることを、なんとしてでも阻止したい。
「絶対に無理!」
「でも俺、すっごく楽しみにしてたんだ。だって、水樹のことが大好きだから、春になったらずっと一緒にいられるって………」
言いながら、亨がシュンと悲しそうな顔をした。
そんな顔を見せられると、水樹としても決心がグラつきそうになってしまう。
でも、ダメだ。ここで折れてはダメなのだ。
「なんと言われても絶対にダメ!」
しばらく水樹をうらめしそうに見ていた亨だったが、やがて溜息を一つつくと、優しげな笑顔を見せた。そして、そっと水樹の頬に手を添える。
「分かったよ。残念だけどあきらめる。水樹の嫌がること、無理にしたくないからな」
はうっ、と水樹の胸が痛んだ。
亨は優しい。強引で、時には厳しいことを言ったりすることもあるが、実は水樹のことを、まるで傷つきやすくて壊れやすい宝石のように、優しく包み込むように守ってくれる。
今みたいに、水樹の一方的なワガママを許してくれる。
亨のことが好きだ。誰よりも好きだ。
でも、その気持ちを素直に態度で表せない自分が、水樹はとても嫌いだった。心底、自己嫌悪に陥ってしまう。
そして、こんな可愛げのない自分が、いつか亨に愛想をつかされるんじゃないかと想像するたび、胃がギリギリと痛むのだ。
そんなこんなを色々と思い悩んだ末、結局は亨の希望通り、二人はこの2LDKのマンションで同棲生活を始めることになったのである。
惚れた弱み、とでも言うのだろうか。
あの亨の悲しみにくれた顔。そして、その後で見せた、水樹への思いやりに満ちた優しい笑顔。あれを見て、それ以上嫌だ嫌だと言い続けることが水樹にはできなくなってしまったのである。
それに、水樹にはもう一つ不安要素があった。
実は水樹、T大を受験してみたものの、やはり合格はできなかったのだ。もちろん、K大は無事に合格できたのであるが。
そして、亨はやっぱり無事にT大に合格したのである。
つまり、これから二人は別々の大学に通うことになる。
学校が別になる上に住む所まで離れてしまうことに、水樹は大きな不安を感じたのだ。
だって、亨はモテるから。
今だって、一緒にいない時はいつだって不安でたまらなくなる。
それくらい、水樹は亨に惚れまくっていた。
ただ、亨にはこう言った。
「本当は嫌なのよ。でも、生活費を少しでも浮かせるためには仕方ないわ。だって、お金にあまり余裕がないんですもの。亨にも、バイトでもなんでもして、しっかり稼いでもらいますからね!」
怒ったような不機嫌顔を見せると、亨はその形いい目を嬉しそうに細めた。
「どんな理由でもいいんだ。俺は水樹と暮らせれば、それだけで幸せなんだから」
素直に喜ぶ亨を見て、その言葉を聞いて、なんだか舞い上がるほど嬉しく思いながらも、水樹はまた自己嫌悪に陥って溜息をつくことになる。
本当に、なんて自分は可愛げがないのだろうか、と。はぁっ。
そんなワケで始まった同棲生活である。
一人一部屋が確保されているから、それなりにプライバシーは保てる。とは言っても、トイレも風呂も同じ場所を使うのだ。
そりゃもう、暮らし始めた最初の頃は、水樹は心落ちつく暇のなかったものである。
風呂に入っている時は、亨にのぞかれるんじゃないかと始終ビクビクし通しだった(もちろん、亨がそんなことするはずないのだが)。
トイレに入った時は、音が外に漏れることを恐れて、水を流しながら用を足す。大は、亨が家にいない時にすると決めていた。消臭スプレーは必需品である。
そして。
「なあ、水樹」
なんて、亨が後ろから水樹の肩にポンと触れた時など、「アレ」を迫られるのではないかと思い、ビクンと体を震わせたものである。
即座に亨から距離を取つつ、脅えていることに気づかれないように水樹が強気な態度で
「ダメよ、絶対にダメ!」
なんて喧嘩腰に返事をしてしまい、亨によく首を傾げられた。
「なんだ、機嫌が悪いのか?」
そこで水樹もハッと我に返り、
「なにか用?!」
なんてぶっきら棒に言い放つと、亨はさらに不思議そうな顔をして肩をすくめるのだ。
「いや、そこの雑誌取って欲しかっただけなんだけど……そんなに嫌だったか?」
自分の勝手な早とちりに気づいた水樹は、カーッと顔を赤くする。そして、さらにまた怒った顔をしてこう怒鳴るのだ。
「雑誌くらい自分で取りなさいよ! わたしはあなたの小間使いじゃないのよ!」
そんなことが、何度もあった。
しかし、そんな風に神経を使うこともあったが、でも、それ以外のことで言うと、やはり亨と一緒に暮らせるのは楽しくて幸せだったし、そういった神経を使うことも、新居に越してきて二ヵ月も経つ頃にはかなり少なくなった。
ま、慣れてきたということだろう。
「約束通り、バイト始めることにしたから」
突然、亨がそんなことを言い出したのも、ちょうどその頃である。
「アルバイト? どこで?!」
「居酒屋。大学で仲良くなったヤツに紹介してもらったんだ。週に三日で月水金。夕方五時から十二時まで。早速今日から行ってくる」
あまりに急な話で、水樹は手にしていたトーストを落としそうになったくらいだ。
朝の七時半、向かい合わせに座ったダイニングテーブルで、二人仲良く朝食をとっていた時のことである。
「き、今日からだなんて、そんな………そんなに急いでアルバイトしなくてもいいんじゃない? まだこっちにきて二ヵ月よ。もう少しゆっくりしてからでも………」
トーストにバターを塗っていた手を止めて、亨は楽しそうに水樹の顔をのぞき込んだ。
「一人でいるのが寂しいのか?」
カッと水樹は赤くなる。
「そ、そんなんじゃないわよ!」
亨は笑った。
「分かってるって。心配してくれてんだろ? でも大丈夫。俺はこう見えてもなんでも器用にこなせる方だし、人にだって好かれる。うまくやれるって」
「心配なんてしてないわよ! ………でも、亨はアルバイトなんてするのは初めてよね? 青桐ではアルバイト禁止だったもの」
再度トーストにバターを塗り始めながら、亨はへっへへーとウキウキしたような表情を見せた。
「そっ。だから俺、実を言うとすごく楽しみなんだよな。いい社会勉強にもなるし、新しい仲間も増えるし」
やたらと楽しそうな亨に対し、水樹はちょっと複雑な気分である。
本来なら、アルバイトして生活費を稼がなければならないのは、水樹の方なのである。
家から充分な仕送りがある亨に対し、水樹にはそれが一切ない。というか、家からの援助は受け付けないことにしている。だから、使えるお金と言えば祖父の残してくれた遺産だけなのだ。
そう少ない金額の遺産ではないが、しかし、先々のことを考えると、やはりアルバイトをして少しでも遺産の流出は押さえたいところである。
そんな事情のある自分が、いまだにこうしてのんびりしている。それに対し、その必要のない亨が働きに出ようとしているのだ。これってどう考えてもおかしい。っていうか、亨に甘えすぎている気がする。
水樹が考え込んでいると、それに気づいた亨が言った。
「掃除と食事当番は、バイトのある日でもちゃんとやるから心配しなくていいぞ」
そんなことを心配しているのではない。
「そんなの当然でしょ。………そ、その、がんばってね、無理のないように」
後半は亨から目を反らし、水樹が小さな声でそう言うと、それをちゃんと聞き取った亨が嬉しそうに笑った。
「おう、まかせとけ」
それから一ヶ月。
亨は特に大変そうな素振りを見せることなく、学業とアルバイトを元気に両立させていた。宣言通り、掃除と食事当番もサボることなくきちんとやる。
そして、土曜日の今日。仕事休みのバイト仲間が歓迎会をしてくれるということで、夕方から亨は出かけていったのである。
「遅くなるかもしれないから、先に寝てていいぞ」
「言われなくてもそうするわ」
とか言ったものの、先に寝る気に水樹はなれなかった。
講義の復習したり、アルバイト雑誌をめくったり、つまらないテレビを観たりしながら、亨の帰ってくるのを待っていたのだ。
自分が勝手に亨の帰りを待っている。
それは分かっているが、やはり帰りが遅いとイライラしてしまう。
「遅い、遅すぎるわ」
すでに時刻は夜中の一時三十分を過ぎている。
そして、暇つぶしにつけたくだらない内容のテレビに嫌気がさし、消してしまおうと水樹がリモコンに手を伸ばした時、ガチャガチャと玄関の鍵をはずす音が聞こえてきた。
「ただいま〜」
少し気だるそうな亨の声が聞こえる。
水樹は立ち上がると、急いで玄関に向かった。
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