桜ヶ丘交響曲第三番「花園」


            7


「ちょっと人に合う約束してて。―――あっ、相手の人がきたみたい。悪いけど、これで電話きるな。じゃあ」
 内田は慌てて通話を切ると、携帯電話をポケットに滑り込ませた。
「内田くーん」
 そして立ち上がると、自分に向かって手を振っている相手に顔を向け、ぺこりと頭を下げた。

 ここは桜ヶ丘大学部内にあるカフェテリアである。
 なぜこんな所に内田が来ているかというと、それは坂本に電話で話していた通り、人に会ううためであった。その会う相手とは、内田の初恋の人、栗原里美である。
 彩にラブレターのことを話した夜、内田はまた高熱を出した。それは風邪ではなく、精神的なものだったに違いない。が、しかし、内田の両親はものすごく慌てた。なにせ、これまで病気といった病気をほとんどしない健康児だった息子が、かれこれ一週間近くも熱の上がり下がりを続けているのである。
 夜遅くに帰宅し、内田の病状を知った両親は、狼狽し、動揺しながら口々に言った。
「この時間だから救急だ。いや、いっそ救急車を呼ぼう!」
「そうよっ、こんなのっておかしすぎる。きっと大変な病気にかかっているに違いないわ!」
 大騒ぎして受話器を手にした両親を、内田は慌てて止めた。
「だっ、大丈夫だから。きっと、明日には熱も下がるから。だからちょっと落ち着いてよ」
「そんなこと言って、のんびり構えてて手遅れになったらどうするの?! 通夜の席で後悔したって、その時はもうアンタは死んでるのよ! どうにもならないのよ!」
 なんだかすっかり癌の末期患者的扱いである。
「と、取り合えず、明日まで様子を見てみようよ! それでやっぱり熱が高かったら、そしたら病院に行くから。ねっ?」
 そんな風になだめすかして、なんとか病院には行かない方向に内田は両親を説得したのだ。
 そして翌日、高かった内田の熱は、なんとか微熱程度には低くなった。
「俺は今日会社を休むぞ。いつ病状が悪化するか分からんからな!」
 自分が休むと言い張った母親に、おまえは役職も上がったばかりで色々と大切な時期だからと言って説得し、その日は父親がずっと側にいてくれることになった。
「ごめんね、お父さん。わざわざ会社休ませて」
 申し訳なさそうに内田が言うと、父親はにっこりと笑った。
「いや、いいさ。俺もちょっと疲れていたしな。ちょうどいい骨休めだ。ところで、腹は減ってないか? 待ってろ、すぐにお粥作ってきてやる」
「うん、ありがとう」
 そして、父親が内田の部屋を出て行ってから一時間半が経過したのだが、いまだに父親は戻って来ない。いくらなんでも粥ひとつに時間がかかり過ぎる。
 言われた通りおとなしく待っていたものの、さすがに内田が不安になりかけた時、やっと父親が手に小さな土鍋を持って部屋に入ってきた。その姿はかなり汗だくである。
「遅くなってすまん。いやー、普段家の中のことはおまえにまかせっきりだからな。土鍋探すだけで一時間もかかってしまった」
 言いながら父親は、勉強机の上に土鍋をおき、そこから粥をお茶碗一杯よそうと、ベッドサイドにある椅子に腰を下ろした。
「米と梅干だけじゃ栄養がつかんと思ってな。冷蔵庫にある精のつきそうなものを片っ端からぶちこんでみた」
 差し出された茶碗の中身を見た内田は、思わず絶句する。
 そこには、人参やらニラやら卵やらベーコンやら、他にもなんだかワケの分からない食材が、昔ご飯だったと思われる白いドロドロとした物体と混ぜ合わされた恐るべき代物があった。臭いからして、ニンニクも入っているに違いない。
「……………あ、ありがとう」
 顔が引きつりそうになるのをなんとかこらえ、内田はそれを口に入れる。思った通り、強烈にまずい。体調のせいではなく別の意味で、嫌な汗がこめかみを流れる。食も当然進まない。
「どうした、口に合わないか?」
 そんな内田の様子を見た父親が、不安そうな顔をした。
「料理なんて、日頃まったくしないからなぁ。でも体力は間違いなくつくと思うぞ。それと、愛情だけはたっぷり込めておいたからな」
 見ると、父親の指には絆創膏が何枚もまかれてあった。きっと、料理の途中で指を包丁で切ったのだろう。内田はなんだかジーンとしてしまった。父親の気持ちがとても嬉しかった。だから笑顔で言った。
「いや、おいしいよ。すごくおいしい」
 そして、あっと言う間に、そのお茶碗につがれたまずそうではあるが、しかし愛情のたっぷり込められた粥を平らげてしまったのである。そうは言っても、さすがにお代わりすることは遠慮したのではあるが。
「ごちそうさま」
「ん、これできっと元気になるぞ」
 病気の息子がちゃんと食事をしたことで安心したのか、父親は嬉しそうに内田の肩をポンッと叩いた。しかし、内田は複雑な顔をする。
「う…ん。でも多分、俺の発熱は体力がないとか、ウイルスにやられたとか、そういったものじゃないような気がするんだよね」
 その言葉の意味が分からず、父親は「ん?」と首を傾げた。
「どういうことだ?」
「……うん、それは、まあ、ちょっと……」
 きっと精神的なものからきている発熱だ、と内田は思う。坂本と彩との間での板ばさみ。それによる精神的苦痛。さらには、彩に本当のことを話し、それで彼女を傷つけてしまったことに対する罪悪感。
 そういったことを父親に話すことに、日頃は親に対してかなり素直な内田でさえも、ちょっとためらいを感じてしまう。もう子供ではない。親には内緒にしておきたいこともある。
 しかし、心配をかけ、会社まで休んでくれた父親には、ちゃんと話をする義務が自分にはある気がして、内田は思い切ってこれまで自分の身に起こったすべてのことを父親に話すことに決めたのである。
 ラブレターを預かったこと、そのラブレターを彩に渡そうとして勘違いされたこと、二人が付き合い始めたこと、二週間以上経ってやっと本当のことを告げたこと。初めはひたすら困惑していただけの自分が、やがて彩とのデートを楽しみにするようになったことや、でも自分にはすでに好きな人がいることまで、とにかく包み隠さず全部のことを父親に話したのである。
「……というワケなんだ。俺、この約三週間の間の色々なゴチャゴチャのせいで、きっと熱を出しちゃったんだと思う。でも、変なんだ。だって、俺には好きな人がいるんだから。だから、彼女のことを好きになったりするはずないんだ。なのに、どうしてこんなに気になるんだろう? ねえ、お父さん、どう思う?」
 不安に瞳を揺らしながらも、しかし、真剣な顔をした息子の姿がそこにあった。
 それを見て、父親は驚いた。なにに驚いたかって、それは息子に起こった複雑な事件のことではなく、その様々なことを自分に話してくれた息子そのものに驚いたのである。
 なんとなく、自分が息子と同じ年の頃のことを思い出す。親との関係が特に悪かったわけではない。しかし、思春期真っ盛りのその時期、自分の人間関係や、ましては恋愛関係の事柄について、親に話したりしたことは一度としてなかった。話そうと思ったことすらない。
 親である自分を信用し、信頼し、言うのも恥ずかしい恋の話などをしてくれ、相談してくれた息子。
 この年になって親になんでも話してくれるなんて、精神的に少し幼すぎるかな、とも思う。でも、そんな風に息子が自分に悩みを打ち明けてくれたことを、父親はものすごく嬉しく思った。自分が「親」という存在になって以来、息子が誕生した時についで、おそらく二番目に嬉しく感激した。
 そして、またこうも思った。  自分も高校生の頃、もっと親に悩みを相談したり、話を聞いてもらったりすればよかった、と。そうしたら、きっと親は喜び、親身になって話を聞いてくれたに違いない。口にこそ出さなかったが、親もそうして欲しいと望んでいたかもしれない。親子関係が、もっとより良いものになったかもしれない。
 しかし。
「孝行したい時に親はなし、か……」
 口の中で小さく呟くと、父親は自嘲気味に小さく悲しそうに笑った。そして、内田から聞いた話を自分の頭の中できちんと整理する。
 せっかく相談してくれたのだ。誠意を持って真剣に答えてやろうと、そう思ったのである。
 やがて、しばらく考えてから父親は言った。
「……そうだなぁ、一番の問題は、やっぱりおまえの気持ちがどうか、ということだと思うぞ」
「俺の気持ち?」
 困ったような顔を内田はする。父親は肩をすくめた。
「だっておまえ、初恋の彼女と彩ちゃんとかいう子と、どっちが好きなのか分からないんだろう? そこをハッキリさせなくちゃ。初恋の人が好きなら、彩ちゃんのことはもう放っておいた方がいい。彼女にとってもそれが親切だ。でも、もし彩ちゃんのことが好きなんだったら……」
「好きなんだったら?」
「これまでのことを坂本くんに全部正直に話して、ちゃんと話し合うべきだと俺は思う。なぜなら、嘘はやっぱりいけないことだからだ。今のおまえは坂本くんに嘘をついている。もしこれで彩ちゃんを好きなのだとしたら、フッてしまったことで彼女にも嘘をついてしまったことになる。一番いいのは、坂本くんに正直に話し、納得してもらって、彩ちゃんに今度は自分の方から交際を申し込むことだ」
「で、でも……」
 苦しそうな顔を内田はする。
「俺、できれば坂本にはこれまでのことを内緒にしておきたい。それに、もし本当に俺が彩ちゃんを好きなんだとしても、坂本の気持ちを踏みにじってまで彼女と交際したいとは思わないんだ。だって、そんなのって間違ってるよ。最初に彩ちゃんを好きになったのは、坂本の方だったんだから……」
 苦痛に顔をゆがめる息子を見て、父親は小さく笑った。そして、内田の頭をポンポンと叩く。
「そういう優しいところがおまえの長所であり、そして短所でもあるんだよなぁ。まあ、とにかく、俺の意見はそういったところだ。後はおまえが考えて判断するしかない。ま、がんばれ!」
 そう言うと、父親は土鍋とお茶碗を持って部屋から出て行った。ゆっくりと考える時間を、息子にあたえたのである。
 一人になった部屋の中で、内田は父親から言われたことを、静かに頭の中で反芻してみた。そして、なにかに納得したように大きくうなずいた。
 父親の言っていたことは正しい。今一番必要なことは、自分が誰を好きなのかをハッキリさせることに違いない。
 彩か、それとも里美なのか。
 でも、それは一生懸命考えたから分かるといったものではない。内田自身の考えとしては、自分はやはり初恋の人である里美を好きだと思っている。
 でも、もしかすると、そう思いたがっているだけなのかもしれない。その方が、色々な点で都合がいいから。
「嘘はいけないこと、か」
 もしかすると、自分は坂本や彩に嘘をついてしまっただけでなく、自分自身にも嘘をつこうとしているのかもしれない。
 父親に話を聞いてもらったおかげか、内田の熱は正午にはすっかり下がってしまった。体のどこにも不調はない。強いていうなら、心が重いだけである。
 だからかなり緊張し、心臓が口から飛び出るような思いをしながらも、内田は携帯メールを一通、とある人の元に送ったのだ。
『ご無沙汰してます、栗原さん。以前に教えてもらっていたアドレス、今日初めて使わせてもらいました。その後いかがお過ごしですか? 大学生活は楽しいですか? もし時間があれば、今日の放課後久しぶりに会ってお話しできればな、と思っています。もちろん、無理なら気にせずに断って下さい。それでは、返事を待ってます。  内田』
 送ったメールの内容はこうである。
 その後、内田は胸をドッキンドッキンさせながら、里美からの返信メールが届くのを待った。もしかしたら待っても来ないかもしれない。返事なんてくれないかもしれない、なんて思っていた矢先、新着メールを知らせる呼び出し音が内田の携帯から鳴り響いた。内田がメールを送ってから五分後のことである。
『うわー、内田くんお久しぶり! 元気にしてますか? わたしはとっても元気です。今日の放課後は時間あいてます。どこで会う? わたしが高等部に行こうか? 都合のいい場所と時間を教えて下さい。それではお返事待ってます。  栗原』
 届いたメールに感激し、内田は何度も何度もそのメールを読み直した。が、そんなことしている場合ではないことを思い出し、急いで里美に返事を書いて送信した。
 そんなメールのやり取りを何度か繰り返し、二人は今日の夕方四時、桜ヶ丘大学部内にあるカフェテリアで待ち合わせることになったのである。
 里美に会えばなにかが分かる。自分がどちらを本当に好きなのか、それが分かるような気がしたから、だから内田は里美に連絡を取り、会う約束を取り付けたのである。
 そして今、大学部内のカフェテリアのほぼ中央付近、体を堅くして座る内田の向かいには、昔と少しも変わらない優しい笑顔の里美がいる。
「急に時間もらったりしてすみませんでした」
 緊張の面持ちでペコリと内田が頭を下げると、里美は笑顔のまま首を振った。
「ううん、とんでもない。だって、あたしも内田くんに会いたかったもの! 高等部を卒業したのなんてつい二ヵ月前のことなのに、なんだかずいぶん時間が経ってるような気がするな。内田くん、元気だった?」
「は、はいっ、俺はなんとか元気です!」
 ここ数日、熱を出して寝込んでいたことなど、今の内田の頭からはすっ飛んでしまっている。それくらい、内田は舞い上がっていた。
「く、栗原さんはどうですか? だ、大学には慣れましたか?」
「うん、最近やっと慣れてきたところ」
 その時店員がやって来て、里美の前にアイスディーを置いた。里美の視線が店員とアイスティーへと反れた隙、内田はこっそりと里美の顔を盗み見る。
 やはりかわいい、と内田は思った。。今にも落ちてしまいそうなほどに目は大きく、化粧っけもないのに唇はほんのり桜色である。少し伸びただろうか、肩にかかるくせっ毛の茶色い髪は相変わらずフワフワしていて、彼女の愛らしさを増す役割を上手に果たしていた。
 そして、そんな容姿なんかより内田がなにより好きだった、里美をとりまく温かく優しいオーラというか雰囲気も、やはり変わることなく健在だった。
(栗原さんだ)
 里美と久しぶりに会えたことを、この時になってやっと内田は実感した。思わず頬が赤く染まる。
 そんな内田に気づくこともなく、アイスティーを一口飲んだ里美は、ほんわか笑顔で話しかけた。
「花壇のお手入れ、今も続けているんでしょう?」
「え? あ、はい」
「綺麗だろうなぁ。内田くんのおかげで、高等部は一年中ずっと花が咲いてるものね。大学部も桜は高等部に負けないくらいに綺麗だけど、でも、やっぱり花壇は全然かなわないわ。それもみんな、内田くんがいつも一生懸命にがんばってくれているおかげね。みんな、すっごく感謝してると思うわよ」
「そんな…俺は自分が好きでやっているだけだから」
 テレ恥ずかしくなって、内田は赤い顔のままうつむいてしまう。
「それに、学校のみんなは俺がそんなことやってるって知らないだろうし」
「そういう謙虚なところが内田くんのすごいところよねー。もしそれがあたしだったら、吹聴してまわらないにしても、少なくとも内緒にはしてないと思うもの。あたし内田くんのそういうところ、心から尊敬してるんだー」
「そ、そんな、尊敬だなんて」
「ホントよ! だって、あたしにはそんな強さはないもの。内田くんは……なんていうのかなぁ。うーんとねー……ああ、そうだ。植物みたい!」
 里美の言わんとすることの意味が計れず、内田は首を傾げる。
「植物みたい…ですか?」
「そう。植物って雨が降らないと枯れちゃったり、栄養をちゃんとあげないと元気に育たなかったりするじゃない? 花壇に植えられている花とかは特にそう。弱いイメージがすごくある。でも、雑草とか樹齢何百年とかいう木を見ていると、植物って本当に強いんだなぁってしみじみ思うの。でも、その強さって目に見えるワケじゃないでしょう? でも、間違いなくそこにある。弱いように見えて、でも本当は人間なんかよりもずっと強い。そんな植物の弱く見えて実は強いところが、あたしには内田くんのイメージとピッタリ合うんだー」
「……………」
 それを聞いていた内田は、嬉しさのあまりしばらくなにも言えなかった。
 祖母が大好きだった植物。そして自分も大好きな植物。そんな植物に自分のイメージを例えられたことが、内田にはこれ以上なく嬉しかった。自分に対する最高の褒め言葉に思えた。
「………あ、ありがとうございます、栗原さん。そんな風に言ってもらえて、俺、すごく嬉しいです」
 胸をジーンとさせながら内田が言うと、里美は相変わらずのホワワンとした笑顔を見せた。
「あたしは思ったことをそのまま口にしただけ。ところで内田くん、今日はあたしになにか特別な用でもあったの?」
「いいえ。ただ久しぶりに栗原さんに会って、ちょっとおしゃべりがしたかっただけです」
 内田がそう言うと、里美はポカーンとした顔をした。そして次の瞬間、とても嬉しそうに顔を輝かせた。
「なんか、そういう風に言ってもらえるのって、すっごく嬉しい。あたし、高等部の頃部活に入ってたワケでもないから、後輩って呼べるような人が全然いなくて。だから、うん、本当に嬉しいの」
「俺も同じです。卒業した先輩たちの中で、連絡を取って会ったりしたのは、栗原さんが初めてです。俺、あまり人付き合いとか上手い方じゃないし、同じ学年ならいざ知らず、先輩とか後輩とかには全く知り合いがいなくて」
「うふふ、昔から思ってたけど、あたしたちってそういうところ、すごく似たタイプだよね?」
 内田はにこっと笑うことで、それに同意した。
 その後はもう、二人で花壇の世話をしていた頃の思い出や、高等部の名物教師のこと。他にも当時学校内で有名だった人の話など等、無駄だけど楽しい話で内田と里美は盛り上がったのである。
 そして。
 聞こうか聞くまいか散々迷った挙句、ついに内田はこの質問を里美に投げかけてみた。
「木本さんとは……その…今でも上手くいってるんですか?」
 里美はポッと赤くなった。
「うん。とは言っても、相変わらずあたしは真ちゃんに迷惑かけてばっかりなんだけど。でも、まあ、なんとか……」
「そうですか」
 里美の答えを聞いた途端、内田は自分でも意識せずに満面の笑顔になった。
「よかった。安心しました」
 それは心からの笑顔で、内田は里美の幸せが本当に嬉しかったし、それに、里美の彼氏のことを考えた時に昔はよく感じていた胸の痛みも、この時まったく感じることがなかった。
 だから内田には分かった。里美に対する自分の恋が、もう過去のものになっていることに。すっかり思い出と化していることに、内田はちゃんと気づいた。
 確かに里美といると心が和らぐ。でもそれは、里美が自分と似たタイプの性格の持ち主で、だから話しをしていても気持ちが楽で、そして、恋をしていないにしても彼女が憧れの大好きな先輩にあることは変わりがなくて、だから会えたことをとても嬉しく思うし、会えない時はよく思い出したりもした。
 でも、それは恋じゃない。
 そのことを内田は、この時はっきりと自覚したのである。
 内田は立ち上がった。
「栗原さん、今日は時間をとってくれて本当にありがとうございました。すごく楽しかったです。俺、これで帰ります」
「えー、もう帰っちゃうのぉ?!」
 突然立ち上がった内田に、里美は目を白黒させて驚く。
「もう少ししたら、真ちゃんも来る予定になってるの。よかったら、それまで一緒にいない? 三人でおしゃべりしようよ」
 それに対して、内田は笑顔で首を横に振った。
「ありがとうございます。でも俺、木本さんとそんなに親しいってワケじゃないし。それに、お二人のデートの邪魔はしたくないので。だから、やっぱりこれで失礼します」
「そんなこと気にしなくていいのに……また連絡してくれる? あたしも時間を見つけて、今度は高等部に遊びに行くから」
「はい、楽しみにしてます」
 そう言って、清算伝票に伸ばした内田の手を里美が止めた。
「ここはあたしが。これくらいしか先輩らしいことできないんだもの。ねっ?」
 少し考えた末、内田は手を引いた。
「それじゃ、ご馳走になります。栗原さん、大学がんばって下さいね」
「うん、内田くんもがんばって!」
 内田はペコリと頭を下げると、笑顔の里美に見送られてながら、その場を立ち去って行った。
 駅へと向かう道すがら、内田は一人、自分の気持ちについて考えていた。
 里美への気持ちが思い出に変わっていることは、それはもう十分に分かった。それなら彩に対する気持ちは?
 頭の奥底に、彩の明るく屈託のない笑顔が浮かんでくる。と同時に、彼女にとても会いたいと内田は思った。とても強く、そう思った。
「俺、やっぱり彩ちゃんが好きなんだ…」
 小さくそう呟くと、胸がドキドキし始めた。
 最後に見た彩の顔は、笑っていながらもとても辛そうで、そして悲しそうだった。それを思い出すと、内田の胸は張り裂けんばかりに強く痛む。
 その夜、内田は自室に閉じこもり、一生懸命に自分がこれからどうしたらいいのかを考えた。
 嘘はいけないという父親の意見。自分を強いと言ってくれた里美の言葉。彩を想う自分の気持ち。
 そういったことのすべてを、人生でこれまでにないというくらいに真剣に考えた。
 そして、決めた。
 坂本にすべてを話すことに、内田は決めたのだ。
 その後の展開は、それに対して坂本がどういう返事をくれるかによって異なってくる。でも、とにかくすべてを話そう。そして、できれば自分と彩との交際を認めてくれるよう、心からお願いしてみよう。
 そんな決意を胸に、内田はいつもより早めにベッドに横になった。
 明日は必ず登校する。そして、坂本にすべてを話す。
 自分の気持ちがはっきりと分かり、そのことで少し気持ちが落ち着いたせいか、内田はすぐに眠りに落ちることができた。久しぶりに夢に現れた懐かしい祖母が、「がんばってね」と優しく内田の肩を叩いてくれた。


 さて、話は数時間前にさかのぼる。
 内田が里美と久しぶりに会い、楽しく会話を弾ませていた頃。
 坂本は高等部にある印刷室、フル回転する輪転機の前で小林にブツクサ文句を言われていたのである。
「ったくよー、これから楽しいデートの予定だったのにー」
 不機嫌顔の小林を、坂本はキッとにらみつけた。
「デートはいつでもできるだろう?! そんなことより内田だ、内田。おまえ、友達のことが心配じゃないのかよ!」
 小林はふんっと鼻をならす。
「心配に決まってんだろう?! だからデートをドタキャンしてまでして、今こんなところで新聞作りなんてしてるんだろうが。あーあ、志乃さんにホント、悪いことしちゃったなー」
 夕方の四時も過ぎ、部活のない生徒たちがとっくに下校しているこの時間、どうして坂本と小林がなにやら作業をしているのかと言うと、実は以下のような経緯があったからである。
『ちょっと人に合う約束してて。―――あっ、相手の人がきたみたい。悪いけど、これで電話きるな。じゃあ』
 内田から一方的に電話を切られた坂本は、耳にした内田の言葉の内容に、かなり驚き慌ててしまった。
 どうして内田が大学部に? 人と会う? それって誰?!
 思いつくのは唯一人、それは内田の初恋の人である栗原里美だった。
 でも、どうして内田が里美に会おうとしているのか、坂本にはさっぱり分からない。
「内田のやつ、今でもやっぱり栗原さんのことが好きなのか? でも、俺の見るところじゃ、あいつの気持ちは彩ちゃんにあるように思えるんだけど。でもなぁ、あの内田がわざわざ自分から大学部に出向くまでして会いにいったワケだから……」
 しばらく首をひねった後、坂本は携帯で小林に連絡を入れた。
「おい、小林。今すぐ学校に来い! 例の作戦を明日決行するぞ!! 新聞、今日中に千枚刷り上げるからな」
 電話の向こうから、小林の不満そうな声が聞こえる。
『ええ〜、なんで急に?! 俺、今からデートなんだけど』
「うるさい、とにかく来い! 原稿はもうできあがってるって言ってたよな? 後は刷るだけだ。俺も今から学校に向かう。おまえもすぐに来い!!」
『そんなこと言ったって、志乃さんに悪……』
 小林の言葉を最後まで聞かずに、坂本はそこで電話を切った。こうしておけば、小林は絶対にやってくる。長い付き合いだらよく分かっている。
 それからすぐに自転車にまたがって家を飛び出した坂本は、五分後にはもう学校へと到着していた。小林が来たのは、それから約十分後のことである。
 そして、二人はすぐに作業に取り掛かったのだった。輪転機の耳につくガッチャンガッチャンという音を聞きながら、刷り上りホヤホヤの新聞たちをキレイに揃えて束ねていく。
 そんな作業の中で、坂本は小林からブツクサ言われていたのである。
「あーあ、志乃さんとデートしたかったなぁ。ドタキャンなんて初めてしたよ。っていうか、デートの予定を俺からしたのなんて今回が初めてだ! ああ、すみません、志乃さん! この埋め合わせはいつか必ずしますから!」
 天井に向かって懺悔する小林を、目をつり上げた坂本が怒鳴りつける。
「心配しなくても大丈夫だよ! あの志乃さんのことだ、友達思いの小林くんって素敵、なんつって、逆に喜んでくれるに違いないんだから! 彼女はそういう素晴らしい人だろうが!」
 それを聞いた小林が、へへへー、と嬉しそうに笑う。
「実はさっきデートキャンセルの電話した時、それとそっくり同じようなことを志乃さんに言われたんだよねー。友達のために一生懸命になれる人って尊敬する、がんばってね、上手くいくように応援してるから、なんてな。ホントにもう、志乃さんは人間ができてるよな。さすがは俺の愛する彼女!!」
 ノロケる小林を前に、坂本はチッと舌打ちをした。
「あーあ、いいよなー、おまえは彼女がいて。それに比べて俺ときたら、自分には彼女もいないのに、なに人の恋路の手助けしてるんだか。オラ、小林、ニヤケてないで手を動かせ!」
「へいへい。………でも、これさぁ」
 刷り上った新聞を一枚手に取り、それをながめながら小林が首をひねる。
「こんな新聞発行して本当にいいのか? だってよ、今の時点で二人はもう別れちゃってるんだろう? それに、内田は初恋の人に会いにいってるっていうし。もしも二人の関係がちゃんと終わっているんだったとしたら、この新聞はヤブ蛇っつーか、二人にとって迷惑なだけになるんじゃないか?」
「おまえの言っていることも分かる。でも、俺にはどうしても内田が彩ちゃんを好きじゃないとは思えないんだよ。とにかく、内田の気持ちをはっきりさせる必要がある。そのためには、この新聞は必要不可欠なんだ。これが発行されれば、二人の関係は学校中にオープンになる。とくれば、俺が直接内田本人にことの真相を問い詰めることも可能になるってワケだ」
 机の上で新聞をトントンと揃えならが、坂本は不機嫌そうに答えた。
「なにも知りませんって態度をこれまで取ってきたけど、それじゃ埒があかない。一日でも早くこの件を完全に終息させるためには、もうこの新聞を学校中にバラまくしかないんだ!」
 少し考えてから、小林は口をへの字に曲げて肩をすくめた。
「なるほどね。んで、内田がやっぱり栗原さんを好きだった場合には?」
「後日、すぐに訂正とお詫びの新聞を発行すればいい。元新聞部部長のおまえがちょっと頭を下げてくれれば、それでことは足りちまう」
「そして、二人がやっぱり両想いだった場合は、おまえは悲しい素振りを見せながらも、快く彼女を譲ってかっこよく立ち去り、内田から涙ながらに感謝されまくる、ってな脚本か?」
「その通り!」
 にっこりと坂本は笑った。
「いい筋書きだろ?」
「けーっ! それってちょっとカッコよすぎるんじゃねー? しかも、俺一人が悪者かよ?!」
「いいじゃんか、たまには俺がいい思いしたって。それに、学園のみんなはすぐにおまえのことを許してくれる。なんてったって人気者だからな。ま、とにかくそんなワケだから、例え今日徹夜になったとしても、明日の朝には絶対にこの新聞を校内にバラまくぞ。気合入れろよ、小林!」
「はいはい、分かりましたよ」

 そんなワケで、その日二人はどっぷり日が暮れた後まで、大量の新聞たちと格闘しまくったのである。


 そして、翌朝、例の新聞は新聞部員たちの手によって、校内の至る所でいっせいに配られたのであった。







前ページへ 小説目次へ 次ページへ