水樹が家を出ることを決めたのは、中学生の頃である。
「今日はなにして遊ぼうか?」
「えっとねー、なわとび!」
「よし、じゃあ、なわとびして遊ぼう」
思い出す記憶の中で、姉はいつも優しかった。
五歳の年の差である。典子にしてみれば、年下の水樹と遊ぶことなんて、とても退屈なことだったに違いない。それでも典子は、嫌な顔一つせずに、いつも水樹と遊んでくれた。
優しかった姉。
時々、部屋で泣いていることがあったけど、幼い水樹には、それが自分の母親のイジメによるものだなんて、思いもしなかった。
それに気づいたのは、姉が死に、それから数年経ち、世の中の仕組みや人の心の複雑さを理解できるようになってからである。
前妻の子である典子に、なにかと文句を言っては執拗にいじめていた自分の母親。
気持ちは分からないでもないが、でも許せなった。
それに、母親だけではない。
病院での仕事が忙しく、家庭を顧みない父親。最近では、休日も家に寄り付かず、愛人宅に入り浸っている。
そして、父親の病院を継ぐことしか頭にない兄。兄に遊んでもらった記憶など、水樹にはまったくと言っていいほど、ない。
再婚の時、母親の連れ子だったはず兄が、実は父の子だと知ったのも、中学生の頃だった。
「こんな家、大嫌い」
いつも水樹は思っていた。
だから、家を出ようと思った。できるだけ早く。
大学は、家から通えない遠くの学校を選ぶつもりだった。両親の世話にはできるだけなりたくないから、奨学金制度の整った学校がいい。だから、勉強だってコツコツちゃんとやってきた。貯金だってしてきた。バイトでもなんでもして、自分の生活は自分でなんとかしよう。大変かもしれないけど、なんとかなるはずだ。
大学生になって一人暮らしを始める。それは、水樹の長年の目標だった。
だから、劇の稽古なんかをしている暇なんて、どこにもないのだ。
次の日。
放課後の生徒会室。
亨は不機嫌にムスッとしていた。昨日のことを亨と俊之に話し、二人に大笑いされていたのである。
「ストーカーに間違われた、だぁ?」
「間違われたんじゃない、仕組まれたんだ!」
「それでおまわりさんにお説教ですか?」
二人してゲラゲラ笑う。
「笑い事じゃないぜ。ホント、大変だったんだから。あのおまわりのヤロー、俺の話を全然信じもしないで」
ああ、思い出しただけでも腸が煮えくり返る!
「いやー、本当にきれいな子だったなぁ」
鼻の下を伸ばしながら、若い警官は言った。
「お前の気持ちは分からんでもないが、でも、ストーカー行為はいかん! れっきとした犯罪だ。それに」
警官は、ニヤニヤしながら亨の顔を覗き込んだ。
「しつこい男は嫌われるだけだぞ」
キーッ!
余計はお世話だ。
それにしても。
まんまと一杯食わされた!
あの時の水樹の表情、潤んだ瞳、うっすらと赤く染めた頬。あれで勘違いしない方が無理ではないか。しかも、あの女は全部計画的にやったのだ。
この俺をだますために!
床を転がりまくって笑っている一樹を、つま先で小突いてから亨は言った。
「お前には悪いけど、でも言わせてもらう。あの女、かなりの根性ワルだぞ!」
「で、でもさ」
一樹は立ち上がると、ヒーヒー涙を拭きながら言った。
「お前だって、ずーずーしいよ。あの水樹さんが、お前なんか好きになってくれるわけないだろ? 勝手に妄想膨らませちゃってさ」
「仕方ねぇだろ? それが男ってモンだ」
胸を張り、真面目な顔で亨は開き直る。
「でも、良かったじゃないですか。学校には通報されなかったんでしょう?」
「されてたら、今頃俺は停学、悪くすれば退学処分だよ」
それを考えると、ますます水樹に対する怒りが募ってくる。
それに、腹立たしいことはそれだけではない。亨は今日発行された校内新聞を机の上に広げた。
「失意の生徒会長。女王様に無残失恋!!」
大きくこんな見出しが書かれてある。
以下、その記事からの抜粋。
「ここ数日、発情期の犬のごとく水樹女史を追い掛け回していた、わが高等部の生徒会長、こと室井亨氏であるが、今日になって突然、彼はその行動をやめてしまった。それは一体なぜなのか? 新聞部の誇る敏腕記者である、このわたくしが推察するところ、おそらく室井氏は、水樹女史にこっぴどくフラれたことと思われる。友人からの証言では、食事も喉を通らず、傷心しきっているとのこと……」
担当記者の名前は高橋。
「高橋のやつ、殺す! ぜってぇ殺す!!」
亨は新聞をビリビリに破りながら叫んだ!
「傷心? 食事も喉を通さない? あのヤロー、今回の事情、全部知ってるクセしやがって!」
亨はその場で地団駄を踏んだ。
一樹と俊之は、またもや笑い転げている。
「お前ら! いい加減にしないと、お前らもぶっ殺す!」
そう言って、亨は指の骨をポキポキ鳴らした。
「ま、まあ、落ち着けよ」
コホンと一樹は咳払いをした。
「そんなことより」
「そんなことぉ? 俺が全校生徒の笑い者にされたのが、そんなこと、だとぉ!」
「だから、落ち着けって。今はそれどころじゃないだろ?」
「そうですよ。ジュリエットの問題が残ってますもんね」
俊之がそう言って、人気投票女子部門の集計データを広げた。
「水樹さんのジュリエットは、もう可能性ゼロなんでしょう?」
「あああ、それを考えると、俺はショックで死にそうだ」
涙を流さんばかりの一樹を見て、亨は言った。
「死ね、今すぐ死んでしまえ」
「冷たいなあ、お前」
「警察に捕まった親友を笑い者にする、お前にだけは言われたくない!」
「ふんっ。自業自得だ」
「なんだとー」
つかみ合ってケンカをしている生徒会長と副生徒会長を無視して、俊之はデータの田所水樹の名前に、赤ペンでバツをつけた。
「次点は横山百合子さんですね。彼女が今年のジュリエットってことですか?」
それを聞いた一樹が、またもや悲観にくれた顔をする。
「ああ、俺は水樹さんの美しいジュリエットが見たかった」
「そんなこと言ったって、仕方ないだろ。ザマーミロ」
意地悪くそう言う亨に、一樹がすがりつく。
「なあ、水樹さんがジュリエットできないって理由、こっそり教えてくれよ。頼む」
「それだったら、僕だって知りたい」
一人は真剣、もう一人はワクワク顔で自分に詰め寄る二人に、亨は首を横に振って答えた。
「それはできない。あんな女との約束でも、約束は約束だ。悪いけど言えない」
「あーあ、こういう時だけ真面目なんだから」
一樹が口をとがらせて不満を言う。
「どうします? 今日中に横山百合子に連絡しときますか?」
俊之の問いに、亨は腕を組んで、少し考えてから言った。
「いや。明後日のメンバー初顔合わせの時でいいだろう。騒ぎはなるべく先に延ばしたい」
俺がみんなからボコボコにされるのも、な。
水樹が主役をやらないことが分かったら、大騒ぎになるに違いない。しかも、その理由さえ公表できないのだ。
そして亨は、生徒会長だという理由だけで、みんなから無能だなんだとそしられて、ひどい目に合わされるに決まっている。
あーあ。
それを考えると、大きなため息が出てしまう。
これというのも、みーんなあの女のせいだ。
今後一切、あの女、田所水樹とは関わりをもたないぞ、と亨は心の中で固く誓った。
絶対、絶対にだ。
もちろん、そうは問屋が卸さないのだが。
一方、水樹はというと。
今日は久しぶりに、機嫌のいい一日を過ごしていた。
ハエのようにうるさく付きまとっていた生徒会長は、今日はもう近寄ってこない。嫌な思いをさせられてきた仕返しは、昨日キッチリしてやった。
警官に引きずられて行く時の、あの生徒会長のマヌケ顔。
思い出しただけでも笑いがこみ上げてくる。
男なんてバカばっかりだ、と水樹は思う。
愛人宅に入り浸りの父親は言うまでもなく、あの生徒会長だって似たようなもんだ。
どう考えても、あの生徒会長は自分に反感を持っていた。それが、ちょっと優しくしただけで、あのザマである。
水樹は自分の性格が悪いことを知っている。そして、自分の容貌が人並みはずれて良いことも。一度も話をしたことのない人から届く、毎日のあのラブレターの山は一体なんなのか。
人を見た目だけでしか判断できない人種を相手にするほど、水樹は暇ではない。ラブレターはみな、その日の内にゴミ箱に直行することになる。
世の中に、まともな男なんていないのかしら?
昼休み、取り巻き連中から逃げ出して、中庭で一人、水樹はそんなことを思っていた。
だから、後ろから突然声をかけられた時、正直、ちょっと驚いた。もちろん、それを顔に出したりはしなかったが。
「ハーイ、ハニー」
振り向いた先に見えた顔が、これまた「まともでない男の代表」とも言える山崎宗太郎だったことが、水樹の肩をガックリ落とさせた。
「いつ見ても美しいね。ごらん、周りの男たち全てが、君に憧れのまなざしを送っているよ。身分不相応であることにも気づかずに」
相変わらず、すること言うこと腹の立つ男である。
「あら、学校で会うなんて、お久しぶりね」
すまし顔で水樹は言った。
昨日の今日でまた会ってしまうなんて、最悪だ。考え事をしていたせいで、宗太郎が近寄ってくるのに気づかなかった。
いつもはうまく逃げるのに。
「そうだね」
水樹がそんなことを思っていることに微塵も気づかず、宗太郎は無邪気に言う。
「どうしてだろうね。僕はいつも君の姿を探しながら歩いているっていうのに。君に会えないと、僕は寂しくて死にそうになってしまうよ」
わざとらしく大きなため息をつきながら、宗太郎は言った。
なかなか会えないのは、もちろん水樹が会わないように避けているからである。
水樹は宗太郎が大嫌いだった。
親同士の付き合いがなければ、口もきかないところである。親のことは好きではないが、今は養ってもらっている身である。そうムチャクチャなことはできない。
「それにしても、昨日はどうしたんだい? 急にいなくなって、慌ててしまったよ」
「それは失礼したわ。ちょっと用があったのもだから」
「用?」
宗太郎の眉が、不振そうにビクリと動く。
「まさか、恋人との逢引じゃないだろうね?」
「恋人なんていないわ」
「だよね、安心したよ。君につり合う男なんて、僕くらいだものね。もし君に恋人がいたりしたら、僕はショックで死んでしまうところだよ」
ホッした顔をした宗太郎は、大胆にも水樹の手を握ってきた。その手の、生温かくヌルッとした感触に水樹は鳥肌を立て、すかさず手を引いた。
「あ、あら。そんなこと言うけど、いつもかわいい女の子たちに囲まれて、楽しそうにしているじゃない」
宗太郎はいつも自分のシンパたちと一緒にいる。男と一緒にいるのを、水樹は見たことがない。
水樹には理解できないが、宗太郎もこれで結構モテる部類の人間なのだ。代々政治家の家柄でお金はある。顔も、まあ悪くない。キザなところも一部の女の子たちには受けがいいらしい。
「いやだなぁ、水樹ったら。意外と僕の行動をチェックしてるんだね」
そりゃそうだ。ちょっとでも姿を見かけようものなら、すぐに逃げ出せるように気をつけているのだから。
そうとは知らずに宗太郎は、ものすごーく嬉しそうな顔をしたかと思うと、ちょっと考えるように言った。
「もしかして」
今度は気色の悪い流し目で水樹を見る。
「ヤキモチを焼いているのかな?」
「はぁ?」
水樹の目が点になる。
「いや、いいんだ。嫉妬してくれるなんて、僕は嬉しいばっかりだよ。でも、安心して。昨日も言ったけど、僕は水樹一筋だから。君と比べたら他の女の子なんて、月とスッポン、豚に真珠さ」
………なっ。
なにを言っているんだ、この男はーっ!!
しかも、「豚に真珠」の使い方を間違ってるし。
なんだか一瞬めまいがして、水樹は指で額を押さえた。
吐く、これ以上一緒にいたら、絶対に吐く。
しかし、宗太郎はおかまいなしに、なんだかべらべらと話し続けている。
一刻も早くこの場を立ち去ろう、と思いながら青ざめる水樹の目の前に、宗太郎は校内新聞を差し出した。
「良かったね、水樹」
「なんのこと?」
わけが分からず、水樹は新聞を受け取る。
「ホラここに書いてあるよ。やっと、あの室井から開放されたんだってね」
水樹は新聞に目を走らせた。
いつの間にか、亨は水樹にフラれたことになっている。
世間の勝手な推測とは恐ろしい。ワイドショーのレポーターに追い回される芸能人の気持ちが、少し分かったような気がする。
それにしても。
あの生徒会長、これを読んでどんな顔をしていることやら。
ちょっと笑える。
お陰で、さっきまでの最悪な気分が少しは良くなった水樹だったが、そんな水樹に宗太郎がにじり寄ってきた。
「これで邪魔者はいなくなったことだし、実はねえ、水樹。……あ、いや、これはまだ内緒にしておいた方がいいかな? ふふふ」
「?」
勝手に一人で浮かれている宗太郎の様子に、水樹はかすかに顔をしかめた。
「うん、やっぱり言わないでおこう。水樹、お願いがあるんだけど」
「なに?」
「今日、学校が終わったら、どこにも寄らないでまっすぐ家に帰って欲しいんだ」
「どうして? なにかあるの?」
「それは帰ってからのお楽しみ」
そう言って、宗太郎はウインクをした。
おえっ、と水樹は心の中で叫ぶ。
「心配しなくても、とてもいいことだから。とにかく、絶対に寄り道なんかしないで帰ってくれよ。分かった?」
取り合えず、水樹はうなずいた。
「絶対だよ、約束だからね」
そう言うと、宗太郎は投げキッスをしてから走って行ってしまった。スキップでも始めそうなくらい浮かれきっている。
「嫌な予感がするわ……」
水樹は、宗太郎がよこした投げキッスを手で払いのけながら、小さくうなった。
しかし、まあ、取り合えず、学校が終わるとまっすぐに、家に帰ってみたのである。
自分の部屋に戻って着替えをすませた時、ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
「お嬢様、お帰りなさいませ」
サキである。
「居間で旦那様と奥様がお待ちですが」
「……そう、分かった。すぐに行くわ」
きた、と思いながらも水樹は首をかしげた。
まだ夕方である。多忙の父親がこの時間に家にいるなんて珍しい。というか、愛人宅に入り浸りの父親がこの家にいることだけでも驚きなのに、それが母親と二人して水樹のことを待っているなんて、ナニゴトだ?
そんなことを思う水樹に気を使ったのか、サキが小声でささやいた。
「昼間、山崎さまご夫妻がいらっしゃっていましたけど、それと関係あるのでは?」
「宗太郎のご両親がいらっしゃったの?」
「はい」
……なるほどね。
なんとなくピンときて、水樹は思いっきり顔をしかめた。
昼間の、あの宗太郎の浮かれきった様子、訪れた山崎夫妻、居間で二人そろって自分を待っている両親。
これはもう、今から聞かされる話がどんな内容なのか、分かりきっているじゃないか。
下へ降りる階段をゆっくり歩きながら、水樹は考えた。どうするか?
とにかく時間をかせがなきゃ。
水樹が居間に入ると、待ってましたとばかりに母親が水樹の側に駆け寄ってきた。気持ち悪いほどの笑顔である。
「お帰りなさい、水樹さん。待っていたのよ。さ、早く」
母親に促されるまま、水樹はソファーに腰を下ろした。向かいには父親が座っている。
大病院の跡取り息子として育った父は、それに似合う品の良い顔をしていて、年をとった今でも、なかなかハンサムである。五十の半ばになる父親が年齢よりずっと若く見えるのは、若い愛人がいるからだろうか、なんてことを考えてみる。
「おかえり」
父親は優しい笑顔で言った。
「ただいま戻りました。それで、お話ってなにかしら?」
だらだら無駄話するつもりはないので、単刀直入に水樹は言った。父親の笑顔が苦笑に変わる。
「久しぶりに会ったっていうのに、相変わらず素っ気ないな、水樹は」
「あら、今時の女の子なんて、みんなこんなものよ」
ツンと水樹は横を向いた。
自分勝手な父親が、今となっては一人娘となってしまった自分に、深い愛情を持っていることを水樹は知っていた。娘というだけで愛しい存在なのに、それが美人で聡明ときたら、自慢に思わないわけがない。
時間稼ぎ作戦には、この父親を利用するにこしたことはない。
「それより、お話ってなに?」
ことさら素っ気なく水樹は言った。冷たくあしらった方が、水樹をかわいいと思う父親の愛情を、さらに刺激するに違いない。
父親はチラッと横に座る母親を見た。
「あなたからお話しして下さいな。大切なお話ですもの」
「そうだな。実は今日の昼間、山崎さんがご夫婦でいらっしゃったんだ。お前も知っているだろう? 宗太郎君のご両親だ」
「まあ、山崎のおじ様とおば様が?」
大げさに驚いてみせる。
「どんなご用だったの?」
「それが……」
言いにくそうに言葉をつまらせた父親をじれったく思ったのか、母親が身を乗り出してきた。
「あなたと宗太郎さんの結婚について、ご相談にいらっしゃったのよ」
「結婚!?」
驚いたフリをしながらも、やっぱりね、と水樹は思った。
サキに昼間の山崎夫妻の来訪を聞いた時から、絶対にこの手の話に違いないと思っていたのだ。
「宗太郎さんご自身からの、たってのご希望なんだそうよ。いいお話でしょ? ねえ、あなた」
「ん……まあ、そうだな」
宗太郎を気に入っている母親は、この話に大賛成らしい。もし宗太郎を嫌っていたとしても、きっと賛成しただろう。相手は超一級の家柄の山崎家である。反対なんかするワケがない。
そして父親は、水樹が思っていた通り、反対とは言わないまでも、今回の話にあまり乗り気ではなさそうだ。かわいい娘の縁談を、そう簡単に納得できるわけがない。しかも、水樹はまだ高校生である。
「結婚というか、今の時点では、取り合えず婚約ということだが」
「どちらでも、同じようなもんじゃありませんか。ねえ、水樹さん、どうかしら? こんないいお話、めったにあるもんじゃないわよ?」
「わたしは…」
頭をフル回転させながら、水樹はチラッと父親を見た。
「わたしは嫌だわ。婚約なんて、わたしはまだ高校生なのよ」
水樹の答えに満足そうな父親の顔を見て、水樹は心の中でニヤリと笑った。やはり、父親は利用できる。
しかし、母親は明らかにムッとした顔をして言った。
「水樹さん、あまり我儘を言うもんじゃないわ。お父様と山崎さんの関係は、あなただって知っているでしょう?」
「ええ、だけど…」
「だけどじゃありません。あなたからもなにか言ってやってくださいな」
「ん? ま、まあ、そうだな…」
ここぞとばかりに、水樹ははかなげな顔をして父親を見た。
婚約なんて、冗談じゃない。そんなことになったら、大学生になったら家を出るという水樹の計画は、すべて水の泡である。しかも、相手は虫唾が走るほど嫌いな宗太郎なのだ。
父親は、小さく咳払いをしてから言った。
「まあ、慌てて結論を出すこともないだろう」
「そんな、あなたったら…」
「水樹にしたって、今話をきいたばかりだ。婚約しろ、はいそうですか、というわけにはいくまい」
「でも、あちらは早い返事をお待ちなのよ。ねえ、水樹さん、なにが不満なの? 宗太郎さんはとってもハンサムで優しくて、ステキな方じゃないの」
だって、嫌いなんだもの。婚約、ましては結婚なんて、考えただけでぞっとする。
しかし、そんなことを言ったって、納得してもらえるとは思えない。
「考える時間が欲しいわ」
そう、ゆっくり対策を練る時間が欲しいのだ。
「お願い、お父様……」
潤んだ瞳の水樹を見て、父親は大きくうなずいた。
「山崎さんには、少し返事を待ってもらおう。と言っても、そう長くお待たせするわけもいかない。そうだな、どんなに長くても一ヶ月。それくらいなら向こうも待ってくれるだろう」
「ありがとう、お父様」
水樹の思った通りの行動をしてくれた父親に、ご褒美の笑顔を見せてあげる。
母親は立ち上がると、プイと居間から出て行ってしまった。
取り合えず、危機は脱した。
水樹は心の中で、ホッと息を吐いた。
しかし、どうすればいいのだろうか。
自分の部屋に戻ってベッドに横になり、天井を見ながら水樹は考えた。
「宗太郎のヤツ!」
ホントーに、ろくでもないことしてくれて。
枕に宗太郎の顔を思い浮かべて、水樹はボスッ、ドスッと殴りつけた。
「なにが、とてもいいことだ、よ。最悪じゃないの!」
しかし、そんなことをしている場合ではない。婚約しなくてすむ方法を、なにか考えなければならないのだ。しかもそれは、みんなが納得できるものでなくてはならない。
あーでもない、こーでもないと、色々考える。
ふと水樹の頭に、室井亨の顔が浮かんだ。
そうだ、アイツを利用してやろう。
考え付いた方法はあまり満足のいくものではなかったが、しかし、今はそんなことを言っている場合ではない。
そうと決まったら、明日はまた、生徒会室に行かなければならない。
なんだか複雑なことになってきた、と水樹はため息をついた。
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