桜ヶ丘交響曲第1番「天使」



      11


 さて、志乃がそんな風に思い悩んでいることなど全く知らず、小林はルンルンの日々を過ごしていた。
 近頃、立て続けに発行している新聞の売れ行きは順調。志乃ファンクラブとの諍いも途絶え、今は共に女子バスケット部を応援する仲間と化している。そのバスケット部は決勝線までコマを進めているし、なによりも、なんだか最近、志乃がとても優しいのだ。
「ふふふ〜んふ〜ん♪」
 自然に鼻唄まで出てくる始末である。
「なんだよ、やけにご機嫌だな? 金でも拾ったか?」
 昼休みも終わる頃、席が隣の坂本にからかい口調でそう言われて、小林はニンマリと笑顔を向けた。
「バーカ、そんな世俗的なことじゃないよ」
「じゃあ、なんだよ。あっ、まさか、志乃さんとなにか進展があったとかじゃないだろうな?!」
「だったらどうするぅ〜?」
 にこにこしながらそう言う小林に、坂本が血相を変えてつめよった。
「マ、マジかよ! どうしたんだ、なにがあったんだよ?!」
 小林は夢見がちな目をして嬉しそうに言う。
「それがさ、最近の志乃さん、俺にすっごく優しいんだよ」
「優しい?」
「うん。もう前みたいに、俺見ても嫌な顔しなくなったしさ、廊下とかでたまたますれ違う時、にっこり笑ってくれたりするんだぜ? どうだ、すごいだろう?」
 得意そうに自慢する小林を見て、坂本は呆れたような顔をした。
「………それだけ?」
「ん?」
「それだけかって訊いてんの」
「あ、ああ、それだけだけど?」
 小林の言葉を聞いて、坂本は情けなさそうな顔して息を吐いた。
「バッカだな、志乃さんが優しいのはいつものことだぞ。志乃さんは美人なだけじゃなくて、誰にでも優しい。だから、あれほどの人気を誇っているんじゃないか」
 そして、肩をすくめる。
「俺とすれ違う時だって、志乃さんは微笑んでくれるぜ? そりゃ勿論、俺の方から声をかけるし、手をブンブン振ったりもするけど。俺は生徒会役員だから、志乃さんとは面識あるからな」
「え、そうなのか?」
 坂本は大きくうなずく。
「で、でも、俺はずっと、冷たくされてたような気がするけど」
「だから、あの志乃さんに冷たくされてたおまえが異常なんだよ。ファンクラブだって、優しい志乃さんが迷惑男たちになにも言えないから、代わりにそいつら追っ払ってるんじゃないか」
 小林も、そうやって追っ払われようとした一人である。
「言ってみれば、人並み以下だったおまえが、やっと人並みになれた、と、そういうことだな」
「ええっ!、マジで?!」
「おまえは応援団結成の発起人だから、志乃さんも少し仏心を出してくれたと、そんなところだろ?」
 坂本の話を聞いていて、ガーンと小林は落ち込んでしまった。
「そうか、そうだったのか」
 しかし、しばらくすると、手をぎゅっと握りしめて闘志に満ちた顔をした。
「でもさ、進展があったことは確かだよな?」
「まあな」
「だったらいいや。それだけでも、俺は大満足だぜ! 希望がないわけじゃない。これからも、少しずつ進展させていけばいいんだもんな」
 そんな小林を見て、坂本がにっこり言った。
「俺、おまえのそういう前向きなところ好きだぜ」
「惚れるなよ。俺は志乃さん一筋だかんな」
「バカ言って。ま、とにかくガンバレや。前途多難だろうけど」
「まかせとけって!!」
 なんて自信満々に胸を張って言ったものの、実はガックリ落ち込んでいた小林である。
 もしかしたら、志乃が少しは自分を気にしてくれているのではないかと、ここ最近、ちょっと嬉しく思っていたりなんかしたのだ。
 それが、今の坂本からの話を聞いて、自分の勝手な思い込みであることがよく分かった。
「おにいちゃん、相手は天使さまだよ? そんなに簡単に好きになってもらえるわけないよ」
 いつもエリに言われる言葉を思い出しながら、小林は大きく溜息をつく。
 これまで出会った人の中で、いや、これから出会う人を含めても、きっと誰よりも美しいであろう志乃。桜ヶ丘に編入してすぐ、足を向けた体育館で初めて見た瞬間、小林は恋に落ちた。
 天使みたいだ、と思った。
 それからは、もう夢中で追いかけてきたのである。
 一日一日、会うたびごとに、どんどん志乃を好きになっていく。志乃を想うだけで、世の中のすべてが輝いて見えた。
 確かに最初は、志乃の容姿に惚れた。
 でも、今は違う。志乃のすべてが好きだった。バスケットをする時の、あの真剣な表情。エリを思いやってくれる、あの優しさ。好きだと小林が言った時に見せる、あの怒ったような困り顔。長い手足、白い肌、緩やかにウェーブのかかった長い髪。
 その、どれもたまらなく好きだ。
 小林はモテない男ではない。だから勿論、これまでに何人かの女の子と付き合ってきている。その都度、ちゃんと相手を好きになり、真面目に交際してきた。とても楽しい思い出として、今も小林の胸の中に残っている。
 でも、そのどれを取ってみても、今回ほど夢中になったことはなかった。
 自分のことを好きになって欲しいと、これほど強く望んだことはない。
 もし、志乃が自分を好きになってくれたら、その時、自分はどうなってしまうだろう、と小林は考える。片想いである今でさえ、毎日がこんなに楽しい。志乃と同じ空気を吸っていると思うだけで、こんなにも幸せになれる。
 もし……もし、志乃が自分を好きになってくれたら、互いの気持ちが通じ合ったら。
「俺、幸せすぎて死んじゃうかも」
 そう呟いた小林は、花壇で咲くヒマワリにふと気付いた。
 小林が志乃に渡した頃に咲いていたヒマワリは、もうすでに花を終わらせていたが、今はまた別のヒマワリが元気良く咲き並んでいる。
「俺もヘコたれずにがんばらなきゃ」
 自分自身を元気づけるように、小林はまた呟いた。
 志乃が喜んでくれるなら、志乃が嬉しそうに微笑んでくれるなら、どんなことだってやれると思う。やりたいと思う。
 取り合えず、今できることは女子バスケット部を応援すること。
 少し離れたところで、別の友達と話している坂本に向かって、小林は声をかけた。
「坂本、おまえ今度の土曜日、また応援行くだろ?」
「もっちろん。商店街のオバちゃん全員引き連れてくよ」
「よーし、またみんなでガンガン応援しようぜ!!」
 小林は元気良くこぶしを振り上げた。


 そして、ついに土曜日。
 前回と同じ、試合会場は県の保有する総合体育館である。二階の応援席には、前回以上に多い桜ヶ丘応援集団が、我が物顔で広いスペースを陣取っていた。
 控え室からコートに出てきた志乃は、真っ先にその応援集団に目を向けると、笑顔で軽く手を振った。それだけで、その応援集団から大歓声が巻き起こる。
「理事長のじーさん、まだ来てないけど、今日は来ないつもりか?」
 応援団長、尾崎の問いに、木本は肩をすくめて答えた。
「先週はりきりすぎて入院中みたいですよ。本人は、絶対に志乃さん応援するって言い張ってたみたいだけど、ドクターストップがかかったらしくて。病院逃げ出さないように、奥さんに監視されながら療養してるそうです」
「いい年こいて、バカだな、あのじーさん」
「バカですね」
「ま、俺たちもバカだけどさ」
 口端を少し上げてにっと笑う尾崎に、木本もにっと笑って相槌を打った。
「俺たちもバカですね」
 たかが県大会、しかもバスケット。これほどの人数、吹奏楽部まで引き連れての応援は、大会始まって以来の前代未聞、初めてのことだったらしい。先週の試合の後、尾崎たちは地元新聞の記者にインタビューを受けたくらいだ。
 翌日その記事は小さいながらも紙面を飾り、それが話題となって、今日の応援人数を更に増やす結果となった。
「でも、いいじゃないですか、バカだって。こんなに盛り上がってるし、俺たちだって楽しいんですから」
 応援集団を見渡しながら言う木本に、細い目を更に細めて尾崎は見た。
「よく言うよ、下心ありのクセして。志乃に恩売っといて、十二月の聖夜祭に担ぎ出すつもりだろう?」
「あれ、バレてました? さすが、ファンクラブ会長」
 涼しげに笑う木本を見て、尾崎は肩をすくめた。
「ふん………まあ、いい。それより、もう一人、姿が見えないヤツがいるけど、なにか知ってるか?」
「さあ? 坂本なら知ってるかもしれない。ちょっと訊いてこようかな」
 そう言って、木本は席を立った。

 尾崎と木本がそんなやり取りを交わしている頃、志乃はそわそわしながら応援席を見回していた。
 小林の姿が見えない。
 見落としてるのかもしれないと思って、何度も志乃は応援席を端から順にチェックした。でも、何度見直しても、やっぱり小林の姿は見つけられない。
 小林の友達、生徒会の坂本がいるのは分かった。彼に訊けば、いない理由が分かるとは思うが、下から大声出してそれを尋ねるわけにもいかない。
 なんといっても、そこは志乃ファンたちの巣窟なのだ。大声出して、
「小林くんはどこ?」
 なんて訊こうものなら、大騒ぎになってしまうことは間違いない。
(遅れてくるのかしら?)
 そう思い、チラチラ視線を向けてみるが、一向に小林は姿を現さない。
 なんでだろう、どうして来ないんだろう。
 まさか、来る途中で事故にあったのでは、なんてことが頭に浮かび、志乃はブンブン頭を振った。
 そんなワケない。その内、きっと来る。
 しかし、いつまで待っても小林は現れない。
 なんだか胸が、嫌な意味でドッキンドッキンいい始めた。落ち着きを取り戻そうと、志乃は自分の胸を手で押さえる。
 今日の対戦相手、これまでに何度か練習試合をしたことがあるが、一度も勝ったことがないチームである。強敵なのだ。こんなことで、心を乱されている場合ではない。
 小林が来てくれれば、小林の姿を見ることができさえすれば、すぐにでも心は落ちつくと、そう思う。でも、どんなに待っても、小林は現れない。
 そうこうしている内に、ついに試合は始まってしまった。
 先週以上の白熱を見せる応援席。太鼓が鳴り、吹奏楽部の奏でる音楽が体育館中に響き渡る。
 ぎゅっと目を閉じると、志乃は大きく深呼吸した。そして、頬を両手でパンと叩き、自分自身に気合を入れる。
 もう、小林のことは考えない。神経のすべてをコート内に集中する。
 負けてしまえば、それが高校生活最後の試合になってしまう。
 容姿以外のもので、人に認めてもらえるなにか。人に誇れるなにか。それを求めて、志乃はバスケットを始めた。動悸は不純だったかもしれない。でも今、志乃はそんな理由でバスケットをしてるのではない。
 心から、バスケットを愛していた。だから、一生懸命プレイする。体力の限界までコートを走り回り、ボールを追いかける。
 真夏の最中、汗は滝のように流れ、体は疲労して息が荒くなる。でも、心は清々しかった。苦しい反面、楽しくて楽しくて仕方がない。
 これを最後の試合にしたくはない。
 相手チームは強敵だ。個々の実力もさることながら、息の合ったチームワークにも目を見張るものがある。
 時間がたつにつれ、敵ゴールを目指すより、自ゴールを死守する時間の方が長くなってくる。
 ハーフタイムの時、補欠部員から手渡されたタオルで汗をふきながら、志乃はチラリと応援席に目を向けた。やはり、小林の姿は見えない。
「あと半分よ」
 チームのみんなの顔を、一人一人ゆっくり見渡しながら、志乃は言った。
「悔いの残らないように、思いっきりやりましょう! そして、思いっきり楽しもう!」
 みんな疲れた顔をしている。でも、口をグッと一文字に結び、目を輝かせて大きくうなずいた。
 そして、後半が始まる。
 前半同様、やはり攻めるよりも、桜ヶ丘が守りに徹するような形で試合は進んでいく。二階席からの応援声や太鼓の音も、もう全く志乃の耳には届いていなかった。全神経を試合に集中させていた。
 もう、勝ち負けのことも、どうでもよくなっていたかもしれない。ただもう、とにかく楽しくて、志乃は夢中でボールを追いかけ続けた。
 だから、試合終了のホイッスルが鳴った時、なんだか長い夢から覚めたような、ふわふわとした不思議な感覚に志乃は包まれていたのだ。体が自然にコート中央に向かい、審判の号令に合わせて相手チームに頭を下げる。
 レギュラー部員や補欠部員が志乃の周りに集まってきた。彼女たちの涙に濡れた顔を見た志乃は、ゆっくりと得点ボードに目を向けた。
 負けたんだ、と初めてそこで理解した。
 ふと応援席を見上げると、そこにいる全員が席を立ち、志乃たちを見ていた。そして、いっせいに頭を下げた。
「お疲れ様でしたっ!!」
 温かい目で自分たちを見つめてくれる彼らの顔を見ていると、なんだか志乃は泣きたくなった。部員全員を応援席に向かって一列に並べさせ、みんなで同時に頭を下げる。
「ありがとうございました!」
 志乃たちに対する労いの拍手が、応援席から鳴り響く。
 負けて悔しくないと言えばウソになる。でも、心は晴れやかだった。自分たちの実力を出し切って戦ったと、自信を持って言えたから。素晴らしい試合ができたと、心から思えたから。


 表彰式が終わるとすぐに、志乃は応援席に足を急がせた。そこで、応援に使った道具を外に運んでいた坂本を見つけて声をかける。
「ねえ、坂本くん!」
「あ、志乃さん」
 坂本は一瞬驚いたような顔をした後、気持ちのいい笑顔を志乃に向けた。
「試合、お疲れ様でした。負けちゃったけど、でも、すごくいい試合でしたよ。俺、感動して泣いちゃいましたもん」
 そして、その時の感動を思い出したのか、眉をへの字にして目を潤ませる。
「ありがとう。これもみんな、応援してくれたみんなのおかげよ。あたしたち、心から感謝してるわ」
「そ、そんな、感謝だなんて」
 志乃に美しく微笑まれて、坂本は顔を真っ赤にした。
 そんな坂本に、志乃はちょっとそわそわした素振りを見せた。そして、一瞬ためらった後、今一番知りたいことを質問した。
「小林くん来てないみたいだけど、どうしたの?」
「ああ、小林はちょっと用事があって、来れなくなったんですよ」
「用事って?」
 坂本は困ったような顔をした。
「これ、言っちゃっていいのかなぁ? アイツの妹のことなんだけど……」
「エリちゃんのことなら知ってるわ。どうしたの、エリちゃんになにかあったの?!」
 血相を変えて詰め寄る志乃に、ちょっとビクつきながらも坂本は言った。
「なんでも、明日の予定だった手術が、病院の都合で急に今日になったとかで………」
「手術が今日に? それホント?!」
「は、はい。昨日の夜、小林が電話くれて」
 そこまで聞くと、志乃はくるりと振り返って走り出した。そんな志乃の後ろ姿に向かって、坂本が声をかける。
「志乃さぁーん、病院の場所、知ってるんで……」
 すか、と言う間もなく、志乃の姿は坂本の視界から消えた。
 志乃の走り去った方向を呆然と見ていた坂本は、しばらくすると、嬉しそうに笑いながらピュ〜と小さく口笛を吹いた。
「小林のやつ………そうか、そうだったんだ。チクショウ、あの幸せ者め。月曜日は昼飯おごらせないといけないなぁ」
 楽しそうにそう呟くと、鼻歌まじりに応援道具運びを再開した。





     つづく




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