桜ヶ丘交響曲第1番「天使」



      8


 志乃の家は、桜ヶ丘駅から電車で一区間乗った駅の近くにある。少し時間はかかるが、歩いて行けない距離ではない。
 夏の夕方六時代と言えば、少しは薄暗くなってきているものの、まだまだ充分に明るい時間帯である。小林は自転車を手で引き、志乃はそのすぐ隣を寄り添うように歩いた。
 本当に驚いた。
 あのサラリーマンの男、小川洋介に四年ぶりに道端で出会ってしまったことにも驚いたが、それを突然現れた小林が自転車で吹っ飛ばし、目の前で洋介の体が宙を浮いたのにも驚いた。
 まだ少し、胸がドキドキいっている。
 そして小林は、志乃に洋介のことなど少しも詮索しようとせず、会えなかったこの数日間、自分がなにをしていて、どんな楽しいことがあったかを、面白おかしく話していた。
「それでさ、せっかく志乃さんに会いに行こうと思っていたのに、坂本に拉致されてミシンがけさせられたんだ」
「ミシン? どうして?」
「応援団のハチマキ縫うため。手芸部の部長さんってのも、ちょっとひとクセある人でさぁ、けっこう美人なんだけど、怒ると怖くて。もう、参ったよ。俺、ミシンかけたのなんて初めてだったし、でも坂本はミシン上手でさ、俺のことバカにしてイジメるんだ」
「ふふふ。そっか、色々大変だったわね」
 笑いながら志乃は思う。
 とても不思議だ。いつもそうなのだが、小林と話していると、ただそれだけで楽しい気分になってくる。洋介と再会したことのショックが、嘘のように薄れていく。
 志乃は背が高く、身長は一七〇センチ以上あるのだが、一八〇センチ以上の身長がある小林の横を歩いていると、なんだか自分が、背の低い小さな女の子になったような気にさせられる。そして、なんだか守られているような気がして、とても安心するのだ。
 それだけじゃない。小林に久しぶりに会えたことを、自分がとても喜んでいることに志乃は気付いていた。
 小林の話に相槌を打ち、笑いながら、志乃は考える。
 どうして小林は、洋介のことをなにも聞いてこないのだろう。まるで、さっきの志乃と洋介のイザコザなんて、見ていないかのように小林は振舞う。
 小林が過去の事情を質問してこないことにはホッとするが、反面、黙っていることが申しわけないような気にもなってくる。

 志乃と洋介が出会ったのは、志乃が中学二年生、洋介が大学四年生のことだった。

「えー、家庭教師?!」
 驚く志乃をよそに、母親はにっこりと満面の笑みで言った。
「そう、知り合いの息子さんなんだけどね、とっても頭のいい子らしいのよ。W大学の学生さんで、アルバイトを探しているんですって。聞いた話だと、カッコイイらしいわよ」
「で、でも、あたし、家庭教師頼むほど頭悪くないわよ。そりゃ、よくもないけど」
 志乃の成績は中の中くらいである。勉強が特別苦手というわけでもないが、もちろん好きではない。それに、中学生から家庭教師をつけて勉強するなんて、なんのために桜ヶ丘学園に入学したのか分からない。
 志乃が桜ヶ丘に入学したのは、同じく桜ヶ丘出身の母親の希望もあったが、一度入学したら、ほぼ大学まではエスカレーター式で上がっていける桜ヶ丘のシステムを、志乃が気に入ったからだ。
 それなのに、家庭教師を雇ってまで勉強しなければならないなんて。
 しかし、結局母親に逆らうこともできず、家庭教師はやってきた。
「はじめまして、よろしくね、志乃ちゃん」
 そうやって現れた、ちょっとオシャレな感じのする優しそうな笑顔の学生が、小川洋介だった。
「こ、こちらこそ。よろしくお願いします」
 頬を赤く染めて、志乃は慌ててペコリと頭を下げた。
 志乃には兄はいない。イトコたちはみな、志乃より年下ばかりだ。だから志乃にとって、洋介は初めて接する父親や教師以外の年上の男性だった。それじゃなくても、志乃は人気のあるわりに、あまり男の子との関わりを持ったことがない。
 洋介が志乃の家に来るのは週に二日。よく知らない異性と狭い部屋で二人きりになることに、最初の二週間くらいは志乃もかなり緊張した。しかし、気さくで優しい洋介の人柄に安心した志乃は、いつの間にか冗談まじりの楽しい授業ができるようになっていった。
「志乃ちゃんは賢いね。前回教えたこと、ちゃんと覚えているし理解もしているもんね」
「そ、そんなこと………先生の教え方が上手だからよ」
 褒められて気恥ずかしくなった志乃は、顔を真っ赤にしてうつむいた。そんな志乃を見て、洋介はくすくす笑う。そして、志乃の頭をくしゃっとなでた。
「志乃ちゃんは中学生とは思えないほどキレイでかわいいけど、そういう謙虚なところが俺は好きだなぁ」
 志乃は幸せいっぱいだった。
 本当のことを言うと、洋介に教えてもらった問題やなんかは、もうそれこそ必死になって勉強していたのだ。せっかく教えてくれている洋介のために。それと、洋介にバカだと思われたくなかったから。
 大人で優しくてカッコイイ洋介。
「俺たち付き合っちゃおうか?」
 洋介からそんなことを言われたのは、家庭教師の授業が始まって三ヶ月ほどたった時である。もちろん志乃は、目を輝かせてそれに頷いた。もうずっと前から、志乃は洋介のことが好きだった。
 付き合う、とは言っても、大学四年の洋介は卒論やらなんやらで忙しく、そう頻繁にデートできたわけではない。せいぜい月に一度か二度くらいだ。それでも志乃は嬉しかった。
「今度の日曜日はデートできるよ。思いっきりオシャレしてきてね。それと、できるだけ大人っぽいカッコウをしてきてくれると嬉しいな」
 デートする前の授業の時など、洋介はよくそう言った。大学四年の洋介と中学二年の志乃が付き合っているのだから、周囲の人間から変な目で見られてしまう可能性はある。だから、洋介が志乃に大人っぽいカッコウを望むのは理解できたし、言われなくても、志乃は可能な限りのオシャレをするつもりでいた。
 そして、そんなオシャレをした志乃は、道を歩けば誰もが振り返るほど美しかった。
 身長はすでの一六〇センチ以上あったし、もともと大人っぽい顔立ちと雰囲気を持っている志乃は、高校生に見えるのは当たり前のこと、大学生と言ってもおかしくないくらいだった。
「うわぁ、志乃ちゃん、本当にキレイだよ!」
 惜しみない称賛の言葉をくれる洋介に、いつも志乃は顔を赤らめた。
 洋介のことが、本当に好きだった。
 二人が付き合い始めて二ヶ月ほど経った日のことである。
 学校からの帰り道、志乃は偶然、一人で通りを歩く洋介の姿を見かけた。
 こっそりと後をつけた。急に声をかけてビックリさせようと思ったのだ。
 やがて洋介は喫茶店に入った。後を追ってその喫茶店に入った志乃は、ちょっとガッカリして息を吐いた。
 三人の大学生が座るボックス席に、洋介は腰を下ろしたのだ。どうやら友達と待ち合わせだったらしい。これじゃ、声をかけられない。
 少し迷った挙句、志乃は洋介たちの座るボックス席の、すぐ後ろの席にこっそり座った。大学生が友達同士でどんな話をしているのか、ちょっと興味が沸いたのだ。
 やってきたウェイトレスに、小声でオレンジジュースを注文していると、洋介の声が聞こえてきた。
「もう、本当にキレイな子なんだよね」
 上機嫌の洋介の頭を、隣の友達がパシンとはたいた。
「なにノロケてんだよ」
「だって、すごいんだぜ。あんなキレイな子、めったにお目にかかれないよ」
「俺見た。先々週の日曜日、おまえらデートしてただろう。いやー、ホント、びっくりしたよ。芸能界でもめったにいないくらいキレイな子だったよ。回りにいた人たち、みんなあの子のこと見てたぜ?」
 正面に座っている小太りの男子学生が、少し興奮気味に言った。
「だろー?」
 鼻高々、といった感じで洋介は笑う。
 どうやら洋介は、志乃のことをみんなに自慢しているらしい。
 少し恥ずかしくもあったが、でも志乃は嬉しかった。あんな風に友達に自慢してもらえて、これで嬉しくならないはずがない。
「もうキスくらいしたのか?」
 斜め向かいに座る男子学生が、ニヤニヤしながら洋介に言った。洋介は肩をすくめる。
「バーカ、そんなのするワケないだろう? 相手は中学生だぞ?」
「えー、俺ならすぐにでもしちゃうけどな。最近の中学生は発育もいいし」
 聞いていて、志乃は耳まで真っ赤になる。
 そう、確かにこれまで洋介とキスしたことはない。洋介は大人で優しい。だから、きっと幼い自分に気を使ってくれているのだろうと、志乃は思っていた。
 そのことが今はっきりと分かった。志乃心は温かい気持ちでいっぱいになった。やっぱり洋介は優しくて、とても思いやりのある人なのだ。
 これ以上盗み聞きするのは悪い。
 来た時と同じように、こっそり店を出るために志乃が静かに席を立った時である。
「キスなんてしたら、完全に浮気になるじゃないか。俺には雅美というれっきとした彼女がいるのに、それはマズイだろ?」
 そう言った洋介の言葉が耳に入り、志乃は体の動きをとめた。そして、青ざめた顔でもう一度席に座る。
(今、なんていったの? 彼女? 浮気? どういうこと?!)
 志乃がそばにいることなど知らない洋介は、悪びれる様子もなく陽気に話し続けている。
「確かにキレイな子だよ。でも、それだけなんだ。話していて面白みがあるわけでもなく、ただキレイなだけの子。あれが彼女じゃ退屈なだけだよ」
「そうかな? 俺はキレイなだけでも充分だと思うけど」
「いーや、だめ。よく言うだろう? 顔がキレイなのはさ、三日も見れば飽きるんだ。やっぱり長い付き合いをする彼女ってのはさ、頭の回転が速くてユーモアたっぷりの面白い子の方がいいよ。話も弾むしさ、一緒にいて楽しいし。だから俺は雅美が好きなんだ」
「それじゃ、どうして中学生の子に付き合おうなんて言ったんだよ?」
「そんなの決まってるよ。キレイな子は連れて歩くと気分がいいからさ」
 ニヤニヤ笑いながらそう言った洋介の言葉を耳にしたのと同時に、志乃はよろよろとレジに行って会計をすませると、急いで店を飛び出した。
 気分が悪いし、変な動悸がする。頭の中がグチャグチャで、なにも考えられない。
 家に帰り着くとすぐに、志乃は母親に家庭教師の解約を懇願した。そして、自分の部屋のベッドに潜り込むと、声を押し殺し、体を震わせて泣いた。
 それからである。自分の容姿を褒められることを、志乃が嫌がるようになったのは。バスケットを始めたのも、容姿以外に自分の誇れるものが欲しかったからだ。容姿とは関係なく、自分の実力だけで人に認められるなにかが欲しかったからだ。
 あれからすぐ、洋介には家庭教師をやめてもらった。何度か電話をもらったけど、一度として出ていない。二度と会いたくなかったし、声を聞くのも嫌だった。

 隣を歩く小林を見上げ、少し考えてから、思いつめたように志乃は言った。
「あ、あのね。さっきの男の人のことなんだけど………」
 あんなところを見られたのだ。過去、志乃と洋介の間になにかあったことくらい、小林は察しているはずだ。そのことを志乃に質問してこないのは、気を使ってくれているからに違いない。
 でも本当は、聞きたいと思っているに決まっている。
 事情を説明せず、このまま小林に洋介との過去を黙っていることは、なんだかとても悪いことのように志乃には思えた。
「あの人ね……実は昔、あたしの家庭教………」
「なにも言わなくていいよ」
 やっとのことで重い口を開いた志乃の言葉を、ケロリとした顔の小林が遮った。
「俺、あんまり興味ないんだ」
 そして、にっこり笑う。
 予想に反した小林の言葉に、志乃はちょっと驚いた。
「小林くん、で、でも………」
「志乃さん、俺にそのこと話したい? 話したいんだったら、いくらでも聞くけど」
「そ、それは………あまり話したくないけど、でも」
「だったらなにも言わなくていいよ。俺、あんまり興味ないんだ」
 そう言ってから、小林は少し考えるように首を傾げた。そして、ちょっとバツが悪そうに笑う。
「いや、違うな。やっぱり少しは興味ある。でも、志乃さんが話したくないんだったら、無理に話そうとしてくれなくていい」
 そして、歩いていた足を小林は止めた。そして、真っ直ぐに志乃を見る。志乃も足を止め、小林を見た。
「いつも言ってることだけど、俺、志乃さんのことが好きだ」
「………小林くん」
「だって、志乃さんはすっごくキレイだし、ステキだし、バスケット上手だし」
 キレイ、という言葉を聞いて、志乃は視線を背けた。その言葉を聞くと、昔傷ついた時の痛みが鋭く胸を突く。
「俺、思うんだ」
 そんな志乃を気にもとめずに小林は言う。
「みんな同じだけど、過去に色々なことがあって、それで今の志乃さんがいるんだ。過去にあったことの中のどれか一つでも欠けたら、きっと今の志乃さんとは違う志乃さんになってたと思う」
「……………」
「そう思うとさ、さっきの男と志乃さんとの間にあった昔のイザコザだって、俺にはありがたいことに思えるんだ。だって、それがなかったら、俺が好きになった今の志乃さんに会えなかったんだからさ」
 ごく自然にそんなことを言う小林に、志乃は視線を戻した。そして、驚いた顔をする。
 小林が言ったような考え方を、志乃は今までしたことがなかった。逆に、過去の嫌な記憶なんて、全部消えてしまえばいいと思っていたくらいだ。
 そんな志乃を見て、小林はにこりと笑った。
「だからさ、俺は志乃さんの過去にあまり興味がないんだ。いや、もちろん、好きな人のことは全部知りたいと思うよ? でも、知らないなら知らなくてもいいんだ。だって、俺が好きなのは今の志乃さんなんだから。昔のことなんて関係ない」
「……………」
「俺は今の志乃さんが好きなんだ」
 恥ずかしげもなく小林は言う。そして、いつものように明るい笑顔を見せた。
 どうしてだろう、小林の言葉に、志乃はなんだか泣きたくなった。
 そして、眩しいほどに明るく笑う小林の顔を見ていられず、志乃はまた視線をはずしてゆっくりと歩き出した。小林もそれに続く。
「あのね、小林くん」
「―――――うん?」
「前に言ったでしょう? キレイって言われるの好きじゃないって。キレイって言うの、やめてくれって」
 小林は、あははと笑った。
「そう言えば、そんなこと言ってたな。俺、守れてないけど」
 そんな小林を見て志乃は苦笑する。
「あたしね、キレイに生まれていいことなんてなかった。小さい頃は、そのせいでよく誘拐されかかったりしたし、小学生の頃は男の子にからかわれたり意地悪されたり………その…好きな人ができて、そのせいで傷つけられたこともある」
 小林は黙って志乃の言葉を聞いている。
「だから、あたしはキレイって言われるのが嫌い。キレイになんて生まれたくなかった。そしたら、こんな嫌な想いをすることなかったのに………」
「……………そっか」
 それからしばらく、小林は無言で歩いた。その横を、同じように無言で歩きながら、志乃は小林がなにを考えているのだろうと考えていた。志乃と一緒にいて、小林がこんなに長く無言でいたことなんて、これまでない。
 志乃はなんだか不安になった。特に理由があるわけではないけれど、小林に嫌われたんじゃないかと思った。そう思ったら、なぜだかとても不安になった。
「ねえ、志乃さん」
 しばらくすると、それまでの沈黙が嘘だったかのように、小林がいつものように明るく声をかけてきた。
「日曜日、暇? バスケットの練習あるのか?」
 今までの話とは全然関係ないことを急に聞かれて、志乃は少し面食らう。
「う、ううん」
 志乃はとまどいながら首を振った。
「明日の試合に勝っても負けても練習は休み。負けたら練習する必要ないし、勝っても体を休めなきゃならないから。でも、なんで?」
「だったらさ、俺とデートしよう?」
「え?」
「いや、して下さい、かな?」
 いたずらっぽく笑ったかと思うと、小林は倒れないように自転車を体で支え、手を合わせて頭を下げた。
「な、いいだろ? 頼むよ! お願いっ! な? お願いします、このとーりです! デートして!!」
 合わせた手を高く上げ、小林は何度も何度も頭を下げる。
 予想もしなかったことを言われて、志乃は目を丸くした。そのままボーッと小林を見つめる。そして、思わずプッと吹き出した。
 小林の仕草と表情、そして、わざとらしいほどの、いや、完璧なまでににわざとらしいその必死な言い方があまりにもおかしくて、思わず志乃は声を上げて笑った。
 それまでの緊張が、一瞬にして解けたように、笑いが体からあふれた。
「こ、小林くん、あなたって………ぷ」
 そして、おなかを抱えて笑う志乃を見て、小林は頬をプウとふくらませ、眉間にしわを寄せて抗議する。
「なんだよー、笑うなんてヒドイ。俺がこんなに必死に頼んでいるっていうのに」
「だって……だって小林くんってば、ふふ、おかしいんだもの」
「俺の顔が?! これでもけっこうモテる方だぞ!」
「いえ、そういう意味じゃなくて」
「じゃあ頭か?! 成績にも自信あるほうなんですけど」
「だから、そうじゃなくって」
 笑いがやっとおさまり、涙を指でぬぐいながら志乃は言った。
「いいわよ」
「なにが?」
「だから、日曜日のデートよ。いいわよ、してあげる」
「ほ、ホントか?!」
 志乃がうなずくと、小林はガッツポーズで飛び上がった。
「やった―――――っ!!!」
 その拍子に自転車がガシャンと倒れたが、そんなことにはお構いなく、小林は体中で喜びを表現するようにピョンピョン飛び跳ねている。
 そんな、楽しそうで嬉しそうで幸せそうな小林を見ているだけで、なんだか志乃は自分まで嬉しい気持ちになってきた。
 デートするなんて、何年ぶりのことだろう。洋介とああいう別れ方をして以来、志乃は誰とも付き合っていない。
 少し不安に思う気持ちもあったけど、でも、小林とだったら楽しいデートができそうな気がする。
 やっと落ちついて、それでもにっこにこの笑顔で倒れた自転車を起こした小林が、やっぱり超ご機嫌に弾んだ声で言った。
「俺さ、志乃さんに一緒に行ってもらいたい所があるんだ」
「一緒に行ってもらいたい所?」
 志乃がキョトンと瞬きをする。
「どこに行くの?」
「内緒。行ってからのお楽しみ。でも、楽しい所ってわけでもないんだけど、いいかな?」
 なんだかよく分からない小林の言葉に、志乃はちょっと頭を悩ませる。
 でも、まあ、いいんじゃないかと志乃は思った。小林が自分を、そう変な所に連れて行くとは思えない。
「いいわ、小林くんに全部任せる」
 小林は嬉しそうに笑った。そして、空を見上げる。
 さっきまでオレンジ色だった夕暮れの空は、今はもう、濃い紫色になってしまっていた。よく見ると、星も瞬き始めている。
「ずいぶん遅くなっちゃったな。明日は大切な試合だから、早くノンビリさせてあげないといけないのに」
「あら、大丈夫よ。いつもだったら、今練習が終わったくらいの時間だもの」
「うん、でもさ、やっぱり万全の体調で試合に望んでもらいたいし。よし、自転車で行こう。後ろに乗って」
 そう言うと、小林は自転車にまたがった。言われたままに志乃も後ろの荷台に腰掛ける。そして、小林の腰に手をまわした。
「よーし、いくぞー。あ、でも、そんなにとばさないよ。少しでも長く志乃さんといたいからさ」
「……………」
 それにはなにも答えず、志乃は小林の体にまわす手の力を、微かに強めた。そして、そっと小林の背中におでこをつける。
 それに気付いたのか気付かないのか、小林は自転車を走らせながら大きな声で言った。
「明日、がんばってくれよ! 俺も力いっぱい応援するからさー!」
「うん、ありがとー。あたし、がんばるからー!」
 風の音にかき消されないよう、志乃も大きな声で返事をした。
 家がもっと遠くにあればよかったのに、と、こっそりそんなことを思いながら。



     つづく




前ページへ 桜ヶ丘目次へ 次ページへ