桜ヶ丘交響曲第1番「天使」



      9


 待ち合わせの場所、家から一番近い最寄の駅の前で、志乃はそわそわしながら小林が来るのを待っていた。
 Tシャツにジーパンと、特にオシャレをすることなくラフなカッコウの志乃である。しかし、それでもやはり通り行く人たちたちは、チラチラと志乃に視線を向けて感嘆の息を吐く。それくらい、志乃は際立って美しい。
 慣れているのでそんな視線を気にもとめず、志乃はずっと時計とにらめっこをしていた。
 約束の時間は二時。まだ二十分もある。
「ちょっと早く来すぎちゃったかしら?」
 肩をすくめて息を吐くと、駅前を足早に行きかう人たちの足元を見ながら、志乃はボンヤリと思い出していた。
 昨日のバスケットの準決勝試合。
 会場は、もう前代未聞と言えるくらいすごいことになっていた。
 県の保有する、バスケットコートが四面分ほどの広さのある総合体育館には、二階全面に応援する人のためのシートが設けられている。その一角、桜ヶ丘高等部を応援するために集まった人間の数は、他校のそれにくらべると、もう考えられないくらい群を抜いて多かった。
 とにかく、すごい数である。
 その半数以上がおそろいのハッピやハチマキを身にまとっていて、しかも、それがショッキングピンクなものだから、もう毒々しいほどに人目を惹く。
「桜と言えばピンク。でも薄い色だと寂しいからこの色にしたんだ。どうせやるなら、思いっきりハデに目立つた方がいいだろ?」
 人から理由を聞かれるたび、生徒会長木本は胸を張ってそう答えた。木本も応援のため、会場に足を運んでいたのである。
 応援席に座るのは、尾崎を筆頭とする応援団員と、木本、坂本を含む数人の生徒会役員、商店街組合のおじちゃんおばちゃん、ハッピやハチマキを縫った手芸部、個人的に応援にきた桜ヶ丘の学生たち、それに、吹奏楽部の面々である。少し遅れて、数人の学園経営陣を引き連れた理事長も姿を現した。
 ここは甲子園か、とツッコミを入れたくなるくらいの、気合の入り方と賑わい振りである。
 そして、志乃たち桜ヶ丘バスケットチームがコートに姿を現すと、もう歓声やら口笛やら拍手やら太鼓の音やらの大声援が、その一角から鳴り響いたのである。さすがの志乃たちも、そのあまりの場違いな熱狂振りに、ちょっと引きつった笑いを見せたほどだ。
 しかし、やはり嬉しいし心強い。みんなが自分たちを応援してくれる。そう思うと、チームの面々はやる気を体中にみなぎらせた。
 円陣を組んで、みんなで互いに声をかけ合う。
「がんばらなきゃ!」
「みんな、あんなに応援してくれてるよ」
「これを三年生の最後の試合にしないように!」
「自分たちの持ってる力、最大限に引き出してがんばりましょう。みんなのため、なにより自分たちのために!」
 最後に志乃がそう言うと、みんな表情を引き締めて大きく声を上げた。
 そして、試合は始まったのである。
 応援団員は団長尾崎の指揮に従い、太鼓に合わせて声を張り上げる。吹奏楽部も、練習の成果をここぞとばかりに発揮する。それ以外の学生たちも応援団に合わせて掛け声をかけ、商店街組合の面々は、それぞれ手を突き上げて個々に声援を送る。
 袴姿の理事長も、たすきをかけ、額には日の丸のハチマキを巻き、両手に扇子を持ってギャーギャー言いながら変な舞を踊っている。
 みんながそれぞれに、心からの声援を志乃たちに送った。
 そんなのを見せられると、相手チームのテンションは嫌でも下がってしまう。なんだか動きはギクシャクしてぎこちないし、小さなミスも連発する。
 それに比べて桜ヶ丘チームは、みんなの声援に後押しされ、のびのびと力強く、機敏に俊敏にコート内を走り回った。
 時間が進むたびに、点差はどんどん離れていく。もちろん、桜ヶ丘チームの先行する形で。
 そして、審判が試合終了のホイッスルを吹いた時、桜ヶ丘応援集団から盛大な歓声と共に、大量の紙吹雪が会場中に巻き散らかされた。
 桜ヶ丘バスケットチームの圧勝である。
 志乃たちは抱き合って勝利を喜び、自分たちを応援してくれたみんなに、満面の笑顔で手を振った。こんなに気持ちのいい勝利は初めてだった。
「やったな!」
 小林と尾崎も、上気した顔で手を鳴らし合った。その隣では木本も満足そうにうなずいている。
 その後、巻き散らかした紙吹雪のことを大会関係者からこっびどく叱られたり、興奮し過ぎた高齢の理事長が、酸欠と血圧の上がりすぎからぶっ倒れ、あわや救急車の出動依頼をしそうになるなどの事件もあったが、それ以外はみんな、かなり、いやもう大満足と感動の一日となった。
 なんだか、昨日のことを思い出すだけで、今でも志乃の胸はドキドキ高鳴ってしまう。それほど、昨日は楽しくて、嬉しくて、心が感動で震えるような一日だった。
 そして、その次の日である日曜日の今日、約束していた小林とのデートのため、志乃は待ち合わせ場所に立っているのである。
 やがて、待ち合わせ時間の五分前になった時、小林がやって来た。
「志乃さーん」
 いいお天気の中、笑顔で手を振る小林の姿に、志乃は一瞬ドキッとする。
「早いね、ずい分待った?」
「と、とんでもない。あたしも今来たところよ!」
 かなり早く来て、ずっと小林が来るのを待っていたことなど、知られたく志乃である。
 志乃の言葉にホッとした顔をした小林が、駅を指差して言った。
「今から行くところ、電車に乗らなきゃならないんだ」
「ふーん?」
 小林に促されるまま、志乃は駅の構内へと入った。
 一体、どこに連れて行くつもりだろうと思う。でも、あえてそれを聞くことはしなかった。全部任せると言ったのだ。信用して、ついて行ってみようと思う。
 電車の中でも、二人の間で話題に事欠くことはなかった。そもそも小林は話し上手だし、昨日のことを話していると、時間がいくらあっても足りないくらいだった。
 そうやって楽しく会話しながら二人は電車を降り、駅を出て、気がつくとある建物の前に立っていたのである。
 その建物を見て、志乃はちょっと驚いた顔をする。
「小林くん、ここって………」
 戸惑い顔で見上げると、小林は小さく笑った。
「うん、実はここなんだ。志乃さんを連れて来たかった場所」
 そこは病院だった。入院設備も整っていると思われる、大きくて立派な病院。
「ここの入院患者で、志乃さんに会ってもらいたい人がいる」
「え、で、でも………」
 入院患者ということは、病気か怪我をしている人だろう。しかも、おそらく志乃の会ったことのない人。
 そんな人に会って欲しいといきなり言われても、志乃は途方にくれるばかりである。しかし、ここまで来といて会いたくないとも言えず、志乃は困った顔で小林の後ろを歩き続けた。
「ねえ、会ってもらいたい人って、誰?」
 エレベータの中でそう聞くと、もう少しで着くから、と言って小林は教えてくれなかった。志乃の不安は増すばかりである。
 そうこうしている内、エレベータは目的の階に着き、二人はそれを降りて廊下を歩いた。そして、ある個室の前に来た時、小林は足をとめた。
「ここなんだ」
 そう言って、ドアを開ける。
「ようっ、エリ!」
 明るくそう言って、小林は室内に入った。その後ろから続いて入室した志乃は、ベッドの上にいる人物を見て、思わず目を見張った。枕を背もたれ代わりにし、ベッドの上に起き上がって座っているのは、小学校低学年くらいの少女である。
 エリと呼ばれた、その見るからに病弱そうな色白の少女は、小林の姿を見ると、嬉しそうに手に持っていた本を横に置いた。
「おにいちゃん、今日も来てくれたの?」
 喜びの声を上げたエリは、小林の後ろからのぞく志乃の顔見て、その大きな目をくりくりさせた。
「あっ、天使のおねえちゃんだ! おにいちゃん、天使のおねえちゃんを連れてきてくれたの?」
「そう、お願いして来てもらったんだ」
 小林はベッドの脇に来ると、エリの頭をポンと叩いた。
「どうだ、嬉しいか?」
「うん、嬉しい! ありがとう、おにいちゃん」
 状況が分からずオドオドしていた志乃に、小林が言った。
「志乃さん、こいつ俺の妹、エリって言うんだ。ほら、エリ、ちゃんとご挨拶しろ」
「初めまして、天使のおねえちゃん。うわぁ、おねえちゃん、本当にキレイ。本物の天使さまみたい!」
 目をキラキラさせて自分を見ているエリに、志乃は戸惑いながらも笑顔を見せた。
「こんにちは、エリちゃん」
「こいつさ、志乃さんのすっごいファンなんだ。な、エリ?」
「うん!」
 エリは笑顔で大きくうなずく。
「本当に会えるなんて、ウソみたい!」
 どう答えたらいいのか分からず、とりあえずニッコリ笑った志乃は、エリの背後にある壁に貼られた、見覚えのある紙に気付いた。それは、以前に小林が作って販売した、あの志乃のカラー写真付きの校内新聞だった。壁には他にも色々な物が貼ってあって、その大半が天使の絵で、その中に志乃の写真が数枚混ざっている。
 どういうことだろう、と志乃が首を傾げていると、それに気付いた小林が笑顔で言った。
「こいつ、昔っから天使が大好きでさ、以前に俺が撮った取材用の志乃さんの写真見せたら、このおねえちゃん天使みたい、って大喜びしちゃって。自分用に俺が隠し持ってた志乃さんの写真、全部とられちゃったんだ」
「だって、すっごくキレイなんだもん。………ごめんね、おねえちゃん。勝手に写真貼ったりして、怒ってる?」
 首をすくめたまま上目使いで自分を見るエリに、志乃は笑顔で首を振った。
「ううん、いいのよ。それより、どうしてエリちゃんは天使さまが好きなの?」
「キレイだから!」
 エリは即答する。
「エリ、キレイなものはみんな大好き。キレイなもの見てると、それだけで元気でてくるの。とくに天使さまは、キレイなだけじゃなくて、優しそうで、温かそうだから、キレイなものの中でも一番好き」
「ふうーん、そっかぁ」
「だから、おねえちゃんのことも大好き。いつも写真見て思ってたんだ、一度でいいから会ってみたいって。だから、今日はもう本当に幸せ。来てくれてありがとう、おねえちゃん」
 ペコリと頭を下げるエリを見て、志乃は微笑んだ。
「こちらこそ。あたしもエリちゃんに会えて、とっても幸せよ」
 そう言ってあげると、エリは嬉しそうに顔を赤らめた。
 そんな二人の会話を隣でにこにこ見ていた小林は、立ち上がって志乃に言った。
「俺、売店で飲み物でも買ってくる。エリのこと、お願いしてもいい?」
「ええ、もちろんよ」
 志乃の返事を聞いて、小林は安心したように病室を出て行った。
 小林が出て行ったことを、首を伸ばして確認したエリが、他に誰もいない個室なのに、口元に手を当てて小声でささやいた。
「ウチのおにいちゃん、おねえちゃんのことが好きなんだって。知ってた?」
 そして、おかしそうに笑う。
「でも、全然好きになってもらえないって。だからあたし、いつも言ってやるの。天使さまに好きになってもらうなんて、そんな簡単にいくわけないでしょ、って」
「………そっか。おにいちゃんは毎日お見舞いに来てくれるの?」
「うん、ほとんど毎日。この前来なかったのは、この新聞作った時。でも、次の日にこれもってきてくれたから、許してあげたの」
 エリは自分の後ろの壁を振り返り、貼られてある新聞を見た。
「本当にキレイ………」
 そう呟くと、今度は志乃を見て言った。
「でも、本物のおねえちゃんの方がもっとキレイ。あたしもいつか、おねえちゃんみたいにキレイになれるかな?」
「あたしなんかより、ずっとキレイになれるわよ」
「そしたら、おにいちゃんみたいなステキな彼氏ができる?」
「おにいちゃんよりもっとステキで、もっとかっこいい彼氏ができるわよ、きっと」
 志乃が片目をつぶってそう言うと、エリは嬉しそうに笑った。そんなかわいらしいエリを見て、志乃も笑った。
 ちょうどその時、ペットボトルを抱えた小林が戻ってきた。
「お待たせー。あれ、なんだか楽しそうだなぁ」
 二人を見て肩をすくめる。
「いいなぁ、エリは。すぐに志乃さんと仲良くなれて。俺なんて、なかなか笑いかけてももらえないのに」
 すねたよな口調の小林に、志乃は言う。
「だって、あたしたち女の子同士ですものねー。男の子は下心があるからダメなのよ」
「そうそう、そういう悪い心、天使さまにはちゃーんと分かっちゃうんだからぁ」
 志乃と目を合わせて笑ってから、ちょっとバカにするような横目でエリは小林を見た。その視線を受けて、小林が肩をすくめながら息を吐く。
「あーあ、どうしてこの健気な男心が理解できないかなぁ。いいですよ、どうせ下心たっぷりですよ。仕方ないだろう、それが男ってもんなんだから」
「いやーね、すぐに開き直って。これだから、男って嫌なのよ。ねー、エリちゃん?」
「ホントホント」
 そんな風に、笑いながら楽しく話をしている内に、あっと言う間に時間は過ぎ、看護婦がやって来てエリの昼寝の時間を告げた。
「また遊びに来るね」
 志乃がそう言うと、名残惜しそうな顔をしていたエリは、嬉しそうに笑って手を振った。
「昼寝が終わる頃、今度はオフクロが来ると思うから」
 小林の言葉に、志乃はホッとした。エリが目を覚ました時、そばに誰もいなかったらかわいそうだと思っていたのだ。
 病室を出た二人はロビーに出ると、そこにある椅子に隣り合って座った。今日は日曜日なので、外来診療をしていない病院内には、ほとんど人気がない。ロビーにいるのも、小林と志乃の二人だけである。
「ありがとな、志乃さん」
 椅子に腰を下ろすと、すぐに小林が言った。
「あいつ、本当に志乃さんに会いたがってたんだ。急にこんな所に連れてきたりして、ビックリしただろ?」
「最初はね。でも、明るくて素直でかわいい子だったから、あたしも楽しかったわ」
「そう言ってもらえると、俺も助かるよ」
 ジーパンの両ポケットに親指だけ入れた小林は、しばらく天井を見ながら物思いにふけっていた。そして、呟くように言った。
「エリさ、生まれつき心臓に欠陥があって、ずっと入退院を繰り返してるんだ」
「……………そう」
「この病院に小児心臓治療の名医がいるって聞いて、俺たち今年の春に引っ越してきた。と言っても、オヤジは会社があるから前の家で一人暮らししてんだけど。ま、言ってみれば単身赴任みたいなもん」
「大変なのね」
 小林はにこっと笑う。
「おかげで俺は志乃さんに会えたから、すごくラッキーだったけどね。エリも同じ。志乃さんの写真見て、いつも勇気づけられてる」
「そんな……あたしなんて、なにも………」
 うつむいてしまった志乃に、小林は言った。
「俺が前に言ったこと、覚えてるかな。キレイだってことは、ただそれだけで価値があるんだって、俺言ったよな。 覚えてる?」
「ええ……覚えてるわ」
「本当にそうなんだ。俺だってそうだし、ファンクラブのみんなだって、桜ヶ丘の他の生徒だって、志乃さん見るだけで幸せになれるんだ。エリもそう。平気なフリしてるけど、やっぱり辛いことたくさんあると思う。学校にだって行けないし、友達も作れない。でも、志乃さんの写真見て、キレイな志乃さんを見て、いつも勇気づけられてがんばってる」
「……………」
「志乃さん、この前言ったよな。キレイに生まれていいことなんかなかったって。キレイになんて生まれたくなかったって。でも、志乃さんがキレイに生まれてきてくれたおかげで、たくさんの人が幸せな気持ちになれてるんだぜ? これって、すごいことだと思わない?」
 小林の言っていることの意味を、志乃は黙って考えた。そんな志乃を、小林は静かに見つめる。そして言った。
「そのことを、志乃さんに教えてあげたかった。みんなが志乃さんのおかげで幸せになってるってこと、教えてあげたかったんだ」
「………それで、あたしをここに連れてきたの? それを教えてくれるために?」
 テレくさそうに小林は頭をかく。
「それだけじゃないけどね。エリは本当に志乃さんに会いたがってたし。あいつ、もうすぐ手術受けるんだ。それをすごく怖がってて。でも、今日志乃さんに会えていっぱい勇気もらったから、きっとがんばれるんじゃないかな。そしてそんなエリを見て、今度は俺がいっぱい元気をもらうんだ」
「小林くんがエリちゃんに元気を?」
 小林は大きくうなずく。
「エリはあんなに小さいのに、病気と闘ってがんばってる。俺もがんばらなきゃって、そう思うんだ。俺は健康だし、やりたいと思えばなんでもできる。普通の人にとっては当たり前のことかもしれないけど、でも健康だってことは、とても恵まれていることだって俺は知ってる。エリがそばにいたからな」
 そして、小林は明るく笑った。
「だから俺は、やりたいことをやれないエリの代わりに、自分にできることはなんだって一生懸命やるって決めてるんだ。勉強だってスポーツだって、それに」
 言葉を切って、小林は志乃を見つめた。
「人を好きになることだって」
「小林くん……」
 志乃を見る小林の視線に熱がこもった。それに気付いた志乃は、赤くなってうつむく。隣り合って座る二人の肩は、ほんの少しだけ触れ合っていて、その部分が、とても熱く志乃には感じられた。
 ふと顔を上げると、小林はまだ熱のこもった目で志乃を見ていた。その顔が、少しずつ志乃に近づいてくる。
「志乃さん、好きだ」
 その言葉に、志乃の心と体が熱くなる。小林の視線から目を反らすことができず、そして、胸は早鐘のように高鳴るのだ。小林の手が、優しく志乃の肩をつかんだ。小林の顔が、さらに志乃に近づく。
 二人の唇が、あと数ミリで触れ合いそうになった時、志乃はそっと目を閉じた。そして、小林も同じように目を閉じた。かと思うと、突然、ガクッと下を向いて大きく息を吐いたのである。
「だめだ、だめだ!」
 それからすくっと立ち上がると、ぶんぶんと勢いよく首を振った。
 驚いたのは志乃である。
「こ、小林くん……?」
 がーっと頭をかきむしる小林を、志乃は目を点にして見た。そんな呆然とした志乃の前で、小林は手を合わせ、頭を下げる。
「ごめん、志乃さん。俺、こんな火事場泥棒みたいなこと、するつもりじゃなかったんだ。エリに会った志乃さんは、きっと俺に同情してる。それでキスしてもらっても、こんなのは違う!」
 まくし立てるようにそう言うと、小林はひざまずき、志乃の手を両手で握った。
「俺、ちゃんとがんばるから。志乃さんが俺のこと好きになってくれるよう、ちゃんとがんばるから。そして………」
 相変わらず目を点にしている志乃の手に、小林はそっと口づけた。
「そして、志乃さんが俺のことを好きになってくれたら、その時にまたキスに挑戦する。だから、さっきのは忘れてくれ。頼む! なっ、忘れるって言ってくれ! お願いだ!!」
「え、ええ、分かったわ、忘れる………」
 なんだかよく分からずに、小林の勢いに飲まれて志乃はうなずいた。それを見て、ホッとしたように小林が笑顔になる。
「よ、よかったー。ありがとう、志乃さん! それじゃ、家まで送ってくよ」
 立ち上がった小林は、握っていた手を引っ張って志乃を立ち上がらせた。小林の言葉に、志乃はまた驚く。
「今日のデートって、これだけ?!」
 時刻は夕方の三時ちょっと過ぎ。まだまだ真夏の太陽は高い位置に輝いている。病院を出たら、またどこか違う所、今度こそデートらしい場所に行くと志乃は思っていたのだ。
 しかし小林は、志乃の期待を裏切って大きくうなずいた。
「うん。本物のデートも、志乃さんが俺を好きになってくれるまでガマンする。俺ってエライだろ? さ、行こう」
 自分の手を握ったまま、ずんずん歩いていく小林の背中を見ながら、志乃は舌打ちしたい気分になった。
 なぜだか分からないけど、そんな気分になった。




     つづく




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