桜ヶ丘交響曲第1番「天使」



      12


 手術後の麻酔がいまだ取れず、目を閉じてベッドの上に横になっているエリの寝顔を見つめながら、小林はホッと安堵の息をもらしていた。
 手術は無事に成功した。だからと言って、これでエリが健康な普通の体になるかと言えば、そうではない。しかし、これまでよりはずい分良くなるはずだった。
 小林の隣には、エリの手を握り締めながら、幼いわが子の目覚めを待つ母親の姿もある。
 本来なら、父親も飛行機に乗ってやってくるはずだったが、手術日が急に変更になったため、立ち会うことができなかった。しかし、数時間後にはこちらに到着する予定である。
 小林は立ち上がると、大きく伸びをした。
「ちょっと出てくる。すぐ戻ってくるけど、なにか欲しいものある?」
「それじゃ、悪いけど、缶コーヒー買ってきてくれる?」
「分かった」
 母親に軽く手を振ると、小林は病室を出た。
 時刻は夕方の六時。真夏の太陽も、さすがにこの時間ともなると色を変え始めている。
 小児病棟の待合室にある自動販売機で缶コーヒーを一本買うと、小林はそれを一気に飲み干した。そして、自動販売機の手前にある椅子に、どすんと腰を下ろす。そして、大きく息を吐いた。
「エリ、よくがんばったなぁ」
 声に出してそう呟くと、エリの手術の成功が、しみじみと実感として体中に広がった。それと同時に、桜ヶ丘女子バスケット部の試合の結果も気になり始める。
 もしかしたら、坂本がメールで結果を送ってくれているかもしれない。院内は携帯禁止のため、電源はもうずっと切ったままにしてあった。
「オフクロのコーヒーは、帰りに買えばいいか」
 そう呟くと、小林は院外に出るためにエレベーターに向かった。外に出て、携帯の電源を入れてみようと思ったのだ。
 一階に到着したエレベーターを降り、ロビーを通り抜けようとした小林の耳に、すれ違った数人の、若い見舞客たちの話す声が聞こえてきた。
「おい、見たか、さっきの子」
「見た見た。門の所にいたジャージの子だろう? すっごい美人だったな。なんか、芸能人みたい」
「俺、思わず見とれちゃったよ」
 すっごい美人、なんて聞くと、小林の頭には反射的に志乃の姿が思い浮かぶ。どんな美人だかしらないけど、志乃にかなうわけがない、なんてことを考えながら足早にロビーを抜ける。
 そして、自動ドアを通って外に出た小林は、すぐに携帯の電源をオンにした。待ち受け画面が表示されるまでの短い時間、何気に門の方に目を向けてみる。さっきの見舞い客たちの会話。それが薄っすらと頭の片隅に残っていたことによる、無意識の行動だった。
 小林がいる病院入り口から門までは、間に駐車場スペースがあるため、かなりの距離がある。
 遠目ではあるが、確かにそこには女の子の姿が見えた。そして、小林は驚きのあまり体を硬直させ、携帯を落としたのである。
「………志乃さん?」
 ジャージ姿の女の子。顔はハッキリ見えないが、小林にはそれが志乃に見えた。見間違いかと思って、目をゴシゴシこすってから、もう一度門の前に目を向ける。
「やっぱり志乃さんだ!」
 携帯を急いで拾うと、小林は門に向かって猛ダッシュで駆け出した。


********************

 総合体育館を出た志乃は、近くにある停留所から急いでバスに乗り込んだ。早く早くと心は焦るのに、夕方の渋滞にはまったバスはなかなか動いてくれない。そして、やっとのことで到着した最寄駅前でバスを降りると、志乃は駅に駆け込んで一番早く出る電車に飛び乗った。
 試合会場となった総合体育館から桜ヶ丘学園まで、間に二つもの市を挟んだ距離がある。エリが入院している病院は、更にそこから少し離れた場所だ。
 手術は終わっただろうか、うまくいったのだろうか。小林は今どうしてる?
 慌てて飛び出して来たので、志乃はジャージ姿のままだった。でも、そんなことは少しも気にならない。
 とにかく、早く病院に着きたい。
 それだけを考えながら、志乃は窓を通り過ぎる景色を、少しイライラしながら見つめていた。
 病院に着いたらどうするか、なんてことは、全く頭の中になかった。
 だから、駅で電車を降り、夢中で走って病院前まで来た志乃は、そこで初めて、自分がこれからどうしたらいいかを考えて、茫然となってしまったのだ。
 手術が終わったかどうかも分からない。手術中だとすると、手術室はどこなのか。小林や、おそらく彼と一緒にいる家族の中にいきなり飛び込んでいって、自分は一体なにをしようというのか。
 志乃は情けない顔をして、よろよろとその場に座り込んだ。
「わたしったら………ホント、大バカね……」
 まだ荒い息を肩でつきながら、小さく呟く。
 時計を見ると、針は夕方の五時を指していた。
 どうしたらいいか分からないとはいえ、しかし、このまま家に帰る気にはなれなかった。エリのことも気になるし、なにより、ひと目でいいから小林に会いたいと、心がそう告げている。
 だから、待つことにしたのだ。
 もし、小林が病院内にいるのなら、いつかは出て来るはずだ。面会時間の終了は、確か七時三十分だったと記憶している。八時になっても小林が姿を現さなかった場合、その時は家に帰ればいい。
 ここで待っている限り、小林の姿を見逃す心配はないだろう。
 だから志乃は、このまま門の前で待つことにしたのだ。
 ただひたすら、小林の姿だけを求めて志乃は待ち続けた。
 時折、通り過ぎる人たちが不思議そうに首を傾げていくけれど、そんなものは無視して志乃は待ち続けた。  ゆっくりゆっくりと時間が流れる。
 退屈だなんて少しも思わない。もしかしたら小林に会えるかもしれない、そう思うだけで、自分でも信じられないくらい心が躍る。
 無駄なことをしているのかもしれないということは、志乃にだって分かっていた。多分、今日は小林に会えないだろうと、心の奥底ではそう思っていた。
 でも、こうやって小林を待っているだけで、小林を待つという時間を過ごしているだけで、不思議と心は満ち足りていた。
 だから、突然、小林がすごい勢いで走ってきて、自分の目の前に止まった時は、もう本当に、夢を見ているのではないかと思うくらい、驚いたのだ。
 腰をかがめて両手を膝につき、ハァハァと肩で息をつく小林を、ただ茫然と見つめることしかできなかった。

 そして、小林は、全力疾走のために荒く上がってしまった息を落ちつかせる間、驚きと喜びと感動に胸を震わせながら志乃を見つめていた。
 入り口からこの門の前まで走りながら、まだ半信半疑だったのだ。
 あんな所に志乃がいるわけがない。今日は試合の日だ。勿論、試合はもう終わっている時間だけど、だけどここにいるはずがない。勝っても負けても、今頃はバスケット部員や応援団のみんなと、お疲れ様会でもやっているはずの時間なのだから。
 だから、門の目の前まで駆けつけて、そこにいるのが本物の志乃であることを確認した時は、もう驚いたのは当然のこと、感動と感謝の気持ちで胸がいっぱいになってしまった。
「志乃さん、来てくれたんだ」
 やっと息が落ちついた小林は、満面の笑みで志乃を見た。
 志乃はなにも言わず、ただ黙って小林を見つめている。そして、しばらくすると、ポツリと呟くように言った。
「エリちゃんの手術は?」
「うん、うまくいった。今はまだ麻酔で眠ってるけど、そのうち目を覚ますと思う」
 小林が笑顔で言うと、安心したような顔を志乃は見せた。
「そう………よかった」
「ありがとう、心配してくれて。遠いのに、わざわざここまで来てくれて」
 赤く染まりかけた空の下で見る志乃は、いつにも増して美しく見えて、その美しさに小林は、つい見とれてしまう。
 天使みたいだ、と、初めて志乃を見た時と同じように、小林は思った。そして、心から志乃が好きだと体中で実感する。
 しかし、ハッとわれに返ると、小林は志乃につめ寄った。
「そういえば、試合は? どうなった?!」
 それにはなにも答えずに、志乃は地面に置いていた荷物を拾って肩にかける。
「それじゃ、あたし帰る」
 そして、素っ気なくそう言うと、小林に背を向けてすたすたと歩き出したのだ。
「え、おい、ちょっと待ってくれよ」
 小林は慌ててその後を追いかけた。そして、志乃の手首をつかむ。
「もう帰っちゃうのか?」
「エリちゃん大丈夫だって聞いたし」
 振り向きもせずに志乃は言う。
「だから、もう帰る」
「でも、せっかく来てくれたんだし、もう少しゆっくり……」
「いいの。小林くんにもひと目会えたし。これ以上ここにいたら………小林くんと一緒にいたら、あたし幸せすぎておかしくなってしまいそう。もう、充分だわ。小林くんに会えたんだもの。あたし、もうそれだけで………」
 小林の心臓が、ドクンと大きく波打った。
 その拍子に、小林につかまれていた手からスルリと志乃の腕が抜けた。そしてまた歩き出す。
 そんな志乃の後ろ姿を見ながら、小林は自分の胸の上にギュッと手をあてた。
 たった今、志乃が言った言葉を小さく呟いてみる。
「俺と一緒にいたら幸せ………? 今、そう言ったよな? おかしくなる? それってどういう―――――」
 つい、自分に都合のいい想像をしてしまい、小林の体は熱くなった。胸の鼓動が、もう考えられないくらいに早く波打ち始める。
 なにかが起ころうとしている、そんな予感が小林の体中に広がった。
 とりあえず、このまま志乃を帰らせるわけにはいかない。
 遠ざかる志乃を慌てて追いかけると、小林はまた、志乃の手首をつかんだ。
「待ってくれよ。さっき言ってたことって………」
 立ち止まりはしたけれど、でも、志乃は振り向いてくれない。
 志乃の顔が見たいと小林は思った。今、志乃がどんな表情をしているのか、それが見たくてたまらない。
 だから、つかんだ腕を強く引っ張ると、無理矢理志乃を自分の方に向かせた。そして、その両肩に手をかける。
「志乃さん!」
 小林は胸をドキドキさせながら志乃の顔を見た。そして、ハッと息を飲んだのである。
 志乃は泣いていた。
 そして、なんだかすごい勢いで、小林をにらみつけていたのである。
「………あたしたち、今日の試合、負けちゃったの」
 小林をにらみ、目から涙を流しながら志乃は言った。
「…………そう、か」
 残念そうな色を含んだ小林の声が、志乃の耳に届く。
「残念……だったな」
「小林くんのせいよ!」
 怒りを含んだ声で志乃が言った。
「小林くんが応援に来なかったから……だから、負けちゃったんだわ!」
「………志乃さん?」
「あたし、ずっと待ってたんだから。小林くんがいないと、なんだかすごく寂しくて……。だから、負けちゃったの。試合会場に来る途中で事故にでも合ったんじゃないかって、すごく心配もしたわ! 相手はすごく強敵だった。そんなだから、負けちゃったのよ!!」
 泣きながら怒鳴りつける志乃の言葉を聞きながら、小林は頬を赤くした。胸を高鳴らせた。
 志乃の言っていることは、支離滅裂でよく分からない。
 でも、怒鳴られているのに、責められているのに、その言葉すべてが甘く聞こえるのはどうしてだろう?
「全部、小林くんが悪いのよ! 小林くんが応援に来てくれなかったから―――――」
 志乃はまだ泣いている。そして、甘い言葉で小林をなじる。そんな志乃が愛しくて、かわいくて、どうしようもなくて、小林は志乃を抱きしめた。
「好きだ」
 そう言うと、志乃を抱く腕の力を、小林は更に強めた。
「好きだ」
 腕の中で志乃が微かに震えているのが分かる。
「………俺、志乃さんが好きだ」
 何度でも言いたかった。何度言っても、言いたりなかった。

 そして、志乃は、愛をささやく小林の声をその腕の中で聞きながら、ひたすら泣き続けていた。
 どうして小林にあんなことを言ったのか、自分でも分からない。
 小林が今日試合の応援に来れなかった理由は分かっている。エリの手術日が急に変更になったからだ。試合に負けたのは実力の差だと分かっているし、その試合内容にも志乃は満足していた。
 なのに、どうして小林にあんなことを言ってしまったんだろう。
 小林の姿を見た時、小林が走って来てくれた時、とても嬉しかった。言葉では言い表せないくらい、夢かと思ってしまうくらい、本当に嬉しかった。
 あまりにも嬉しくて、あまりにも幸せで、なんだか胸が切なくなった。小林の姿を見ているだけで、切なくて苦しくて、息苦しくなった。涙が出てきた。
 だから、小林をにらんだのだ。
 自分をこんな気持ちにさせた小林が、なんだか憎らしかった。だから、文句の言葉を浴びせた。
 嬉しくて、切なくて、苦しくて、そして、涙がこぼれた。
「好きだ」
 小林のささやく声が聞こえる。
 息苦しいほどに自分を抱きしめる小林のその腕の力が、なぜかとても心地いい。
「あたしも小林くんが好き………大好きなの」
 小林の胸に顔をうずめたまま、志乃は言った。
 やっと言えたこの言葉。本当はずっと前から言いたかったのに、なかなか言えずにいた。
「小林くんが好きなの」
「俺も、志乃さんが好きだ」
 志乃は顔を上げた。その瞳に、真摯な顔をした小林の顔が映る。
「俺も志乃さんが好きだ。誰よりも……こんなに」
 近づいてきた小林の息を間近に感じ、志乃は静かに目を閉じた。その唇に、小林の唇が重なり合う。
 心の底から………幸せだと思った。
 しばらくそのまま、二人は抱き合ったままでいた。




 病院から駅までの、そう長くない道のりの中、志乃を送りながら小林は言った。
「エリが目を覚ましたら、ちゃんと言っとくよ。志乃さんが来てくれたこと。あいつ、すごく喜ぶと思うな」
「うん」
「急に手術するのが一日早くなったから、かなり不安だったみたいでさ、麻酔室に入る前、ずっと志乃さんの写真を握りしめてたんだ。天使サマに勇気をもらうんだって」
「よくがんばったねって、あたしが言っていたって伝えてくれる?」
 志乃がそう言うと、小林は笑顔でうなずいた。
 そんな小林の笑顔を見て、志乃は頬を染める。背の高い志乃よりも、更に頭一つ分ぐらい大きい小林の隣を歩いていると、なんだか自分の方が年下のような気になってくる。
 明るく元気で、誰からも好かれる人気者の小林。そんな小林が自分を好きになってくれたことが、なんだか奇跡のように思えてくる。
 だから、言った。
「あたし、キレイに生まれてきてよかった」
「――――――うん?」
 呟きにも似た志乃のその言葉を聞いて、小林が志乃を覗き見た。
「今までは嫌で嫌でたまらなかったけど、今は心の底から感謝してる。キレイに生まれてよかった。だって、そのお陰で、小林くんに好きになってもらえたんだもの」
 そう言って、志乃は微笑んだ。
 そんな志乃の輝く笑顔を見て、小林はうっと言葉をつまらせた。そして、急いで志乃から目を反らした。
「どうしたの?」
 不思議に思って志乃が訊くと、小林が大きな溜息をついた。
「そんな嬉しいこと言われながら微笑まれたら、俺、もう気が狂いそう。志乃さんがあまりにキレイすぎて、これ以上見ていられないよ」
 そして、チラリと志乃を見たかと思うと、情けない顔した小林が、遠慮がちに言った。
「志乃さんと、またキスしたくなっちゃった。………その、しても…いい?」
 そんな小林を見て、志乃はクスリと笑う。
「そういうことは、許可を取らずにスマートにやるものよ、年下くん」
 小林はバツが悪そうに頭をかいた。そして、志乃のあごに指をあてて顔を上に向かせると、そこに優しく口付けた。
 二度目のキスは、一度目のそれよりも甘く感じた。


 その後、小林と志乃は話し合い、二人の関係を学園のみんなには内緒にしておくことに決めたのである。
「だって、小林くん、きっとひどい目にあわされちゃうわよ」
「うーん、確かになぁ。志乃さんファンは大勢いるから。でも、俺、耐えてみせるぜ?」
 ガッツポーズを見せる小林に、志乃は不安そうな目を向ける。
「あたしが心配なのよ。あたしのせいで、小林くんがケガとかするのは嫌だもの」
「別に志乃さんのせいってことはないんだけど……うーん、ま、いっか。みんなに内緒にしとくってのも、スリルや緊張感があって楽しいかもな。でも、一部の人には話しするよ。坂本とか、他にも協力態勢に入ってもらわないといけない人とかには」
「それは勿論よ。あたしだって、幸には話すつもり」
 そんな会話を交わした直後、駅に電車が入ってきたので、二人は名残惜しくも手を振って別れた。
 もうエリが目を覚ましているかもしれない、と思いながら、小林は病院までの道をひた走る。
 走りながら、小林はちょっとだけ泣いた。自分に訪れた幸せに、信じられないほどの幸せに胸がいっぱいになって、ほんの少しだけ泣いた。
 エリが目を覚ましたら、すぐに今の出来事を話してやろうと思う。
 きっとエリは喜んでくれるだろう。


 天使を手に入れた小林の奇跡を、きっと、心から………。


      おわり




前ページへ 現代小説目次へ 桜ヶ丘目次へ