あなたに会えたことの幸せ


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「水樹ちゃん、ねえ、水樹ちゃんってばぁ!」
「……………」
 水樹はイライラしていた。
 後ろからずっと付いてくる男にイライラするし、自分と後ろの男とに、忙しそうに視線を走らせながら、オロオロしている由香にもイライラする。更に、イライラしている水樹にまったく気づかない由香の鈍感さにも、まったくイライラさせられるのだ。
「いいのよ、無視してれば!」
 だから、吐き捨てるようにそう言ったが、それでも由香はキョロキョロしっぱなしだ。
 水樹はキッと眉を吊り上げた。
 水樹と由香は幼馴染である。
 由香の父親が、水樹の父親の経営する田所医院の事務局長していることがきっかけで、二人は幼い頃からよく遊ぶ仲だった。家も近所である。
 美人で頭が良くてカリスマ性のある水樹は、昔からいつも数人の取り巻き連中に囲まれていた。が、高慢で自分勝手で冷たい性格の水樹には「友達」と心から思える人間はいなかった。それでも良かった。だって、なんでも自分でできるのだから。なまじ友達なんてものがいると面倒臭くてかなわない。友達なんて必要ない。
 そんなことを思っている水樹が、唯一、少しは心を許しているのが、この由香である。
 体は小さくおとなしい。なにをするにものんびりしていてドン臭い。そんな由香の面倒を、子供の頃からなにかと水樹がみていたのである。
 なんでもテキパキそつなくこなす水樹ちゃん。イジメっ子から守ってくれる水樹ちゃん。
 そんな水樹のことを、由香は尊敬と憧れの目で見つめていた。
 ドジをするたびに、いつも厳しく怒られる。それでも由香は水樹のことが大好きだった。
「だって、怒られるのはわたしが悪いんだもん。水樹ちゃんはいつだって正しい」
 そして水樹の方といえば、そんな風に仔犬のようにまとわりついてくる由香を、デキの悪い妹を持った姉という心境で、受け入れていたのである。
「放っておきなさい、由香。あっちを見るんじゃないの!」
 またいつものように、水樹に怒られて小さく体を縮めながらも、由香は後ろから自転車を押してついてくる男を、チラリと見た。
 もちろん、誰だか知っている。生徒会長の室井亨である。
「だから、見るなって言ってるでしょう」
「あん」
 水樹は由香の手を引っ張ると、歩く速度を速めた。
 まったくもう、なんなのよアイツは、と水樹は心の中で叫んだ。
 人気投票の結果発表の日から、すでに四日が過ぎている。
 ジュリエットを辞退すると生徒会に宣言したことは、まだ学校中に知られていないらしく、それは水樹をホッとさせた。
 知られたら、どんな騒ぎになるか分かったもんじゃない。いつかはバレるにしても、できるだけ先に延ばしたいと思う。
 そんなことよりも、今一番問題なのは。
 水樹は歩く速度をさらに速め、由香を引きずるようにして道を急いだ。問題なのは後ろからついてくるあの男、室井亨だった。
「頼む、考え直してくれ。うん、という返事をもらえるまで、俺は何度でも頭を下げにくる」
 生徒会にジュリエットの辞退を告げた翌日、朝一番に亨は水樹のところにやって来た。
 それ以来、朝は家の前で水樹が家から出てくるのを待ち、学校では休み時間のたびに教室に顔を出す。帰りは家に帰り着くまでつきまとう。
 そして、
「考え直してくれ!」
の一点張りだ。
 もう、一体どーゆう神経をしているのか分からない!
 更に学校では、生徒会長が田所水樹に熱烈アタック、ってな感じで、なにを勘違いしたのか、見当違いの噂でもちきりになってしまっている。
 水樹は由香に聞くまで、この、うざったい生徒会長が、人気投票の男子部門で一位になった男だと知らなかった。その手の世俗的な話には、あまり興味のない水樹である。
「すごく人気があるのよ。かっこいいし、おもしろいし、頼りになるし。女の子にもモテるけど、男の子にも(変な意味じゃなく)人気があって、いつも楽しそうにみんなでワイワイやってる」
 由香には今までのいきさつは、すべて話してある。ジュリエットを辞退することを告げた時の、由香の反応ときたら。
「えーっ、どーしてどうしてぇ? ジュリエットを辞退するなんて、信じられない! みんなだって楽しみにしてるのに」
 なんのヒネリもない由香の反応に、つまらなさそうに水樹は答えた。
「だって、やってられないわよ。バカバカしい」
「それで会長さんが説得しに付いて回ってるんだ。……なんだかかわいそう」
「かわいそうなのは、わたしの方よ。毎日毎日付きまとわれて!」
「う…ん。でも、二人のこと、すごい噂になってるよ」
 今までにだって、水樹を追い掛け回す男子生徒は数多くいた。そんなこと、青桐学園では珍しいことではない。
 でも、今回はちょっと違う。
 だって、相手があの「ハンサム」で「モテモテ」で「人気者」の生徒会長室井亨なのだから。
 しかも二人は、今年のロミオとジュリエット。学園中が大騒ぎしながら、二人の動向を見守っている。
 門の前で由香と別れると、水樹は亨の方を見もせずに、さっさと家の中に入った。
 やっと家に帰り着いた。少しホッとする。
 でもそれは、一瞬のことだった。玄関に見慣れない男物の靴がある。水樹は眉をしかめた。
「お帰りなさいませ」
 二十年来のお手伝い、サキが水樹を出迎えた。
「ただいま。お客様?」
「はい。山崎のお坊ちゃんがいらっしゃってます。お嬢様をお待ちですよ」
 やっぱりアイツか、と水樹は思った。
 水樹は自分の部屋で制服を着替え、外に出かける用意を整えてから、一応、居間に顔を出した。
 母親と山崎宗太郎とが、にこやかに談話しているのが見える。
 このまま気づかれない内に外に出よう、と思った水樹だったが、まだ外に亨がいるかもしれないなんて考えている内に、宗太郎に気づかれてしまった。
「お帰り、水樹。遅かったね」
 にこやかにそう言う宗太郎を、水樹はにらんだ。
「なにしに来たのよ」
 宗太郎はそれにひるまない。
「もちろん、水樹の顔を見に来たに決まってるじゃないか。最近、学校でもあまり顔を合わさないだろ? なんだか寂しくなってね」
 それはわたしがアンタを避けているからよ、と思いながら、水樹は宗太郎の手土産の花束を、無言で受け取った。手土産が花束というキザなところにも、ムカつく。
 そんな二人を笑顔で見つめていた母親が、席を立った。
「宗太郎さん、わたしはこれから用があるので、これで失礼するわね」
「どこかへ出かけるの?」
 水樹の問いに、母親は時計を見ながら答えた。
「島田の奥様とお約束があるの。アラ、大変。もうこんな時間だわ。急がなくっちゃ。水樹さん、ちゃんと宗太郎さんをおもてなしするのよ」
 ゆっくりしていってね、と宗太郎に微笑みながら、母親はさっさと家を出て行った。
 母親がいなくなって二人きりになると、宗太郎は水樹ににじり寄ってきた。
「水樹、相変わらずキレイだね。ジュリエット当選、おめでとう」
 水樹はさりげなく花束をテーブルに置くフリをして、宗太郎から離れた。
 本当は、側に寄るなと蹴飛ばしてやりたいくらいだが、両家の親同士が懇意にしているため、あからさまに宗太郎を邪険にできない。
 水樹は宗太郎が大嫌いだった。
 宗太郎の父親は県会議員をしている。議会でかなりの発言権を持っているらしく、水樹の父親は色々と便宜を図ってもらっている。その代わり、選挙の時には、陰ながら援助の手を差し伸べるという、持ちつ持たれつの関係ならしい。
 父親同士の縁が深い分、水樹と宗太郎の仲も、嫌でもそれなりに深いものになる。小さい頃からお互いの家をよく行き来しているし、近頃では、両家の親たちは、二人の結婚を意識しているふしもある。
 冗談じゃない。
 こんなヤツと結婚するくらいなら、死んだ方がマシだ。キザで女たらしで裏表がある。暇さえあれば鏡を見て髪を整える。ナルシストに違いない。
 あー、嫌だ。 
 そんな水樹の気持ちを知らない宗太郎は、長めの前髪をかき上げながら、ネットリとした視線を水樹に向けた。
 ううっ、鳥肌がたつ。
 なんとか吐き気を抑えて、水樹は言った。
「で、他になにか用はあるの?」
 なるべく宗太郎を見ないようにする。
「用がないなら帰ってくれない?」
「冷たいなぁ、水樹は。まあ、君のそんなところが、更に僕を夢中にさせるんだけど」
「わたし忙しいって言ってるでしょ。用があるのなら早く言って」
 自分をにらみつける水樹の視線の鋭さにちょっとたじろぎ、宗太郎は慌てて両手を振った。
「い、いや、用ならちゃんとあるんだ」
「なによ?」
「実は学校で、変な噂を聞いてね」
 宗太郎は心配するような目で水樹を見た。
「室井亨に追い回されてるって、本当かい?」
「本当ならどうだって言うの?」
「もし本当なら、水樹困ってるだろうと思って。なんなら僕がなんとかしてあげようか? あんなやつ、パパに頼めば学校から追い出すなんて簡単だよ!」
 宗太郎の父親は、青桐学園に多額の寄付金を納めているらしい。だから学校に対して多少のワガママがきくのだ。実際にそうなのかは分からないが、宗太郎はそう思い込んでいる。
 それにしても、「パパ」!
 十七、八歳の男が聞いて呆れる。
「お心遣いはありがたいけど、自分でなんとかできるから気にしないでちょうだい」 「そんなことはできないよ。だって、室井は悪いヤツなんだから」
「……どうして?」
「だって、室井は今年のロミオに選ばれたんだよ。普通なら、絶対に僕が選ばれているはずなんだ。だって、自分で言うのもなんだけど、僕は女の子に人気があるからね。あ、でも、もちろん水樹一筋だよ、僕は。まあ、それは置いていて、室井のヤツ、きっと生徒会長の座を利用して、票を操作したに違いないよ。それもこれも、ロミオになって水樹と舞台に立ちたかったからに違いないんだ」
 宗太郎は両手を握り締め、それを上につき上げた。
「ひどいよ。僕だって……僕だって水樹とラブシーンしたかったのに!」
 そして、宗太郎は水樹の方を振り向いた。
「ね、水樹だってそう思うでしょう? ……あれ、水樹?」
 宗太郎が自分に浸ってペラペラしゃべっている隙に、水樹はさっさと部屋を抜け出していた。これ以上相手をしていると、頭がおかしくなってしまう。
 足早に玄関に向かい、靴を履いている水樹を、サキが見送りに出てきた。
「お出かけですか?」
「ええ、ちょっと出てくるわ。帰りはそんなに遅くならないと思うけど」
「典子さまのお墓参りですね」
 水樹は顔を上げた。驚いた顔でサキを見る。
「サキさん、覚えていたの?」
 サキは少し悲しそうに笑ってうなずいた。
「お嬢様が毎年必ずお墓参りしていらっしゃることも、存じてますよ」
「そう…そうだったの」
 水樹には珍しく、優しい笑顔をサキに向けると、いってきますと言って玄関を出た。


 水樹の母親は後妻である。亡くなった前妻には娘が一人いた。それが典子である。
 四歳年上の典子が亡くなったのは、彼女がまだ小学校五年生、水樹が六歳の時だった。
 今日は、その姉の命日にあたる。

「ようっ、お出かけ?」
 門を出たところで声をかけられ、水樹はちょっと驚いた。
 亨である。
「まだいたの? あなたも暇ね」
「そろそろ帰ろうかと思ってたところだったんだ。でも、待っててラッキーだったな」  笑いながらそう言うと、亨はペコリと頭を下げた。
「なあ、頼むよ。ジュリエットの件、考え直してもらえないか?」
「お断りよ。何度も言っているでしょう? あなたもしつこい人ね」
「立場上、簡単にあきらめるわけにはいかないもんで」
「……勝手にすれば」
 水樹は歩き出した。
 亨が慌てて追いかけてくる。
 しばらく歩いたところで、水樹は振り返って亨をにらみつけた。
「なによ、どこまで付いて来る気?」
「どこまでって、うーん。どこに行くんだ?」
「あなたに関係ないでしょ」
「それはそうなんだけど」
 亨は頭をかいた。
「でも、俺はあんたに用があるんだ。だから、いい返事をもらえるまで、どこまでも付いて行くしかない」
「わたしは今日、とっても大切な用があるの。付いて来ないで!」
 水樹はイライラしながら言ったが、亨は平然とした顔で言った。
「だったらOKしてくれる?」
「お断りよ!!」
 水樹は思いっきり亨の足を踏んづけた。
 亨が絶叫しながら足を押さえて飛び上がる。
 いい気味だ。
 そのまま駅へ向かい、電車で数駅を通過したところで、今度はバスに乗り換えた。窓から見える風景が、少しずつ殺風景なものになっていく。
 数席後ろに座っている亨のことは、もう気にしないことに決めた。
 移り変わる景色を少しボンヤリと眺めながら、水樹は昔を思い出していた。

「おねえちゃん、どうしたの?」
水樹は少し不安になって声をかけた。
 時々、部屋に閉じこもって泣いている姉。それは知っているけれど、今日の姉の様子はちょっと違う。腹部を押さえて、とても苦しそうにしているのだ。
「大丈夫?」
「う、うん。大丈夫。ごめんね、心配かけて」
 水樹が覗き込むと、ベッドの上で丸くなっていた典子が、苦しそうに、それでも笑顔で答えてくれた。
「お腹痛いの?」
「少しだけ。遊んであげられなくてごめんね」
 水樹は首をかしげた。
 子供の目から見ても、すごく苦しそうに見える。
「おかあさんには言った?」
 典子はうなずいた。
「寝てれば治るって。あたしもそう思う。さっきまでより、楽になった気がするし」
「……………」
 額に脂汗を浮かべてそう言う典子の部屋を出て、水樹は母親の元に走った。
 電話中の母親の袖を引っ張って、水樹は言った。
「おかあさん」
「なあに、水樹ちゃん。今、電話中なの」
「でも、おねえちゃん苦しそうよ」
「大袈裟なのよ、あの子は。水樹ちゃんは気にしなくてもいいのよ。しばらく寝ていれば、すぐに良くなるに決まってるんだから」
 そう言うと、母親はまた電話の相手との会話に夢中になってしまった。
「そうなのかな」
 水樹は思った。
 ずいぶん苦しそうに見えたけど…。でも、おかあさんが言うんだから、きっとそうに違いない。明日になれば、きっとおねえちゃんは元気になるんだ。
 水樹は少し安心して、自分の部屋に戻った。
 次の日、典子はまだ苦しそうだった。そして、その日の夜中、典子は誰からも見取られることなく、一人静かにこの世を去ったのである。
 盲腸炎を放っておいたために、腸が破れて腹膜炎を起こした結果によるものだった。
 病院長を父親に持つ典子は、早期発見さえすれば簡単な手術によって治る病気のために、命を落としたのである。

 バスを降りたところで買った花束を、水樹はお墓に供えた。線香に火をつけ、両手を合わせる。
「お姉ちゃん、あれからもう十二年も経つわね」
 姉はいつも優しかった。半分だけ血のつながった妹と、いつも一緒に歌を歌ってくれたり、お絵かきをしてくれたりした。鉄棒や縄跳びの練習も付き合ってくれた。  水樹は姉が大好きだった。
 同じ父母を持つ兄よりも、よっぽど典子の方が水樹に優しかった。
 大好きだった。本当に大好きだった。
 葬式の時、水樹は大きな声で泣いた。
 あの時以来、水樹は滅多なことでは泣かなくなったし、笑うことも少なくなった。

 一方。
 亨は墓地の入り口付近でウロウロしがなら、かなりあせっていた。
「まさか、墓参りとは思わないもんなー」
 こんな所までついて来たりして、アホか俺は、と自己嫌悪に陥る。
 さっさと立ち去った方がいいと思ったが、でも、一言謝った方がいいような気もする。
 どうしようか迷っている内に、水樹が墓地から出てきた。亨を完全に無視して目の前を通り過ぎる。
 亨は水樹の背中に向かって、大声で叫んだ。
「ごめんっ!」
 そして、大きく頭を下げた。
 水樹はチラッと亨を見た。そして、そのまま行ってしまう。
 亨は急いで後を追いかけた。
「あのー、ホント、ごめん。俺こんな所にまで付いて来ちゃったりして。でも、知らなかったもんだから……」
 バス停でなかなか来ないバスを二人で待つ間、亨はもう一度頭を下げた。水樹は答えない。
 もう、遅い時間である。オレンジ色に輝く夕日が水樹の顔を赤く染めていた。
 やっぱり美人だなぁ、と亨は思う。
 いつも怒ったような顔をしているが、今日は特にそう思えた。
 なんだか気まずい、と、あまり神経の細かい方ではない亨が思っていた時、ポツリと水樹が口を開いた。
「姉の命日なの」
 水樹が口を開いてくれたことで、亨は少しホッとした。
「お姉さん亡くなったんだ」
「ずいぶん昔のことよ。もう、何年も前」
「そう、か。お父さんとお母さんは? 一緒に来ないのか? ああ、昼間に先に来たのか」
「さあ、命日だってことも覚えてなんじゃないかしら?」
「……………」
 なんだか複雑な事情がありそうな気がして、亨はそれ以上詮索するのをやめた。
 そのまま特に会話もないまま二人はバスに乗り、電車に乗り継いで元の駅までたどり着いた。もうすっかり陽は暮れてしまっている。
 家まで送っていった方がいいのかな、と亨は考えた。女の子の一人歩きは危険だし、いつもとはちょっと違う雰囲気の水樹を、このまま放ってはおけない気がしたのだ。
 そんなことを考えていると、水樹がくるりと振り返った。
「今日のこと、気にしなくていいから。聞かれた時、どこに行くのか言わなかったわたしも悪いんだし」
 そう言って、水樹は珍しく優しい顔で亨を見た。
 亨はホッとしたのと同時にドキッとして、テレ隠しに頭をかいた。
「いや、俺の方こそ、ホントにごめん」
 水樹のこんな思いやりのある顔を見たのは、追い掛け回し始めて四日、今が初めてだった。なんだかドギマギしてしまう。
「いいのよ。それより、ジュリエットのことなんだけど」
「え? もしかして、やってくれるのか?」
 思わず亨は水樹の両肩をつかんだ。水樹が驚いたように、頭一つ上にある亨の顔を見つめる。
「い、いえ、そうじゃなくて」
 水樹はパッと亨から離れた。
「やりたくないと言っているのには、ちゃんと理由があるの。それを聞いてもらおうと思って」
「なんだ」
 ガックリきて亨はその場に座り込んだ。
「で、その理由って?」
「わたし、大学は青桐に行かないつもりなの。だから勉強を真剣にしなければならないし、劇の練習なんてしている暇がないのよ」
「青桐の大学部に行かないのか?」
 亨は立ち上がった。
「それって、みんな知らないことだよな? 学校のあんたのファンたちが聞いたら…」
「そう、大騒ぎになるでしょう? だから今まで黙っていたの。もっと早く言っていたら、あなたにもこんな面倒かけずにすんだんだけど…申し訳ないことをしたわ」
 水樹はすまなさそうにそう言う。
 亨は首を振った。
「いや、俺こそ知らなくて。いや、しかし、まいったな」
 水樹がジュリエットを辞退した理由は分かったが、これはみんなに公表できない。公表なんてしようものなら、たちまち学校中大パニックになるに決まっている。だってみんな、水樹は青桐大学部に行くもんだと、当然のように思っている。
 チラッと水樹を見ると、亨の考えていることに気づいたのか、祈るように両手を組んだ。
「お願い、みんなには内緒にしておいて。どこから話が漏れるか分からないから、生徒会の人たちにも黙っていて欲しいの」
「うーん、そうだよなぁ」
 確かに、一樹がこれを知ったら大騒動になると思う。学校には、そんな一樹みたいな人間がゴロゴロしているのだ。これは絶対にバレないようにしなくてはならない。
 となると、やっぱり自分がみんなからリンチにあうしかないのか。うー。
「仕方ない、分かったよ。みんなには黙っておく。もう、明日からあんたのことを追い回さないよ。今聞いた理由は、正当な理由だもんな」
 自分も他の大学を受けるつもりである。勉強しなければならないという水樹の気持ちは、よーく分かるつもりだ。
「まあ、ありがとう。あなたって、本当は優しい人なのね。ごめんなさい、今まで変な態度を取ってしまって」
 水樹は少しうつむき加減にそう言うと、折りたたんだ一枚の紙を亨の胸ポケットに入れた。
「これ、後で家に帰ってから読んでくれる?」
「うん、でも、なにコレ?」
「恥ずかしいから、絶対に今見ないで」
 そう言う水樹の顔が、少し赤くなっているように亨には見えた。
「わたし、ちょっと交番に用があるの。待っててもらえるかしら?」
「わ、分かった」
 交番に用事ってなんだろう。走っていく水樹の背中を見ながらそう思ったものの、そんなことより胸ポケットにしまった紙の方が気になって、亨はガラにもなくどきどきしていた。
 なにが書いてあるのか、すごく気になる。今すぐ見たい!
 でも、後で読んでくれって言われたし。
「もしかして、好きです、とか書いてあったりして」
 さっきの水樹の自分に対する態度を思い出し、亨は浮かれてそんなことを思った。
 でも、相手はあの田所水樹だぞ? そんな夢みたいなことがあるか?
 でも俺だって、こう見えてもそうモテないタイプじゃないし、もしかして、もしかしたら……ありえないことじゃないかも!
 心の中で妄想を大きく膨らませながら、ふと交番に目を向けた。
 水樹が若い警官になにかをしきりに話している。そして、亨の方を指差した。
「?」
 なんだろう、と亨が思っていると、その若い警官が走りよってきて、亨の腕をがっちりつかんだ。
「捕まえた!」
「???」
「あんなかわいい子にストーカー行為を働くなんて、許せん!」
「……え?! ち、ちょっと、どういう…?」
「交番まで来いっ!」
 亨は慌てて水樹の方を見た。
 遠目に、意地悪そうに笑う水樹が見える。そして、水樹は自分の胸の部分を何度かたたいてみせた。
 ハッと気づいた亨は、胸ポケットからさっき渡された紙を出した。急いで読んでみる。
「バーカ! でも、ジュリエットを降りる理由は本当よ」
 綺麗な字でそう書いてあった。
 ア、ア、アイツーッッ!!!
 警官にひきずられながら、亨は心の中で叫んだ。
 やられた!


 その後、約一時間ほど警官からお説教を受けて、亨はやっと解放されたのである。




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