週明けの月曜日、県大会準決勝に勝利した女子バスケット部の話題で、桜ヶ丘学園は先週以上に盛り上がっていた。
朝から何人もの学生たちが志乃の教室を訪れ、祝いと労いと励ましの言葉を、興奮しきった様子で口にしていく。
しかし、当の志乃は、なんだかあまり元気がなかった。
声をかけられると笑顔でそれに返す。ありがとうと感謝の言葉を述べる。でも、それ以外の時は、なぜか元気なくボーッとしていた。
「元気ないわね、どうしたの?」
親友の幸に肩を叩かれ、志乃は机の上にうつぶせていた顔をゆっくりと上げた。
「別に、なんでもない」
相変わらずボーッとした顔でそう言うと、大きく溜息をついた。
「なんでもないってことないでしょう? そんな溜息ついたりして。一体どうしたのよ?」
心配そうに自分をのぞきこむ幸に、志乃はボソリと小さな声で言った。
「ちょっと考えごとしてるだけ」
「考えごと? なによ、悩みでもあるの? 相談ならのるわよ」
「……………」
志乃は少し考えてから言った。
「いいの、心配かけてごめんね」
「あたしに言えないようなことなの?」
「そういうワケじゃないんだけど……。今はまだ、自分でもなにがなんだかよく分からないの。だから、今はいい。相談できるようになったら、その時は話聞いてもらう。ごめんね、幸」
そしてまた、志乃は溜息をついた。
そんな志乃を見て、幸は頬に手を添えて小首を傾げた。
志乃の考えごとって、一体なんだろう。
バスケット部は順調に勝ち抜いている。心からバスケットを愛している志乃にしてみれば、もう喜びで胸はいっぱい。多少の悩みがあったにしても、そんなものは気にならないくらいウキウキのはずなのだ。
(まったく、なんなのかしら?)
唯一思いつくことと言えば小林の存在くらいである。
なにかあったのか。
しかし、それもどうかと思う。
土曜日に行われた試合。その結果や模様について、新聞部はまたもや臨時新聞を発行し、前回同様、部員たちは校門前での販売に朝から精を出していた。その中に小林もいて、幸は話しをしたのである。
「幸先輩、おはよーございますっ!」
「おはよう。新しい新聞できたの?」
「はい、売れ行きも好調です。先輩も一部どーぞ」
相変わらず、明るく元気な小林である。いつもと全く変わりなく、志乃となにか特別なことがあったようには見えなかった。
その時に手渡された新聞は、今、幸の手の中にある。
号外なので一枚しかないが、それでも手を抜かずによく作られている。前回と違ってカラーではないが、それでもやはり大きく写真が掲載されていて、勝利の瞬間、部員全員が抱き合って喜び合っている姿が、とても清々しく映しだされている。
「うーん、分からないわ」
ほんの少しずれた眼鏡を中指で直しながら、幸は小さく呟いた。チラリと視線を志乃に向けると、相変わらず無気力な顔で志乃は席に座っている。
まあ、そんな風に、親友に心配をかけながら志乃がなにを考えているかと言うと、やっぱり小林のことを考えていたのである。
病院のロビーでの出来事。どうしてあの時、自分は目を閉じてしまったのだろう。その場の雰囲気に飲まれてしまったからだろうか。
少しずつ近づいてきた小林の顔。すごくドキドキした。キスされると思った瞬間、目を閉じていた。
はっきり言って受け入れOK、やる気満々になっていた。
だから、小林がキスしてくれずに立ち上がった時、
「な、なんで――――っ?!」
と、絶叫しそうになるほどガッカリしてしまったのだ。歯軋りしながら地団駄を踏みたくなってしまった。
あれは一体なんだったんだろう?
家に帰ってからも、ずっとその時のことが頭から離れずに、志乃は部屋の中をうろうろしまくった。
思い出すだけで、胸がドキドキ高鳴ってしまう。
自分の肩をつかむ小林。熱い目。
唇にかかる小林の息。
目を閉じた自分。
そのどれを思い出しても、なぜだかキャーッと絶叫してしまいたくなる。
「あたし、小林くんのことが好きなの?」
自分自身に問うてみる。
分からない。
分からないけど、すごく小林に会いたいと思うのだ。
今日は朝から、何度も窓の外をのぞき見たり、移動教室の時にもキョロキョロ周りに目を配った。もしかしたら、偶然近くに小林がいるかもしれない。
「誰か探してるの?」
志乃の態度を不振に思った幸にそう聞かれた時、顔を真っ赤にして首を振った。
「う、ううん、違う違う。なんでもないのっ!」
「そお?」
疑わしげな顔の幸に引きつった笑いを見せながらも、志乃の目は小林を探し続ける。
どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。どうして、追い掛け回すのやめてくれ、なんて言ってしまったんだろう。
あんなことを言わなければ、小林は志乃に会いに来てくれただろうか?
後悔の念ばかりが募ってしまう。
そして、そんな志乃の気持ちが天に届いたのか、昼休みになってすぐ、廊下の窓から何気なく中庭を見下ろした志乃は、そこに小林がいるのに気がついた。
それだけで、すごく嬉しい気持ちになれた。
どうやら小林は、中庭の一角に設けられた売店に用があるらしい。
志乃はそわそわした。偶然を装って、自分も中庭に行って小林に声をかけようかと思った。でも、そんなことするなんてバカみたいで、ちょっとためらってしまう。
(あー、もう、どうしよう)
考えながらも小林を目で追っていた志乃は、ふと、動きをとめた。
小林が女の子と楽しそうに話をしている。すぐに志乃は小林から目を反らした。
なんだか………ものすごく嫌な気分になってしまったのだ。
そのまま急いで教室に戻ると、志乃はよろよろと自分の席に座り込んだ。
多分きっと、あの女の子はクラスメートかなにか、ただの友達なのだろうと思う。小林は人気者だ。男だけでなく、女の子にも友達は大勢いる。でも、それでも、小林が女の子と楽しそうに話しをしている姿を見るのは、すごく嫌だった。
それと同時に、みんなから人気のある小林のことを、なんだか誇らしく思ってもしまうのだ。
なんだか頭はもうグチャグチャで、放課後の部の練習にも、なんだか身が入らなかったくらいである。
「志乃さん、大丈夫ですか?」
「顔色悪いですよ」
「今日はもう帰ったら。試合前だし、今の内にできるだけ体を休めといたほうがいいよ」
後輩や同輩たちに心配され、練習も途中で家に帰ってしまったくらいである。しかし、家に帰ってからも、志乃はずっと小林のことばかり考えていた。
ベッドに横になり、天井を見ながら大きな溜息をつく。
バスケットの決勝戦は、今週の土曜日に行われる。こんなことで、頭や体を悩ませている場合ではないのだ。
そう言えば、エリの手術はその翌日、日曜日行われると小林が言っていた。
「うまくいってくれるといいんだけど」
病院からの帰り道、電車の中で小林は少し心配そう言った。小林がそんな顔をするのは珍しい。だから志乃は、少しでも小林を元気づけたくて言ったのだ。
「あたしもその日、病院に行ってもいい? エリちゃんのこと、応援してあげたいの」
「来てくれるのか? やったぁ、エリ、大喜びするよ。俺も嬉しいけど」
小林の元気に喜ぶ顔が見れて、志乃はホッとしたのである。
なんだか最近、小林の言動に振り回されているなぁと志乃は思う。小林がなにか言ったり笑ったり、元気なかったりするたびに、自分も怒ったり喜んだり、悲しんだりしてしまう。
「あーあ」
今日、何度目になるのか分からない溜息を、また志乃がついた時である。
窓ガラスに、なにかがコンと当たる音がして、志乃はベッドから体を起こした。志乃の部屋は二階にある。なんだろう、と不思議に思いながら窓を開けると、そのすぐ前の屋根の上に、くしゃくしゃに丸められた紙が落ちていた。
「ゴミ?」
首を傾げながら、志乃がその紙を屋根から拾い上げた時である。
「志乃さーん」
窓の下、庭の植え込みの向こうから自分を呼ぶ声が聞こえた。
「志乃さん」
「こ、小林くん?!」
志乃は驚いて目を丸くした。
自転車にまたがり、にっと笑って手を振る小林の姿に、志乃は我が目を疑った。幻を見ているのかと思って、目をゴシゴシこすった。心臓がドキドキいい始めて、頬がポーッと熱くなる。
「ど、どど、どうしたの、こんな所に?!」
「会いたくて来ちゃった」
「……………」
単純なその返事に、志乃は言葉をつまらせた。なにも言えなくなった。
なんでこうなんだろう。
なんで小林は、自分がすごく喜ぶことを、いとも簡単にしてしまえるのだろう。
なんだか自分の心が見透かされているような気がして、志乃は恥ずかしくなった。その反面、胸はこれ以上なくらいにトキメクのだ。
なにも言えず志乃が黙っていると、小林が心配そうに言った。
「やっぱ調子悪い? 練習途中で帰ったってバスケ部の人に聞いたから、俺心配になっちゃってさ。ごめんな、家にまで押しかけて」
「う、ううん、いいのよ」
慌てて志乃は首を振る。
「少し気分が悪かったけど、今はもうなんともないの」
「そっかぁ、よかった」
ホッとしたようにそう言うと、小林がまたいつもの元気な笑顔を見せた。
「俺さ、やっぱ、一日に一回は志乃さんの顔見ないと落ちつかないんだ。もうすっかり志乃さん中毒だからさ。もう病気だな、病気」
ははは、と小林は笑う。
「今さ、ちょっとエリの所に寄って来たんだけど、昨日のこと、すっごく喜んでたよ。それから今度の日曜日のことも。ありがとうな。そのお礼も言いたかったんだ」
「い、いいのよ、そんなお礼なんて。昨日も言ったけど、あたしもエリちゃんに会えて楽しかったんだから。手術の日のことは、あたしが勝手に応援しに行くだけだし」
「そうかもしれないけど、それでもエリは本当に喜んでいるんだ。だから一応、お礼言わせてよ。ありがとう、志乃さん」
「そ、そんな、ホントにいいのよ」
礼なんて言われると、返って心苦しくなってしまう。
「あたしが好きでやっているだけなんだから」
その志乃の言葉を聞いて、小林は深呼吸するように大きく息を吸った。
「ああ俺、なんか今、すっごく幸せ。俺の好きになった人が、とても優しくて思いやりのある人だってことがしみじみ分かって。志乃さんには分からないだろうなぁ。今俺が、どんなに幸せな気分なのか」
「い、いやぁね、小林くんたら。大袈裟なんだから。こんなの普通よ、普通」
「そういう謙虚なところも好き」
小林はにこっと笑った。
う、と志乃はまた言葉をつまらせる。なんと言ったらいいのか分からない。ただもう、とにかく嬉しくて、志乃は顔を真っ赤にした。それを小林に見られたくなくて、レースのカーテンで顔を隠す。ドックンドックン高鳴る胸を、そっと両手で押さえた。
なんでだろう。
どうして小林はそうなんだろう。自分をこんなに舞い上がらせるのだろう。
胸が幸せでいっぱいで、信じられないくらい幸せで、泣いてしまいそうになる。
自分も家を出て、小林の側に行こうかと志乃が思った時である。
「じゃあ俺、これで帰るわ」
あっさりと小林が言った。
えっ、と志乃は焦る。
「ち、ちょっと待って。あたしも下に降りて行くから」
「だめだめ、具合の悪い時は家の中でゆっくりしてなきゃ」
「でも、本当にもうなんでもないのよ」
「そうかもしれないけど、用心するにこしたことはないよ。志乃さん、試合前だし、土曜日までに体調を万全にしてなきゃな」
「まだ四日もあるから平気よ」
「だーめ」
どんなに引き止めようとしても、小林は笑顔で首を横に振る。
「じゃあ、また明日」
そして、そのまま自転車に乗って、さっさと帰っていってしまったのである。
あああ、と、志乃は小さくなっていく小林の後ろ姿に手を伸ばした。勿論、無駄な努力である。
心の中に、すごい消失感が残された。
もしかすると、また小林が戻って来るんじゃないかと期待して、志乃はしばらく窓の側で待ち続けた。しかし、小林は戻って来ない。
あきらめて窓をしめると、志乃は大きく溜息をついた。
なにやってるんだろう、と自分が情けなくなる。
追われているのは自分のはずだった。小林から追いかけられ、それから逃げるのは自分のほうだったはずだ。それがいつの間にか、立場が逆転してしまっている。
あんな二歳も年下の、つい数ヶ月前は中学生だった男の子に、自分は振り回されている。
小林の態度は今も昔も全く変わっていない。いつでも志乃を好きだと言い続けるし、それを態度でも表してくれている。
変わってしまったのは、自分の方なのだ。
この時初めて、志乃は自分が小林を好きになっていることを自覚したのである。
小林のことを考えるだけで、胸が熱くなる。
さっきの会話の内容や、好きだと言ってもらったことを思い出すだけで、こんなにも満ち足りた気持ちになれる。
「でも、だからどうしろって言うのよ」
自分しかいない部屋の中で、誰にともなく志乃は呟いた。
今さら好きになりました、なんてとても言えない。
これまで散々迷惑がって嫌がって、小林のことを邪険にきたのだ。今さら、どんな顔して「好きになりました」なんて言える?
今となっては、病院のロビーでの出来事が心から悔やまれる。
あの時、小林がキスしてくれていたら、その場の雰囲気と勢いで、好きだと言えたかもしれない。
「もうっ、なんでキスしてくれなかったのよ!」
両手を握り締めて、志乃は絶叫した。
きっかけが必要なのだ。
小林に、志乃が好きだと気持ちを打ちあけるためのきっかけが、なにか必要なのだ。
でも、きっかけって?
その晩、志乃は眠れずに悶々と悩みながら夜を明かした。そして、あたしはなんてバカなんだろうと、心底自分が嫌になった。
つづく
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