あなたに会えたことの幸せ


          10


 文化祭劇「ロミオとジュリエット」の舞台衣装は、手芸部が作ることが恒例となっている。約一ヶ月間で数着分の舞台衣装を作る作業の苦労はは生半可なものでなく、この時期、手芸部員たちは睡眠時間も少なく、目を真っ赤に血走らせながら作業に没頭することになる。
 そして今日は、先にできあがった、主役二人の衣装の試着をすることになっていた。
 いつも劇の練習をしている小ホールにある試着室に、生徒会及び関係者数人が集まり、衣装の出来具合を確認する。
「サイズはどうだー?」
 カーテンの向こうから一樹の声がする。
「ピッタリだ」
 トーンダウンした声で無愛想に亨は答えた。
「なんだよ、着替え終わったなら、早く出てこいよ。みんな待ってんだからさー」
 からかい口調でそう言う一樹に、亨は怒鳴った。
「うるせーな、今から行くよ。いいか、絶対に笑うなよ!」
 ムッスリとした顔で亨が試着室から出てきた。すぐに手芸部の部長が、脇の下や胴回り、肩幅などの確認をする。
「ったく、冗談じゃねーよ。こんなカッコ」
「なんですって! 衣装になにか文句でも!?」
 手芸部の部長が、目をつり上げて亨に食ってかかる。
「い、いや、デキは最高だと思うよ。ホント、素晴らしい! ただ、こんなおとぎ話の王子さまみたいな格好をするのが嫌なだけで……」
 慌てて亨は言い繕う。
「でも、ステキですよ。とってもカッコイイ」
 ポーっとした赤い顔で俊之が言った。
「ありがとよ。お前は本当に優しくて思いやりのあるいい子だな。……アイツと違って」
 亨の指差した先には、一樹の笑い転げる姿がある。
「お前、俺に殺されたいのか?」
「めっそうもない」
 ヒーヒー笑いながら一樹は言った。
「よく似合ってるよ。うん、ホント、マジで。……ぷぷっ」
「てめー」
 逃げる一樹を、追いかけていた亨がやっと捕まえた時、もう一つのカーテンが開いた。
「着替え終わったわ」
 部屋の中に、一瞬にして花が咲き乱れたようだった。可憐なジュリエットの衣装を身にまとった水樹が現れたのである。
 その場にいた全員が、ほーっと感嘆の息をついた。手芸部の部長なんて、涙を流しながら、自分たちの苦労が報われたと喜んでいる。その隣で、一樹も涙を流して感激していた。
 まさに、物語の中から現れたジュリエットそのもの、といった水樹の姿に、みんながウットリと見とれていた。
 そして、亨も水樹に見とれたまま、硬直してしまっていたのである。
 みんなが「ステキ」とか「似合う」とか褒めちぎる中、水樹は少し戸惑ったように亨を見た。
「どう…かしら?」
「……え? ああ」
 われに返った亨は、すぐに水樹から目を逸らして言った。
「いいんじゃないか。サイズはぴったりみたいだ」
 それだけ言うと、亨はさっさと衣装を脱いで制服に着替え、試着室を出て行ったのである。
 ほとんどの人間が水樹に賞賛の声の嵐を浴びせる中、ただ二人、水樹と俊之だけは、亨の出て行ったドアの方を怪訝そうに見つめていたのである。
 そして亨は、一人になった所で壁にもたれ掛かると、胸を押さえてホーッと大きく息を吐いた。
「マジだな、これは」
 押さえた心臓が、ドックンドックン大きく波打っている。
 あー、これは、もう、本当に好きになってしまったらしい!
 亨はガーッと頭をかきむしった。
 ジュリエットの衣装をまとった水樹を見た瞬間、目がチカチカした。体温が上がり、息苦しくなった。体全体が水樹を好きだと訴えていた。
 だから逃げたのだ。
 慌てて逃げ出したのだ。
 水樹の姿が見えない所に、一目散に駆け出したのだ。
「俺って、こんなに情けない男だったかなぁ」
 これ以上、恋人のフリをしていくことに、亨は自身が持てなかった。契約上の付き合いということで安心しきっている水樹に、自分が突然、なにをしでかすか分かったモンじゃない。もちろん、襲い掛かるなんてことはないだろうが、抱きしめるくらいのことは、し兼ねない。
 事実、最近ではいつも、その欲望をこらえるのに必死になっているのだから。
 いつも劇の稽古のある日は、待ち合わせて水樹と一緒に帰ることにしている。でもその日、亨はクラクラする頭を押さえて、そのまま一人で家へと帰ったのである。


 水樹は機嫌が悪かった。亨にすっぽかされて先に帰られたのだ。当然である。
「劇のある日に一緒に帰るなんて、久しぶりね」
 図書委員の仕事で遅くまで学校にいた由香と偶然会い、いつまで待っても亨が待ち合わせ場所に来ないので、そのまま二人で帰ることにしたのである。
 由香に会う前、水樹は念のため生徒会室をのぞいてみた。
「会長なら今日は来てませんよ」
 感じの悪い態度で、下級生と思われるかわいい顔をした男の子から、そう言われた。
「すっぽかされたんですか? はは、かわいそうに」
 なんてニヤニヤしながら言われ、機嫌の悪かった水樹は、更に機嫌を悪くした。  なんだか分からないが、ムショーに腹が立ち、メチャクチャ機嫌が悪かった。
 いつもは鈍感な由香も、さすがに今日は水樹の不機嫌さには気づいたらしく、しばらくはおとなしく隣を歩いていたが、ふいに、くすっと笑った。
「なに?」
 それに気づいた水樹が、キッと由香をにらみつけた。
「ご、ごめんなさい。でも、なんか、久しぶりだなーって思って」
「なにが?」
「うん、水樹ちゃんのすごーく不機嫌そうな顔。前はよくそんな顔してたけど、最近では珍しいなって思って。ホラ、会長さんと付き合うようになってから、水樹ちゃん、ずっと機嫌が良かったから」
「そんなことないわよ。わたしは変わってなんかいないわ」
「でも、みんなだって言ってたじゃない。水樹ちゃんが優しくなったって。小さい頃から水樹ちゃんのこと知ってるけど、あたしだって、そう思うもん」
 水樹は立ち止まって由香を見た。
「……わたし、そんなに変わった?」
「うん」
 由香は大きくうなずく。
「穏やかになったし、ますますキレイになった。あんなステキな彼氏がいるんですもん。当然よね。みんな、水樹ちゃんのこと羨ましがってるよ」
「羨ましがってる?」
「そうよ。美人で頭が良くってお金持ちで、しかも、最高級の彼氏までいて。みんなが欲しいと思っているものを全部持っているんだもん。いいなぁ、水樹ちゃんは」
 無邪気な笑顔でそう言う由香の隣で、水樹は顔を堅くして黙り込んだ。
「いいなぁ、か」
 家に帰りついた水樹は、自分の部屋のベッドに座ってため息をついた。
 由香が言っていたことを思い出しながら、なんとなく落ち込んでしまう。
 みんなが自分のことを羨ましがっている。そんなこと、とっくの昔から知っていた。美人で頭が良くってお金持ち。
 でもそのほとんどは、水樹が産まれ付き持っていたものである。勉強に関しては、まあ、多少の努力の賜物であるが、それにしたって、産まれ付きのものと言えないこともない。頭の回転は速い方だから、そんなに一生懸命しなくても、いつもそれなりの成績を取れてしまう。
 言ってみれば、これだって産まれ付きだ。
 そして、最高級の彼氏。
 これはニセモノだ。亨は本当の彼氏ではない。水樹が頼み込んで、彼氏のフリをしてくれているだけだ。
 なんだか水樹は、自分がすごく価値のない人間のような気がして、それで落ち込んでいたのだ。以前にはなかったことだが、最近、時々こんな気持ちになることがある。
 亨の兄に会った日がそうだった。仲のよさそうな二人を見ていて、こんな気持ちになった。それと、亨の家に遊びに行った日にも、亨の家の温かい家庭に肌で触れて、こんな気持ちになった。心の中にぽっかり穴が開いているような気持ちになって、それで、自分の家のことなんかを亨にぺらぺらしゃべったりしてしまった。 「羨ましい?」
 水樹はくすっと笑った。
 それは、わたしのセリフだ。
 今まであまり考えないようにしてきたが、でも、本当はもっと前から気づいていた。水樹は亨のことが羨ましかったのだ。
 人間的に魅力があって人気者の亨。信頼できる兄に優しい母親。
 自分にないものを全て持っている。
 そして、そんな亨を……。
「わたし、好きになったんだわ」
 今日、水樹の機嫌が悪かったのは、亨にすっぽかされたからじゃない。ジュリエットの衣装を褒めてもらえなかったからだ。落ち込んでいるのは、その後亨に会えなくて、寂しかったからだ。
 気がつくと、涙が流れていた。すごく、切なかった。
 二日に一度の放課後デートを、自分がこれほど楽しみにするようになっていたことを、水樹は今初めて気がづいた。
「好きになってもらいたい」
 そう思うけど、どうすればいいのか分からない。
 もともと、水樹は亨に嫌われていた。嫌われて当然なことを色々したのだから、当たり前だ。警官に連行させるなんて、あんなことするんじゃなかった、と今更思っても仕方がない。
 考えれば考えるほど、どんどん胸が苦しくなる。
 だから、決めた。
 明日、亨に告白することに決めたのだ。
 本当なら、明日は劇の稽古のない日で、亨とは会わない日である。でも、そんなこと言ってられなかった。
 フラれるならフラれたでかまわない。とにかく、このモヤモヤした気持ちを、少しでも早くなんとかしたかった。
「そうしなきゃ、おかしくなってしまうわ」
 目から留めなく涙を流し、胸の苦しみにもがき苦しみながらも、人を好きになるのは辛いことなんだなぁ、と水樹は思った。


 翌日。
「どうしたんだよ、昨日は」
 口をとんがらせて一樹が言う。
「急にいなくなったからさー、ビックリするじゃないか」
「ごめんごめん。ちょっと調子が悪くてな」
「え、そうなの? 今日はもう大丈夫なのか?」
「それが……」
 亨は天井を見ながら大きくため息をついた。
「あんまりよくないんだなー、これが」
 昨日は色々考えて、あまり眠れなった。
 水樹との付き合いを解消したいが、でも、それでは契約違反になってしまう。それに、そんなことをしては、水樹は宗太郎と婚約することになるかもしれない。
 それは絶対に許せない。
 でも、よこしまな気持ちを抱えたまま、今まで通りに水樹と付き合っていける自信もない。
 いったいどうしたらいいんだ、と考えている内に朝になっていた。
 通常であれば、好きな人ができたら、すぐに告白するのが亨の流儀である。でも、今回はそうするわけにはいかない。
 ヘタに告白してフラれた場合、それでも恋人のフリを続けなければならない。それは、ちょっとキツイ。相手にしても、嫌な気分だろう。
「なんか困ったことでもあるのか?」
 難しい顔をしている亨に、一樹が興味津々の表情できいた。
「まあな」
 亨はあごを指でつまみながら言った。
「でも、八方ふさがりなんだ」
「亨がそんな困った顔するなんて珍しいな。いつも、なんでもソツなくこなす方だろう?」
「俺だって人間ですからね。窮地に立たされることだって、あるわけよ」
「ま、そりゃそうだ。ところで、知ってる? 山崎宗太郎と横山百合子のこと」
「あん?」
「付き合い始めたんだって、あの二人」
 亨は目をパチクリさせた。
「えーっ! マジかよ!?」
「な、驚きだろ?」
 確かに一週間ほど前から、百合子が宗太郎に猛烈なアプローチをしているという話を聞いていた。でも、宗太郎は相手にしないだろうと亨は思っていた。だって、宗太郎が好きなのは水樹のはずだ。親の権力を使って婚約までせまったほどである。
「それ、本当なのか?」
「あくまでも噂だ。高橋にでも聞いてみたら、本当かどうか分かるんじゃない? なに、あの二人のことが気になるの?」
「ちょっと訳ありでな。俺、ちょっと新聞部に行ってくる」
 そう言って、亨が生徒会室を出た時、そこでばったりと水樹に出会った。
「あ、昨日はごめん」
 とっさに亨は謝った。
「ちょっと、体の調子が悪くて」
「いいの、気にしないで。それより、話があるんだけど…。時間いいかしら?」
 水樹はそう言うと、なんとも言えない表情でそっとまつ毛をふせた。
 頬を少し染め、潤んだ瞳の、その、水樹の美しさと言ったら!
 今までにない、あまりにも色っぽい水樹のムードとその顔に、亨は慌てて顔を背けた。
 亨は知らないが、水樹は昨夜の決意を行動に移そうと、勇気をもって亨に好きだと告白しにきたのである。格別に美しいのは当たり前のことだった。
 しかし、亨にしてみれば、たまったもんじゃない。こんなムードの水樹の側にいつまでもいると、気が狂ってしまいそうである。
 だから、素っ気無く言った。
「今、ちょっと忙しいんだ。悪いけど、明日にしてもらえるか?」
「あ、亨………」
 そして、その場に水樹をポツンと残し、急いで新聞部へと駆け出したのである。

 次の日の放課後。
 亨と水樹は劇のセリフの掛け合い以外では口をきかず、ほとんど目も合わさずに、その日の練習を終えた。そして、そのまま恒例となっている放課後デートへと、なだれ込んだのだ。
 場所は放課後デートでよく使う、いつものファーストフード店である。
 そして、二人は気づいていなかったが、少し離れた席に俊之も座っていた。
 宗太郎と百合子の噂は、俊之の耳にも入っている。もしかしたら、今日にでも亨と水樹が別れるんじゃないかと、ワクワクしながら二人のデートを尾行していたのである。
「山崎と横山百合子のこと、知ってる?」
 なんとなくギクシャクした雰囲気を振り払うように、亨は明るく言った。
 新聞部で高橋に確認したところ、宗太郎と百合子が付き合い始めたことは、本当だった。ということは、亨と水樹が恋人のフリをする必要がなくなったということである。
 亨としては、少しでも早く恋人のフリを解消したかった。そして、気持ちも新たに、水樹に交際を申し込むつもりでいた。
「あの二人、付き合い始めたらしいぜ」
「クラスメートから聞いたわ。でも、まだ噂でしょ?」
 努めて冷静に水樹は言った。
 本当は心臓がドキンと跳ね上がった。
 今日、水樹が一番恐れていた話題がこれだった。だって、あの二人が付き合っているということは、自分たちの付き合いに必然性がなくなるということだ。恋人ごっこをする必要は、全くなくなる。それに、百合子との約束もある。宗太郎が百合子を好きになった場合、自分は亨と別れると百合子に約束したのだ。
 水樹は嫌だった。
 このまま亨と分かれて、そしてまた、ほとんど口もきかない元の関係になんて、絶対に戻りたくなかった。
 本当なら、昨日、告白する予定だったのだ。でも、あっさりと亨に避けられて、告白できないまま今に至ってしまった。
 だから今日、告白しようと思っていた。
 ダメでもいい。とにかく気持ちを伝えよう。
 百合子からは、まだ水樹になんの催促もない。というか、宗太郎と付き合うことになったという報告もないのだ。もしかしたら、とりあえず付き合うことにはなったけど、宗太郎の気持ちをまだ完全には、百合子に向けきれてないのかもしれない。
 とにかく、告白してみよう。
 それで、もし、もし亨がOKしてくれたら……。
 もう百合子のことなんて知ったこっちゃない。約束なんてクソくらえだ。そのことで、後でどんなに百合子に非難されたってかまわない。学校中にそのことを言いフラかされても、もう、そんなことはどうでもいい。
 そう思いつめるほど、水樹は亨が好きだった。好きになっていた。
 そんな水樹の気持ちをよそに、亨は嬉しそうに言った。
「いや、それが本当らしいんだ。俺、新聞部に確かめたもん。あの二人、ホントーに付き合ってるらしいぜ」
「……………」
「だとしたらさ、俺たち、もう恋人のフリなんてする必要ないんじゃねーか?」
「で、でも」
 水樹は必死に頭を回転させながら言った。
「宗太郎の女グセの悪さは評判だわ。また遊びで付き合っているだけなのかも。だとしたら、他の人と付き合っていることなんかお構いなしに、わたしとの婚約話をすすめようとするかもしれないじゃない。安心できないわ」
「大丈夫だって。それならそれで、そんな酷い人とは婚約なんてできませんって、こっちから堂々と断れるじゃないか」
「そ、それはそうかもしれないけど」
「だろ? 逆にそっちの方が手っ取り早いんじゃないか?」
「……………」
「いやー、良かった、良かった。これで全部丸く収まったな」
 晴れ晴れとした笑顔を、亨は見せた。
 そんな嬉しそうな亨の顔を見ていて、水樹の胸がキュッとしめつけられる。
 どう見ても、亨は嬉しそうだ。水樹との恋人ごっこを終えることができるのを、心から喜んでいるように見える。いや、確実に喜んでいる。
 告白なんて必要ないじゃない。
 水樹は思った。したところで、断られるに決まっている。亨にとって自分は、性格が悪くて嫌味で皮肉屋の嫌な女でしかないのだ。だから、別れることができることを、亨はあんなに喜んでいる。
 知らず知らず、また水樹の目に涙がこみ上げてきた。
 胸がすごく苦しくて、ミジメな気持ちになった。
「そんなに嫌だった…?」
 水樹は泣きながらつぶやいた。
「わたしと付き合うフリをするの、そんなに嫌だったの?」
「はぁ?」
 驚いたのは亨である。
 問題はすべて解決した。全部丸くおさまった。水樹も喜ぶだろうと思っていたのである。
 そして。
 これでやっと水樹に好きだと告白できるとはりきっていたのだ。
「いつ言おうかな。いくらなんでも今すぐっていうのはナンだから、また日を改めて。でも、もう手っ取り早く、今しちゃうか」
 なんてことを、ウキウキしながら考えていたのだ。
 それが、突然の涙である。
「なんだ、いったいどうしたっていうんだ!?」
 もう、頭はパニック状態だった。
 目を白黒させる亨の前で、水樹が立ち上がった。
「今までありがとう。わたしみたいな性格の悪い女の彼氏役なんて、本当に嫌だったでしょうね」
「い、いや、そんなこと」
「いいのよ、今更言いつくろってくれなくても」
「いや、本当にそんなことないんだ」
「だって、嬉しそうだったじゃない! 恋人のフリをしなくてよくなって、すごく嬉しそうだったじゃない!」
「アレには理由があって…」
 泣きながら叫ぶ水樹の前で、亨はシドロモドロに言った。
 気がつくと、店中の客たちが自分たちを見ている。
「落ち着けよ。とにかく、座れって」
 そう言って亨が引っ張った腕を、水樹は振り払った。
「もういいわ。今までありがとう。本当に楽しかった」
「え?」
「本当はもっと続けていたかったけど、でも、もう終りね」
「ち、ちょっと…」
「さよなら」
 そして、それだけ言うと、走って店から出て行ってしまったのである。
 一人残された亨は、この急な展開が理解できず、しばしボーッとしてしまった。そして、ハッとわれに返ると、急いで立ち上がった。
「楽しかったって、言ってたよな?」
 水樹の言った言葉が頭の中をこだまする。
 本当はもっと続けていたかったけど?
「どういうことだ?」
 なにか、ものすごいことを水樹が言ったような気がする。
 しかし、グダグダ考え込んでいる場合じゃない。今しなければいけないことはたった一つ。
 亨は猛ダッシュで水樹を追いかけた。


 夕方の人通りの多い駅へと続く道を、水樹は走った。
「待てよ!」
 後ろから亨の声が聞こえる。
「どうして追いかけてくるのよ」
 亨に追いつかれたくなくて、水樹は必死で走った。
 本当は、期待していたのだ。自分が好きだと告白した時、亨が嬉しそうな顔をしてくれることを。
 そんな自分に腹が立つ。
「待てったら」
 耳をふさいで水樹は走った。
 せっかくさよならを言ったのだ。もうこれ以上、優しくなんてされたくない。こんな泣き顔の、情けない顔を見られたくない。
 しかし、自分を追う亨の声は、どんどん近づいてくる。
 そして、ちょうど駅の前まで来た時、ついに水樹は亨に追いつかれた。その細い手首をつかまれて、ぐいっと引き寄せられる。
「や…やっと追いついた」
 ハアハア息をはずませながら亨が言う。
「放してよ!」
 捕まれた腕を振り払おうと水樹はもがいたが、亨はガッシリつかんで放さない。
「さっき言ってたことだけど、楽しかったって、もっと続けたかったって、どういうことだ?」
「いいのよ、もう忘れて!」
「いいや、そんなことはできない!」
 そして、亨は水樹をつかむ腕の力を強めた。呼吸を整えて水樹を見る。
「俺、あんだが好きだ」
 もがいていた水樹が、ピタッと動きを止めた。
「……え?」
 亨の目が、真正面から水樹の目を捕らえた。
「俺はあんたが好きだ」
「ウ、ウソよ」
 水樹はかすれた声で言った。
「そんなこと、信じられないわ」
「ウソじゃない、本当だ」
「だって、わたしの恋人のフリをやめることができることを、あんなに喜んでいたじゃない!」
「だから、あれには理由があるんだって」
 少し顔を赤らめて、恥ずかしそうに亨は言った。
「恋人のフリを続行中に告白してフラれたら、カッコ悪いしあんたもバツが悪いだろ? だから、ずっと告白するのをガマンしてたんだ。で、やっとこれで好きだって言えると思って、それで嬉しくて…」
「そんなのウソだわ」
「本当だって! おれは水樹のことが好きなんだ。放課後デートの時、あんたを抱きしめたい衝動を抑えるのに必死だった。ジュリエットの衣装をきたあんたがあんまりキレイだったから、まともに見ていられなくて逃げ出した。それくらい好きなんだ」
 亨の告白を聞きながら、水樹はなんだかボーっとしきてきた。その内容が、亨の言ったセリフがあまりにも自分に都合が良すぎて、なかなか信じられない。
 亨がわたしのことを好き? そんな夢みたいなことがあるわけない。
 だから、つぶやくように言った。
「ウソよ。だ、だって、そんなこと……信じられない」
「あーっ! ったく、疑り深い女だな」
 頭をかきむしりながらそう言うと、亨は大きく息を吸い込んだ。
 そして、辺りに響く大きな声で叫んだのである。
「俺は田所水樹が好きだーっ!」
 場所は人通りの多い駅前である。周囲の通行人の視線が、いっせいに水樹と亨に集まった。しかしそんなこと、亨は気にもとめずに叫び続ける。
「好きだ、俺は田所水樹が好きなんだー!!」
「ち、ちょっと」
「信じてくれ! 俺は水樹が好きだーっ」
 大声を上げ続ける亨の腕を、水樹は慌てて引っ張った。
「や、やめてよ、みんな見てるじゃない!」
「そんなの関係ない」
「は、恥ずかしくないの?」
「恥ずかしいに決まってんだろ!」
「だったら、やめてよ!」
「水樹に俺の気持ちを信じてもらうことの方が大切だ」
 そしてまた、亨は叫び続ける。
 水樹は胸の前で、グッと手を握った。
 嬉しくて、胸が切なくなった。
 目の前がなにも見えなくなるくらい、水樹の瞳から涙があふれた。
 亨のことが好きだった。
 恋愛なんて、男なんてバカにしていたはずなのに、そんな自分をアッサリと変えてくれた亨。
 なんで、こんなに好きなんだろう?
「もう、やめて………分かったから」
 つぶやくように言った水樹を、亨はぎゅっと抱きしめた。
「俺はあんたが好きだ。あんたは? あんたは俺のことをどう思う?」
「わ、わたしは…」
 水樹はまつ毛をふせた。想いが心に溢れていて、なかなか言葉が出てこない。  うつむいたままの水樹を抱く腕の力を亨は強めた。痛いほどのその強さが、なぜかとても心地いい。
「わたしは?」
 水樹の髪に顔をうずめた亨が、甘い声で先をうながす。
「早く続きを聞かせてくれ。俺のことが好きだって言ってくれ。な、俺のこと、好きだろう?」
 濡れた瞳で水樹は亨を見た。
「わたしも好き。亨のことが好き。ずっとずっと好きだったの」
 水樹は泣きながら答えた。
 自分を抱きしめる亨の腕が、温かで、安心できて、幸せで、それで、水樹は泣き続けた。
 このまま死んでしまいたいと思うほど、とても幸せだった。
「俺も水樹が好きだ」
 耳に届く亨の声が、水樹の頭を真っ白にする。
 周囲のことなんか、全く気にならなかった。
 お互いがお互いの体温の温もりと、微かに聞こえる息遣いだけを感じていた。
 本当に、幸せだった。 


 だから突然のことに、二人は成すすべもなく、あ然としてしまったのだ。
「コラッ、またやってんのか、このストーカー少年!」
 それは、あの時の若い警官だった。
「え? えーっ!?」
 場所は駅前。そう、あの交番の目の前である。
 水樹から引き剥がされ、警官に首根っこを捕まれた亨は、目を点にしたまま交番へと引きずられて行ったのである。
「今度は説教くらいじゃ、すまされんぞ!」
「いや、ち、違う。違うんだってばーっ!」
 亨の叫び声が、駅前の通りをむなしく響き渡った。




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