自室のベッドに横になり、そこから天井を見上げながら内田は溜息をついた。
今日で学校を休んで、もう五日になる。
間に土日があったから休んだ日数として三日だが、なんだかもう随分と長い間学校に行っていないような気が内田にはしていた。
坂本と小林に久し振りに会い、放課後公園で彩に本当のことを言おうとして言えなかったあの日、家に帰りついた内田はそのままベッドに倒れ込んだ。ものすごく頭がズキズキしたのである。
ここしばらく、これまであまり縁のなかった種類の問題に内田の頭は悩まされていた。それは坂本から預かった一通の手紙から始まったものである。
その手紙がもたらした試練というか苦悩というか、とにかく胃に穴があくんじゃないかと思うほど、内田はその問題をなんとか穏便に解決しよう自分なりに考え、また努力しようと奮闘していた。
しかし、善処しようと思えば思うほど、事は悪い方にばかり進んでいく。
なんとかしなければならない。しかも、一刻も早く!
そんなことを毎日毎日考えていたことにより、内田は心身ともに疲れ果ててしまっていた。頭痛もきっと、そのことからくる精神的なものに違いない。
そう思っていたのだが………でも、実はそうではなかった。頭痛の原因は風邪からくるものだったのである。
それに気づいたのは、翌朝いつものように朝食の用意をすませ、庭で花壇の水やりをしていた時だった。
やけに体がダルい。なんだか寒気がする。
そんなことを思っていると、起きてきた母親が声をかけてきた。
「おはよう! 今日もいい天気ねー」
「……ああ、おはようお母さん」
振り返った我が子の顔を見た母親は、驚いて叫んだ。
「ち、ちょっと克己、どうしたのよ? 顔が真っ赤よ?!」
すぐにリビングのソファーに腰掛けさせられて、体温計を脇の下に突っ込まれた。約一分後に聞こえてきたピピッという電子音を響かせたその体温計は、なんと三十九度五分をデジタル表示していたのである。仰天した母親は、すぐさま内田をベッドに押し込んだ。
「今日は学校をお休みね」
熱さましのための冷却シートを内田の額にはりつけながら、母親は安心させるように優しく言った。
「わたしも今日は会社を休むから」
高熱のために赤い顔をした内田が、えっ、と目を見開く。
「いや、いいよ。わざわざ会社休まなくても! 俺、一人で大人しく寝てるから」
「でも、病院に行かなきゃならないし。その熱じゃ一人で行くのは無理でしょ」
「病院なんて行かなくても平気だよ。寝てれば治るから」
「でもねぇ……」
心配そうに内田を見つめながら、母親はどうしようか悩んでいる。
内田としては、仕事を持っている母親に、自分の病気くらいのことで迷惑をかけたくなかった。
「きっと、ただの風邪だよ。小さな子供じゃないんだし、大丈夫、ちゃんとおとなしく寝てるから。お母さんは会社に行っておいでよ。じゃないと俺、かえって申し訳なくて病気が悪化しちゃうよ」
「………そお?」
しかし、それでもまだ悩んでいる様子の母親に、内田は笑顔で言った。
「もしかりに病状が悪化しても、救急車呼べばいいだけの話じゃない? 携帯電話があるから寝たまま電話できるし。ま、そんなことは万が一にもならないと思うけど。大丈夫だって、きっと昼頃には熱も下がってくるから」
その時、ドアが開いて父親が顔をのぞかせた。
「どんな様子だ?」
「ああ、あなた。それがね、熱が三十九度以上もあるのよ。会社休もうと思ってたんだけど、克己が大丈夫だから出勤しろって」
「三十九度か……確かにちょっと心配だな」
「平気だよ。ホラ、俺って昔から熱に強い体質だからさ。ついさっきだって、庭で水やりしたりご飯の用意してたくらいだよ? 俺、もう高校三年生なんだから、いくら一人っ子で心配だからって、それで会社を休むまでされたら恥ずかしいよ。だからさ、二人とも早く会社に行ってよ。遅れちゃうよ?」
息子の言葉を聞き、ちょっとの間腕を組んで考えていた父親が、母親に向かって言った。
「確かに克己の言うことにも一理あるな。もう親がいなくちゃ心細いって年でもないし」
「それはそうかもしれないけど……」
頬に右手をあて、なにかを思い出すように遠い目をしたかと思うと、母親は小さく苦笑した。
「小さい時から克己のことは全部お義母さんにまかせっきりだったじゃない? 病気の時だって、ずっとお義母さんが看病してくれてたし。だからわたし、克己の病気に免疫がなくて、ついオロオロしちゃうのよね。本当に大丈夫なの?」
「うん」
母親からの問いの視線に対し、こくりと内田はうなずいた。大真面目な顔をした父親が、そんな内田の顔をのぞきこむ。
「なにかあったら、すぐに携帯に電話入れるんだぞ。すっとんで帰って来るからな」
「分かってる。ホラ、もう二人とも行って! 会社に遅れるし、それに俺も少し眠くなってきたから」
重いまぶたが閉じるのをなんとか防ごうしているかのように、内田が何度か瞬きを繰り返した。そんな内田の頬に母親が優しく触れる。
「分かったわ。それじゃ会社に行ってくる。なるべく早く帰って来るようにするから」
「ありがとう、行ってらっしゃい。お父さんも」
「ああ。おまえはもう寝ろ。病気の時はとにかくたっぷり睡眠を取るに限るからな。解熱剤と水を置いておくから、よほど調子が悪い時は飲むんだぞ」
笑顔で内田がうなずくと、後ろ髪を引かれるようにしながらも、両親は会社へと出かけていったのである。
一人になり、静寂に包まれた部屋の中で、内田はすぐに目を閉じた。
意識を夢の中へ引きずられながら、内田はぼんやりと考える。
風邪を引いて寝込むのなんて何年ぶりのことだろう。
こう見えて内田は健康優良児であり、風邪を引いても鼻水や咳が出る程度で治まってしまうのが常であった。高熱を出すのなんて、本当に久し振りのことである。
今日は無理にしても、明日には熱が下がり始めるだろう。病院なんて行くほどのこともない。どうせ寝ていれば治ってしまうのだから。
お父さんとお母さんに心配かけてしまって悪かったな。早く元気にならなくちゃ。やらなくちゃならないことも手付かずのままだし……。後で彩ちゃんにもメールしよう。今日は公園に行けないって。
そんなことを思っている内に、内田は眠り込んでしまった。
が。
今になって考えると、それが悪かったのである。すぐに病院に行くべきだった。内田の予想に反して、熱はなかなか引かなかったのである。
熱が出て三日目の土曜日、少し熱も下がってきたもののまだ三十八度代をキープしていた内田のことを、さすがに両親は心配して病院に連れて行った。
「風邪ですね。お薬出しますからちゃんと飲んで下さい。明日か明後日には熱は下がると思いますが、体力下がっているでしょうから様子を見て学校に行くか行かないか判断してくださいね」
医者の診断はそれである。
そして、内田の熱は月曜日の昼頃には平熱に戻った。さすがは医者、診断通りである。
こんなことなら早く病院に行って薬をもらえばよかったと内田は思ったが、それも今さらなことである。
ふと時計を見上げると、針は近い三時三十分を指し示していた。学校が終わる時刻である。
他に誰もいない家の中で、内田は首をうなだれて大きな溜息をついた。
病気で仕方なかったからとはいえ、時間をずいぶん無駄にしてしまった。手紙を彩に渡す約束の二度目を坂本と交わして以来、もう六日が経ってしまっている。
明日は学校に行く。そうしたら、絶対に彩に手紙を渡さなければならない。
でも。
内田は最後に彩と会った時のことに思いを馳せた。
あの時に公園で会った仔犬連れの老婦人の言葉を聞いた時、お似合いね、と言われて嬉しいと感じてしまった時、とても恐ろしい考えが内田の頭に浮かんだのである。
もうしかして、自分は彩のことが特別な意味で好きなんじゃないのか。
そのことについて、内田はじっくりと考えた。学校を病欠していただけに、時間だけはたっぷりあった。
考えて考えて、これまでにないくらい真剣に考えて、だけど内田はいまだにその答えを見つけられずにいた。
彩といると確かに楽しい。笑顔を見てドキッとすることもある。ここ数日顔を見ていないことを、とても寂しく思うのも事実だ。
だけど、内田には好きな人がいるのである。
それを考えると、自分が彩を好きだなんて、そんなことは有り得ないと思う内田だった。
でも、だけど。
それならどうして彩に会いたいと思うのだろう。たった数日、学校を休んでいる間彩に会えなかっただけなのに、どうしてこんなに彩のことばかり考えてしまうのだろう。
それはやっぱり、彩を好きだからじゃないのか?
そう考えていた内田は、ハッとしたように首をブンブン振った。
「いや、違う。そんなワケないよ。だって、俺は栗原さんが好きなんだから!」
自分自身に言い聞かせるようにそう内田が叫んだ時、玄関のチャイムが鳴った。ハッとして、内田はドアフォンの受話器を手に取る。
「はい?」
「……あ、内田さん?」
その声を聞いた内田は、驚きのあまり受話器を落としそうになってしまった。
「も、もしかして、彩ちゃん?!」
「はい」
元気のいい彩の声が耳に響いてくる。
「えへ、あたし心配でお見舞いにきちゃった」
「ち、ちょっと待って。すぐに行くから!」
内田は受話器を置くと、玄関に向かって猛ダッシュで駆け出した。
その日の昼休みのことである。
「今日でもう学校をお休みして三日になるのよ!」
中庭にある噴水の縁に座り、膝に弁当の包みをのせた彩が、隣に座る小泉にかなり真剣な顔でつめよっていた。
「どうしちゃったんだろう? 内田さん、なにか大変な病気なんじゃないかしら?! ねえ、どう思う?!」
小泉は肩をすくめた。その顔には、そんなこと自分に聞かれても分かるわけがないだろう、と書いてある。
「ただの風邪だってメールがきたんだろう? だったらやっぱり、ただの風邪なんじゃない? そんなに心配することないよ」
そう言った小泉を、キッと彩はにらみつける。
「あんたってば、なんて薄情なの?! だって、土日入れるともう五日間も病気のままなのよ?! こんなのっておかしいわよ! あたしに心配かけちゃいけないと思って風邪ってことにしてあるだけで、本当はかなりの重病なんじゃないかしら? 内田さんは優しい人だもの、それはありえるわ!! どうしよう、内田さんが死んじゃったらどうしよう!!」
騒ぎ立てる彩は、さっきから弁当に一口も口をつけていない。内田のことが心配で、食欲なんて消えうせているようだ。
大袈裟なんだから、と呆れ顔をしていた小泉だったが、やがて彩のあまりの狼狽ぶりになんだか同情してしまい、箸でつまんだウィンナーを口に運びながらこう言った。
「そんなに心配だったら、今日の放課後にでもお見舞いに行ってみたら?」
「お見舞い?!」
驚いたように彩は目を見開く。
「だっ、だめよ。だって、お呼ばれもしていない内から家に押しかけるなんて、そんな失礼なことできないわ!」
「そんなの気にすることないよ。だって、彩と内田さんは付き合ってるんだろう? 彼女だったら、逆にお見舞いに行くのが普通だよ。それとも彩、内田さんのお見舞いに行きたくないの?」
「そんなワケないでしょう!」
彩は叫ぶ。
「そりゃ、あたしだって行きたいのは山々だけど……。ねえ、本当に失礼にならないと思う?」
不安そうな顔でそう質問してきた彩に、小泉は大きくうなずいてみせた。
「平気だよ。むしろ大喜びされるんじゃない? だって、二人は恋人同士なんだから。彼女がお見舞いに来てくれたら、普通の男だったら絶対に嬉しいと思うよ」
「そ、そうかな……?」
少し考えるようにしてから、彩はえへっと笑った。
「だったらあたし、行ってみようかな?」
「うん、そうしなよ」
少し元気を取り戻した様子の彩を見て、小泉は安心したようににっこりと笑った。
そんなワケで、学校が終わるとすぐに、彩はその足を内田の家に向けたのである。
内田の家は閑静な住宅街の真ん中にあった。そう大きくもなく小さくもなく、普通よく見かける程度の家であるその建物は、しかし隣近所の家々とくらべると、門の両脇や壁やらにもかわいらしい花々が装飾されていて、いかにも内田の家らしいと彩は思った。
彩は大きく深呼吸をすると、思い切ってドアベルを押した。そして、待つこと数秒。懐かしい内田の声がそこから聞こえてきたのである。
「はい?」
それを聞いただけで、彩は嬉しさのあまり涙ぐんでしまいそうになってしまった。五日ぶりに聞く内田の声だった。
「……あ、内田さん?」
「も、もしかして、彩ちゃん?!」
その後、驚いた顔の内田がドアから顔を出した時は、久し振りに会えた喜びから、彩の胸は感動で震えてしまったのである。
嬉しくて、なんだかキュンと切なくて、思わず内田に抱きつきたくなってしまったが、それはなんとか我慢した。病気の内田に負担をかけてはいけないと思ったからだ。
「ごめんなさい」
内田に促されて居間に入り、進められるがままにソファーに腰をかけ彩は、まずぺこりと頭を下げた。
「事前に連絡もしないでおしかけちゃって……本当にごめんなさい」
「いや、いいんだよ。ちょっとビックリしたけどね」
笑顔でそう言った内田の顔は、病気をする前とくらべて少しやつれてみえる。
「病気、もう大丈夫なの? 起き上がっていて平気? きつかったら、あたしのことは気にしないで横になってね」
「昨日まではちょっときつかったけど、今日はもう熱も下がったから平気だよ。明日には学校に行けると思う」
「そっかぁ。よかったー」
ホッと彩は胸を撫で下ろした。そして、今日この家に来てから初めての笑顔を見せたのである。
「あたし、もしかしたら内田さんが大変な病気にでもかかってるんじゃないかって、変な想像して勝手に震え上がってたの。でも、本当によかった。元気な姿見れて安心した」
それは、心からの喜びに震える最高の笑顔だった。内田に対する愛情が、その笑顔からひしひしと伝わってくる。
しかし、そんな笑顔を見せ付けられた内田はというと、彩から慌てて目を反らしたのである。そして、ぎゅっと胸を手で押さえつけた。そうでもしないと、爆発してしまうんじゃないかと思うくらい心臓がドキンドキンいっていたのである。
焦りながら胸をおさえつけている内田を見て、彩が不思議そうに首をかしげた。
「どうしたの、内田さん?」
内田は慌てて笑顔を見せる。
「いっ、いや、なんでもないんだ! ただちょっと……やっぱり疲れてるのかな? ホラ、熱下がったって言っても、まだ病み上がりだし」
誤魔化すつもりでそう言った内田の言葉を聞いた彩が、途端に顔を曇らせた。
「そっか…そうよね。内田さん、まだ本調子じゃないだもんね。ごめんね、あたし、もう帰る。だから、ゆっくり体を休めて。そして、明日は学校に元気な姿を見せてね」
立ち上がり、玄関へと向かおうとしていた彩の腕を、内田は慌ててつかんだ。
「ま、待って!」
そして、思わず口から飛び出した言葉がこれだった。
「まだ帰らないで。もうちょっとだけでいいから一緒にいたい!」
言い終わってから、内田自身が自分の言葉に驚いた。
な、なに言ってるんだ、俺!
途端に顔から血の気が引く。
そして、言われた方の彩はというと、内田とは反対に顔を真っ赤に染め上げ、あまりの喜びに言葉を失った。
内田から自分に対する愛情らしき言葉を言ってもらえたのは、実はこれが初めてだった。涙腺が緩み、泣きそうになるのを彩はなんとか抑える。
「う、内田さん、あたし……そんな風に言ってもらえるなんて、すごく嬉しい」
揺れる瞳で、彩は内田を熱く見つめた。
つかんでいた彩の腕から、内田は慌てて自分の手を離す。
「いや、その今のは違うんだ! そうじゃなくて……」
一体なにをやってるんだ、と内田は思う。今のはまるで、好きな子に帰って欲しくなくて、必死になって引き止めている男のセリフじゃないか!
「そうじゃなくて?」
不思議そうに自分を見つめる彩の大きな目。見ていると、もうそれだけで脈拍が上がり、内田の頭はごちゃごちゃになってくる。
「そうじゃなくて……その…その…」
自分は彩をどう思っているのか? やっぱり好きなのか? だからさっき、帰ろうとする彩をとっさに引き止めてしまったのか?
いや、違う。自分の好きなのは栗原さんのはずだ。彩を好きだなんてありえない。坂本の好きな子を自分が好きになるなんて、そんな裏切り行為を自分がするはずがない。
―――――でも、だったらなぜ、こんなにも胸がドキドキする?
一瞬の内にそんなことを自問自答してみるが、やはり内田の頭の中はゴチャゴチャのままだった。もうなにがなんだか、自分が一体どうなのか、さっぱり分からない!!
「そ、そうじゃなくて……そうじゃなくて………あ、そうだ、彩ちゃん! 俺っ、彩ちゃんに渡さなければならない物があるんだ!!」
言ってしまってから、あっ、と内田は口を押さえた。
渡さなければならない物とは、もちろん手紙である。坂本からの、あの手紙。でも、今は言うつもりじゃないかった。言う決心がまだついていなかった。
「渡さなければならない物? なあに?」
「そ、それは………」
どうしよう、どうしようと内田は焦る。
しかし、ついに思い切った。
「ちょっとそこで待ってて」
居間に彩を残し、部屋に坂本の手紙を取りに走った。
そうだ、どうせ早く渡さなければならなかったし、本当のことを言わなければならなかったのである。ある意味これは絶好の機会といえる。
ただ、これからのことを考えると、やはり内田の心は痛んだ。
手紙を渡し、本当のことを告げてしまったその時点で、彩との付き合いは完全に終わる。確かに色々と悩み苦しんだが、でも、だけど―――――。
ここ数週間におよぶ彩との交際が楽しかったことは、まぎれもない事実だった。
彩の笑顔、その明るさ。
自分の部屋の中、制服の上着から手紙を取り出した内田は、それをしばらくじっと眺めた。
「ついに渡す時がきたか………これ渡して本当のことを言うと、きっと俺、彩ちゃんに嫌われちゃうだろうな」
ボソリとそう独りごちる。
それだけのことをしたのだから、ずっと嘘をつき続けていたのだから、だから、嫌われても仕方がないと内田は思う。
嫌われるのは嫌だけど、でも、ここまできたら、もう後には引けない。
心に苦いものを感じながらも、内田は急いで居間へと戻った。そして、真剣な表情で彩を見つめ、手にした坂本の手紙を彩に差し出した。
「これ、受け取って」
それを見た彩の顔が、喜びに輝いた。
「それって、あの時の手紙じゃない? くれるの? うわー、嬉しいなぁ」
内田にとっては口で言い表せないほどの重みを持つその手紙を、笑顔の彩は軽々と受け取った。
「今見てもいい?」
彩からの問いに、内田は無言でゆっくりうなずいた。
すぐさま彩は封筒を開け、中から便箋を取り出した。そして、ウキウキ顔でそれに目を通す。
「―――――あれ?」
しばらくすると、彩はそう声を上げた。瞳に途惑いの色を浮かべ、視線を便箋から内田へと移しす。
「内田さん、これって……?」
その視線を受けた内田は、ごくりと唾を飲み込むと、必死になって冷静を努め、彩の疑問に答えるべく大きく息を吸い込んだ。
「そう、あの時俺が彩ちゃんの下駄箱に入れようとした手紙って、実はそれなんだ」
「え、でも、これって内田さんからじゃなくて…」
「そう、俺の友達の坂本ってヤツから彩ちゃん宛ての手紙」
「えっ……え、でも、だって……あれ? ……だって、それじゃ……え?」
すっかり混乱してしまっている彩に、思い切って内田は言った。
「つまり、その手紙は俺が彩ちゃんに告白するための物じゃなかったってことなんだ。俺は坂本に頼まれて、この手紙を彩ちゃんに渡そうとしていただけ」
「……………」
内田の言ったことの意味をはっきり理解したのか、彩は大きく目を見開くと、さすがにそのまま黙り込んでしまった。内田も苦しそうな表情で、じっと彩を見続ける。
やがて暗い顔をした彩が、呟くようなか細い声を絞り出した。
「それって、内田さんはあたしのことを好きだったワケじゃないってこと……だよね? そういうことなんでしょう? この手紙を渡そうとしていただけってことは、そういうことなんだよね?」
そう言いながらも、彩の顔には自分の言葉を内田に否定して欲しいような、そんなすがるような表情が浮かんでいる。
それに気づいていながらも、内田は彩の疑問を否定してあげることができなかった。
「う…ん、実はそうことになんだ。あの日まで、俺は彩ちゃんの存在すら知らなかった」
「……………」
黙り込むと、彩はうつむいた。
続く沈黙に、内田の胸がしめつけられるように痛む。やがてその沈黙に耐え切れず、内田は彩に声をかけた。
「あ、あの、彩ちゃん。お、俺………」
しかし、なんと言ったらいいのか分からず、内田が言葉をつまらせた時、それまでうつむいていた彩が顔を上げた。そして、にっこりと笑う。
「アハハ、すみません、内田さん。あたしったら勝手に誤解しちゃってて。内田さんにものすごく迷惑かけちゃってたみたい。本当にごめんなさい」
「いや、とんでもない」
自分の手を強く握りしめ、叫ぶように内田は言う。
「お、俺の方こそ、ずっと本当のことが言えずに申し訳ないことしちゃって! ……なんか、いつも嬉しそうにしている彩ちゃんを見ていると、なかなか言い出せなくて。あ、いや、彩ちゃんのせいにしているワケじゃないんだ! 全部俺の気の弱さっていうか、煮え切らないっていうか、それが総て悪いんだ」
「いえ、内田さんが悪いんじゃありません。あたしが勝手に勘違いして、内田さんはそんなあたしを気づかってくれたからこそ本当のことが言えなかったんでしょう? あたしの早合点とそそっかしさから、内田さんにも嫌な思いさせちゃって……ホント、あたしってダメだなぁ……本当にあたしって………」
笑顔でそう言いながらも、彩の声は震えている。必死でなにかを堪えているようなその声に、その表情に、内田の心が苦いものに満たされた。
「……彩ちゃん、俺………」
今の彩の気持ちを考えると、胸が張り裂けそうだった。
どんなに辛いことだろう。どんなに悲しいことだろう。
しかし、それでも彩は笑顔を絶やさない。
「内田さん、あたしを傷つけたとか思って引け目に感じることなんかないんですよ? だってあたし、この約三週間というもの、本当にすごく楽しかったから。ものすごく楽しかったから! 逆にありがたかったくらいです。ありがとうございました!」
そして、内田のことを気づかって、逆にそんなことを言ってくれる。しかし、その彩の優しさや健気さが、返って内田には辛かった。なじってくれた方が、よっぽど気が楽だったかもしれない。
なにも言うことができなくなって黙り込んでしまった内田に、やがて彩はくるりと背中を向けた。
「それじゃ、あたし帰りますね。あ、送ってくれなくていいですよ。玄関の場所、ちゃんと分かりますから。本当に色々とすみませんでした!」
明るい声とはうらはらに、歩き始めた彩の背中はとても小さく、寂しさと悲しみに満ちあふれている。
居間のドアを開けると、彩は内田の方に振り返った。
「それじゃ、内田さん……………さよなら」
今にも泣き出しそうな笑顔のままで、ペコリと頭を下げる。そして、また背中を向けた彩に、内田はたまらず声をかけた。
「あ、彩ちゃん!」
振り向いた彩に内田は問う。
「あの……坂本にはなんて返事をするつもりなの? いや、俺なんかがこんなことを訊く筋合いじゃないんだけど……」
「返事? ………ああ」
ずっと握りしめたままの坂本からの手紙に、彩はふと目を向けた。そして言う。
「分かりましたって、もし坂本さんに会ったら伝えておいてもらえますか? わたし、お受けしますからって」
そして、彩は玄関で靴を履くと、走って内田の家を飛び出した。
内田の家を出た瞬間、目から涙が溢れ出した。
涙で周りの景色がぼやけて見えた。角を曲がり、内田の家が完全に見えなくなったところで、彩はその場に座り込んだ。両手で顔を覆うと、そのまま声を押し殺して泣き崩れた。
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