恋の魔法にかかる時



 放課後の教室で、あたしは一人、学校の図書室で借りた本を読んでいた。
「それじゃ、急いで行ってくるから、待っててね、ユウ」
「うん、本読みながら待ってる」
 いつもなら、あたしは学校が終わるとすぐに、友達の亜矢と連れ立って下校してしまう。でも、この日の放課後、亜矢が担任から進路指導室に呼ばれたものだから、それを待つため、教室の自分の席に座って本を読んでいた。
 それにしても。
 この春、中学三年生になったばかりだと言うのに、担任はやたらと受験を意識させるようなことばかり言う。あたしも含めて、クラスのみんなが進路指導室に呼ばれることが、なんだか頻繁になってきた。
 あたしは本を読むのが好きだ。本を読んでいると、そういう煩わしいことを一瞬だけど忘れることができる。だから、あたしは小さい頃から、ずっと読書が好きだった。
 本の中に出てくる主人公の女の子たちは、みんなかわいくて素直で元気よく、彼女たちの活躍を読んでいると、なんだか自分まで明るく楽しい気持ちになってくる。
 どちらかと言うと、あたしは引っ込み思案で内気なタイプだ。友達は多い方ではなく、少ない友達と深く付き合う方。ちなみに、男の子と会話するなんて、一年にそう何度もある方じゃない。
 亜矢を待ちながら、しばらく本を読みふけっていたあたしは、ふと周りを見て、微かに顔を青ざめさせた。
 教室にはあたし以外、もう誰も残っていない。教室に自分一人だけになるなんて、こんなのって初めてだ。
 なんだか、見慣れた教室が、全然知らない場所に思えてくる。シーンとしたそこには、なんだか緊張感さえも漂っているような、不思議なムードに包まれていた。
 もうほとんどの人が下校してしまったのか、廊下を歩く人の気配もまるでない。
「……………」
 ちょっと恐くなってしまったあたしは、慌てて手に持った本に視線を落とした。本に熱中して、恐さを忘れようと思った。
 でも、やっぱり、なんか恐い!
 亜矢、早く帰ってこないかなぁ、とあたしがソワソワしていると、誰かが廊下を走って来る足音が聞こえてきた。
 ビクッとして、あたしはその音が聞こえてきた方に顔を向ける。そして、亜矢でありますように、と心の中で祈った。足音はどんどん大きくなる。
 そして。
 その足音の主を確認した途端、あたしはホッと安堵の息をついた。
 足音は亜矢のものじゃなかったけど、あたしの知っている人のものだったから。
「あれ、佐々木さん?」
 走ってきたのは男の子。同じクラスの山下くんだ。
 山下くんはあたしを見た途端、ちょっと驚いたような顔をした。きっと、教室には誰もいないと思っていたに違いない。
「なにやってるの?」
 口元に微かに笑みを浮かべた山下くんは、あたし座る席までやってきた。
「亜矢を………友達を待ってるの。進路指導室に呼ばれてるから」
 あたしは小さな声で、緊張しながら答えた。滅多に男の子と話す機会なんてないから、なんだかすごく緊張してしまう。しかも、相手はあの山下くんだ。
 男の子にしておくのは惜しいような、とってもキレイで端整な顔の山下くん。他の男子生徒のようにギャーギャー言うこともなく、どちらかと言うとおとなしい山下くんは、でもなにか凛とした雰囲気を持っていて、同じクラスどころか、全学年の女子たちから密かに熱い視線を注がれている。
 同じクラスになって二ヶ月になるけど、あたしが山下くんと会話したのは、これが初めてだった。
 あたしがモジモジしていると、山下くんがいつもの涼しげな笑顔で柔らかく言った。
「僕は忘れ物を取りにきたんだ。数学のプリント、机の中に忘れちゃって」
 そして、山下くんは自分の席に行くと、机からプリントを取り出した。
「あった。あー、よかった。もしかしたら、失くしちゃったかと思ってたんだ」
「よ、よかったね」
 無視するのも変だと思い、あたしは相変わらずモジモジしながらそう答えた。
 広い教室の中、そこにいるのはあたしと山下くんだけ。なんだかいたたまれない。
 山下くん、早く教室を出て行ってくれないかなぁ、とあたしが密かに思っていると、そんな願いも空しく、山下くんはあたしの座る席の前にやってきた。
 そして、あたしの机に手をついて、のぞき込むようにして問いかけてきた。
「いつも本読んでるね。本、好きなの?」
「う、うん」
 あたしが上目づかいで山下くんを見ながら返事をすると、山下くんが急ににっこり笑った。
「そっかー。実は僕も好きなんだ」
 キレイなキレイな山下くんの、キレイなキレイな笑顔。
 あたしはつい、その笑顔に見とれてしまった。胸が、ドキンと大きく鳴った。
「なにかお奨めの本とかあったら、今度教えてくれる?」
「う、うん、いいけど……」
「よかったぁ」
 そう言って、山下くんが本当に嬉しそうに笑ったものだから、あたしの胸はますますドキドキ高鳴ってしまう。
 山下くんの、こんなに嬉しそうな明るい笑顔を見るのは初めて。
 同じクラスにいるんだから、これまでだって山下くんの笑顔を時々だけど見たことがある。でもそれは、笑顔というよりは、微笑、と言った方が似合うようなものだ。少し目を細めて、ほんのちょっとだけ口元を緩めて、風のように涼やかに笑う。
 その笑顔が、また女の子たちをウットリさせているのだけれど………。あたしは今初めて見た山下くんの明るい笑顔の方が、いつもの微笑より好きだと思った。
 好きだと思ったら、顔が熱くなった。
「それじゃ、楽しみにしてるね」
 山下くんはそう言うと、来た時と同じように軽やかな足取りで走って行ってしまった。その後ろ姿を、あたしはボーッと見つめていた。
 胸がドキドキドキドキ高鳴っているのが自分でも分かる。
 なんだか、白昼夢を見てしまったような、そんな不思議な感覚に捕らわれる。
 だから、戻ってきた亜矢に突然声をかけられた時は、もう本当に飛び上がるほどビックリしたのだ。
「お待たせ、ユウ」
「ひ、ひゃぁー!」
 そんなあたしを見て、亜矢がぶ然とした顔をする。
「なによ、そんなに驚くことないでしょう? どうしたのよ、ボーッとしちゃって」
「う、ううん、なんでもない!」
 あたしは慌ててそう言った。
 亜矢がそんなあたしを、なんだか疑わしげな目で見ていたけど、あたしはそれに気付かないフリをした。さっき山下くんと会って話したこと、明るい笑顔を見たことを、自分だけの秘密にしておきたかったから。
「それじゃ、帰ろうか」
「うん」
 あたしと亜矢は、連れ立って教室を出た。あたしの胸はまだドキドキいっている。こんなことって初めてだったから、あたしは高鳴る自分の胸にとまどってしまう。
 そして、山下くんと交わした会話を思い出しながら、亜矢に隠れてこっそり頬を赤らめた。


 あの日以来、あたしと山下くんは時々話しをするようになった。
 話しをするって言っても、それは大抵が本のこと。この本は面白かったとか、あの本はまだ読んだことがないとか、そんなことを話したりするだけ。
 それでもあたしは、そのことが嬉しくて嬉しくてたまらなかった。山下くんがあたしに話しかけてくれる。それだけで、あたしの心はウキウキしてしまうのだ。
 それに、時々だけど二人で図書室に行くこともあって、その時はもう、胸のドキドキがとまらない。
 あたし、山下くんのことが好きなのかな?
 多分、そうなんだろうと思う。
 だって、山下くんと会話ができるってだけて、毎日がこんなに楽しい。そうは言っても、毎日あたしたちがおしゃべりしているってワケじゃない。でも、今日はお話しできるかな? とか考えるだけで、もう朝起きた瞬間からウキウキしてしまう。
 こんなことって、生まれて初めての経験だ。
 そんなことを考えながらあたしが登校すると、そんなあたしのところに山下くんがやってきてくれた。ああ、今日は朝からツイてるみたい。
「おはよう、佐々木さん」
「お、おはよう、山下くん」
 あたしは嬉しくて恥ずかしくて、少しモジモジしながら山下くんを見た。
「この前教えてもらった本、読んでみたんだ。すごく面白かったよ」
「ほ、ほんと?! よかったあ。あの本ね、本当に大好きな本なの。だから、山下くんにそう言ってもらえると、なんだかとっても嬉しい」
「またなにか面白い本があったら教えてね。じゃあ」
「うん」
 軽く手を上げて山下くんが行ってしまった後、顔がニヤケてしまうのを必死にこらえながら、あたしは自分の席についた。気持ちを落ちつかせようと大きく深呼吸していたら、隣の席の亜矢があたしの肩をチョンとつついた。
「ねえ、ユウ?」
「なあに?」
「ユウと山下くん、最近なんか仲良くない? どうしたのよ?」
 言われた途端、あたしの顔は真っ赤になったと思う。
「ええっ?! そ、そんなことないよ!」
「でもさー、さっきだって、山下くんの方からユウに話しかけてきたじゃない」
「そ、それは………」
 あたしは亜矢に、山下くんと仲良くなったきっかけをまだ話していない。だって、あの時のことは、あたしにとって今一番の宝物だから。あの時、山下くんの嬉しそうで明るい笑顔を見たことは、あたしだけの秘密にしておきたかったから。
 どうしよう。
 あの時のことは、できれば内緒にしておきたい。でも、亜矢は大切な友達だし、黙っているのも悪い気がする。
 あたしが迷っていると、亜矢が言った。
「クラスの他の女の子たちも、みんな噂してるよ。山下くんとユウ、もしかしたら付き合ってるんじゃないか、って」
「ええ――――っ!!」
 あたしは驚きのあまり、思わず大声を上げてしまった。
 だ、だって、そんな、あたしと山下くんが付き合ってるなんて、そんなことあり得るはずがない。実際、あたしたちはお互いの趣味である読書について、意見を交換したりお奨めの本を紹介し合うくらいのことしかしていないんだから。
 あたしは慌てて亜矢に言った。
「ち、違うよ。その噂は全くのデタラメ!」
「本当にぃ?」
 疑うような目で、亜矢があたしを見る。
「本当よだって! 山下くん、読書が趣味なんだって。で、ホラ、あたしの趣味も読書じゃない。だから、お互いに面白い本を紹介し合ったりしてるだけ。本当にそれだけなの!」
 やたらと必死になってあたしは言った。
「本当なのよ!」
 だって、あたしなんかと付き合ってるなんて勘違いされたら、山下くんがかわいそう。山下くんには、もっとカワイイ女の子がお似合いだ。
 そんなことを思いながら、必死に事実無根を訴えるあたしを見て、亜矢がちょっと驚いたような顔をした。
「へえ、そうなんだ。山下くんって、読書が趣味だったんだ。へー」
 それから、納得したように言う。
「だったらユウと話しが合うのも分かるわ」
「でしょう!」
 誤解が解けたところで、ホッとあたしが一息ついていると、亜矢がにやっと笑いながら言った。
「でもさ、ここだけの話。ユウは山下くんが好きなんでしょう?」
 ふいにそんなことを言われて、あたしの顔はまた真っ赤になってしまう。
「な、なんで?! そ、そそ、そんなことないよ!」
 口調も不審者並みにどもってしまった。
 そんなあたしを見て、今度は楽しそうに亜矢が笑った。
「隠さなくてもいいわよ。だって、見てれば分かるもの。近頃のユウ、すっかり恋する女の子だもんね」
 そして、あたしのオデコを指でちょんとつついた。
「あ、あたし、どこか変? なにかいつもと違う?!」
 オロオロしながらあたしが訊くと、亜矢は机に頬杖をつき、ニヤニヤしながら言った。
「変じゃないよ。ただ、以前と比べて表情が明るくなっただけ。それに、女の子らしくなってっていうか、そんな感じ」
「お、女の子らしくなった? ………って、どういうところが?」
「どこが変わった、ってハッキリ言えるようなことじゃないんだけど、なんて言うのかなぁ………あ、そうそう、髪型とかも、最近結い方を時々変えたりするでしょう? 前はさ、もうトレードマークみたいに二本の太いオサゲぶら下げてたけどさ、近頃は時々アップにしてきたりもするよね?」
「う、うん」
 あたしは自分の髪に触れながらうなずいた。今日はいつも通りのオサゲだ。でも、確かにあたしは、最近になって時々髪型を変えるようになった。自分に一番似合う髪形ってどんなだろう、なんてことを考えながら、鏡の前で色んな髪型をためしてみる。
 山下くんを好きになる前までは、そんなことしたこともなかった。定期的に美容院に行くのが面倒くさいから、伸ばしっぱなしにしていた髪。邪魔になるからという理由で、二つにまとめてオサゲにした。前髪なんて、鏡見ながら自分で切ってた。
「それだけじゃないよ」
 モジモジするあたしに、亜矢が言う。
「なんだかユウ、最近とってもかわいくなった」
「かわいくなった? あ、あたし、美容整形なんてしてないよ!」
 あたしが真剣な顔してそう言うと、亜矢は笑った。
「誰もそんなこと言ってないわよ。ホラ、前のユウってさ、性格も地味なら見た目も地味で、なんだか陰気な感じのする子だったのよ。でもさ、今のユウはそうじゃない。髪型だって変えたりするし、表情もなんだか明るくなった。実を言うとさ、あたしもビックリしてるの。ユウってこんなにかわいい顔してたんだぁ、なんて」
「かわいいって、あたしが?! 本当に?!」
「やっぱりさぁ、人の内面っていうのは顔に表れるものなのね。ユウを見てて、しみじみそう思っちゃった。女の子はさあ、好きな男の子ができるとキレイになるものなのよ、うん」
 腕を組み、関心したように何度もうなずく亜矢の前で、あたしは恥ずかしくてどうしたらいいのか分からなくなる。
 かわいくなった? このあたしが?
 そんな言葉、これまでのあたしには全く無縁のものだった。
 人から褒めてもらえることと言えば、真面目だとか、親切だとか、おとなしいだとか、そんなことくらいだったのに。
 いきなりそんなこと言われても、どうしたらいいか困ってしまう。っていうか、信じられない。
 あたしが一人で慌てふためいていると、そんなあたしに亜矢が言った。
「で、どうなのよ? 山下くんのこと、どう思ってんの? 好きなんでしょう? 白状しちゃいなさいよ」
 少し悩んでから、あたしは亜矢に自分の気持ちを言うことにした。
「………うん、多分、そうなんだと思う」
 それを聞いて、亜矢が満足そうにうなずいた。
「やっぱりね。よーし、それを聞いたからには黙ってちゃいられないわ。ユウ、山下くんに告白しちゃいましょうよ!」
「ええっ!!」
 亜矢の言葉に、心臓はひっくりかえるんじゃないかと思うほど、あたしは驚いた。
「ち、ちょっと待ってよ!」
「だってさ、もったいないわよ。あの山下くんから、あんな風に気軽に話しかけてもらえる子なんて、ユウくらいのものよ。少なくとも、山下くんがユウのこと嫌いじゃないことだけは確かなんだから、ここはひとつ勇気を出して、ね?」
 とても楽しそうな顔して亜矢は言うけど、あたしとしては冗談じゃない。告白なんて、今まで考えたこともなかった。
「そんなことできないよ。だって、あたしは別に山下くんと付き合いたいワケじゃないもの。あたしはただ、今みたいに時々山下くんと話しができるだけで、もうそれだけで満足なんだから」
「えー? そんなの信じられなーい! だって、好きな人と付き合いたいと思うのは、当たり前のことでしょう?」
「他の人はそうかもしれないけど、でも、あたしは違うの。第一、あたしと山下くんとじゃ、あまりにも不釣合いよ。告白したって、フラれるに決まってる」
 そう、告白してフラれて、今みたいに話しができなくなるのは嫌だ。それくらいなら、心の中でこっそり想いを寄せているだけの方がいい。
 そんなことを思っているあたしを、亜矢が恐い顔でにらんできた。
「フラれるかどうかは、やってみなきゃ分からないじゃない。それに、不釣合いかどうかなんて、ユウが決めることでもなきゃ、周りの人間が決めることでもない。それを決めるのは山下くんでしょ!」
「そ、それはそうかもしれないけど………でも、告白なんて、そんな大それたこと、あたしにはできないよ」
「じゃあ、想像してごらん。もしかしたら、一週間後、山下くんに彼女ができるかもしれない。彼女と仲良くしている山下くんを見て、ユウはどう思うかな? きっと、後悔すると思うよ。ダメでもいいから告白しておけばよかったって、絶対に後悔すると思うよ」
 亜矢の言ったことを、あたしは頭の中で想像してみた。
 山下くんと彼女。
 二人が楽しそうに話しをしている姿を見たら、あたしはどう思うだろう。あたししか知らないはずの、あの山下くんの明るい笑顔を、きっと彼女の前では頻繁に見せるようになる。
 彼女に悪いから、今までみたいに二人で図書室に行くことも、あたしだって遠慮しなきゃならなくなるだろう。
 そう思うと、あたしの胸はズキンと痛んだ。
「今は山下くんもフリーだから、ただ見つめていれば満足とかユウも言ってられるけど、彼女ができたりしたら、そうは言ってられなくなると思うな? あたしがユウだったら、絶対に後悔する」
 どうよ、っていう感じの問うような目で、亜矢があたしを見すえた。
「………確かに、そうかもしれない……」
 呟くようにあたしが言うと、亜矢は優しく笑った。
「後で後悔しないためにも、今がんばって勇気出そう? 言ってくれれば、なんでも協力するからさ」
 勇気。あたしにそんな勇気がだせるだろうか。
 男の子に告白するなんて、というよりは、男の子を好きになるってことさえも、今まであまり考えたこともなかったのに。それが、いきなり告白なんて!
 しばらく考えてから、あたしは言った。
「もうちょっと、ゆっくり考えてみる。告白するかどうか、どうしても今すぐには決められなくて………。ごめんね、せっかく亜矢が親切に色々言ってくれたのに」
「いいのよ」
 亜矢は笑いながら肩をすくめた。
「確かに、今すぐ決められることじゃないものね。あたしも焦りすぎちゃった。ゆっくり考えて決めればいいわよ」
「ありがとう、亜矢。あたし、真面目に考えてみるね」
「うん、がんばれ!」
 そう言う亜矢の笑顔を見ながら、友達っていいものだなぁと、あたしはつくづく思った。


 そんな話を亜矢としてから数日間、あたしは真剣に考えた。山下くんに告白するかどうかを、真剣に考えた。
 学校中の女子生徒たちから憧れの目で見られている、キレイなキレイな山下くん。あたしなんかが告白してもいいですか?
 教室で山下くんを見かけるだけで、すごく胸が痛くなる。 考えれば考えるほど、山下くんを好きな気持ちがどんどん大きくなる。
 好きだという気持ちを、自分の体の中におさめきれなくて、それがとても苦しい。
 亜矢と話をする前までは、こんな気持ちになることはなかった。ただ、山下くんと話しができることを、とても嬉しく思っていただけ。毎日が楽しくて楽しくて仕方がなかった。
 それなのに。
 どうしてこんなことになっちゃったんだろう?
 もちろん、今だって山下くんと話しをするのは楽しい。言葉を交わすだけで、信じられないくらいに心が躍る。
 でも、それと同時に、心が痛むのはどうしてだろう。山下くんと話しをしている時以外、あたしの心はいつも切なさと寂しさに悲鳴をあげている。
 人を好きになるってことが、こんなに苦しいことだなんて知らなかった。
 もう無理だ、とあたしは思った。
 これ以上、この辛さにたえられない。だからと言って、山下くんを好きな気持ちをとめることもできない。
 だから、告白することにした。
 ダメかもしれない。いや、多分フラれると思う。
 それでも、今よりも気持ちはスッキリするような気がした。
 それを決めた数日後、あたしは放課後の図書室に山下くんを呼び出した。
 広い図書室の一番奥、周りに人気のない席に座って、掃除当番で来るのが遅れる山下くんを待ち続ける。
 これから告白する。それを考えると、なんだか手が震えてくる。心臓はバクバクいってるし、なんだか気分まで悪くなってきた。
 シーンとした図書室の雰囲気が、必要以上にあたしの緊張感を高めてくれる。
「まだかな」
 入り口を見てみても、まだ山下くんは現れない。
 早く来て、と祈らずにはいられない。早く来てくれないと、このまま逃げ出してしまいそう。
 そんなことを思いながら、あたしが体を固くしていると、やっと山下くんがやって来た。そして、あたしの隣の席に、ごく自然に座った。
「ごめんね、遅くなって」
 走って来てくれたのか、少し息が荒い。
 いつものように繊細な顔立ち、人を安心させるような穏やかな声。
 この人に、今から自分は告白しようとしている。好きだと言おうとしている。
 恐い、ものすごく恐い。
 今ならまだ間に合う。告白するのをやめ、本の話をして呼び出した理由をごまかすことができる。
 でも、ここまで来たら、もう言うしかない!
 あたしは心を決めた。そして、大きく息を吸い込んだ。
「あ、あのね、山下くん」
「なに?」
「あたし、山下くんのことが好きなの」
 言った。言っちゃった。
 うつむきたくなるのをガマンして、あたしは山下くんの目を見つめた。
 山下くんはちょっと驚いたような顔をしている。
 そして。
 その後、困ったような顔をした。
 その顔を見て、あたしは心臓を鷲づかみにされたような胸の痛みを感じた。
 だから、あたしは立ち上がった。
「ご、ごめんね。急に変なこと言って。でも、それだけなの。気持ちを伝えたかっただけなの。付き合いたいとか、そんな大それたことは思ってないから。ホント、ごめんなさい!」
 これ以上、困った顔の山下くんを見ていられない。
 あたしは急いでその場を立ち去ろうとした。これ以上、山下くんの側にはいられない。たえられない。
「待って」
 そんなあたしの腕を、山下くんがつかむ。さっきと同じ、困った顔のままで。
「ちょっと待って。話しをしよう。もう一度、そこに座ってくれる?」
 嫌だ。一秒でも早くこの場から逃げ出したい。
 そう思ったけど、あたしは山下くんに促されるまま、もう一度さっきまで座っていた席に腰を下ろした。そして、うつむく。
 そんなあたしを見ながら、山下くんが言った。
「………その、好きだって言ってくれて、どうもありがとう。でも、正直言って、それになんて言って答えたらいいか分からないんだ」
 うつむいたまま、あたしは山下くんの声聞く。恐くて顔が上げられない。でも、きっと山下くんは困った顔をしたままだと思う。そう思うと、なおさら顔を上げられない。
 そんなあたしに、山下くんがまた言った。
「僕、佐々木さんのこと、好きだよ。共通の趣味があるし、話をしていて、とても楽しいと思う。でも、それが恋愛関係の気持ちかどうかは分からないんだ。………あの、顔を上げてくれないかな?」
 そう言われては、顔を上げないわけにもいかない。あたしは恐る恐るゆっくりと顔を上げた。目が合うと、ホッとしたように山下くんが笑ってくれた。
 そんな山下くんの笑顔に勇気をもらって、あたしは言った。
「ありがとう、山下くん。そんな風に言ってもらえただけで、あたし、もう充分だから。変なこと言って、本当にごめんなさい。それで………できればこれからも、友達としてでいいから、時々本の話しとかしてもらえると、その、嬉しいんだけど……ダメかな?」
「友達として……か。うーん、困ったな」
 そう言って、また山下くんが困った顔をした。
 その顔を見て、胸がズキンと痛んだ。
 ああ、余計なことを言わなければよかった。そうよ、そんなの無理に決まってる。あたしったら、なんて自分勝手なんだろう。また山下くんを困らせてしまった。
「ご、ごめんなさい。無理なことを言ったりして。やっぱりいいから。あたしがさっき言ったこと、忘れて」
「いや、そうじゃなくて………うーん」
 しばらく考えてから、山下くんは言った。
「さっきさ、佐々木さんは僕と付き合おうとは思ってないって言っただろ。でも、僕は逆なんだ。佐々木さんのこと好きかどうかは分からないけど、でも、付き合いたいんだ」
 え、とあたしは首をかしげる。
 それって、どういうこと? 山下くんの言ってること、全然分からない。
「あ、あの、山下くん? 好きかどうか分からないのに付き合いたいって………どういうことなの?」
「うん。僕さ、佐々木さんといると、すごく楽しいんだ。趣味が同じで話しも合うし。なんだか最近、学校に来るのが前よりも楽しくなっちゃってさ。朝とか、佐々木さんの姿見かけると、話しかけたくてたまらなくなる。迷惑かもしれないから、極力ガマンすることにしてるんだけどね」
 困ったような、少しテレくさそうな顔でそう言う山下くんの話を聞きながら、あたしは自分の顔が真っ赤になるのが分かった。
 だって、山下くんが言っていることって、あたしがいつも感じていることと同じだったから。
 呆けた顔で山下くんを見つめ続けるあたしに、相変わらず困った顔して山下くんは話し続ける。
「なんでか分からないけど、僕は女子に嫌われているらしくてさ。だから、女の子と仲良くした経験がないからよく分からないんだけど………僕、佐々木さんのことが好きなのかなぁ? どう思う?」
 って、そんなこと言われても、あたしにはなんて答えたらいいか分からない。第一、山下くんは女の子に嫌われてなんかいない。それどころか、憧れの的のような存在だ。だから、みんな近寄りがたくって、あまり話しかけないだけ。
「………ど、どうなんだろうね? あたしにも、よく分からないけど」
 困ったあたしがそう言うと、落胆したように山下くんは溜息をついた。
「そうだよね。佐々木さんに訊くようなことじゃないよね。でもさ、佐々木さんともっと仲良くなりたいって、本当にそう思うんだ。もっといっぱい話しをしたいと思うし、できるだけ一緒にいたい。だから、僕は佐々木さんと付き合いたいんだ。恋愛対象として好きかどうか分からないのに、こういうのって変かな? 佐々木さんにしてみれば、かえって迷惑なだけ?」
 あたしは慌てて首を振った。
「う、ううん。そんなことない。すごく嬉しい。だって、あたしも同じだから。あたしも、もっと山下くんと仲良くなりたい。もっとたくさんおしゃべりしたいし………その、できるだけ一緒にいたい」
 真っ赤になりながらそう答えると、山下くんが嬉しそうに笑った。あたしの大好きな、あの明るい笑顔を見せて。
 その笑顔を見て、あたしも嬉しくなって笑った。
 なんだか、すべてが夢のようで信じられない。
 あたし、山下くんのことが好きです。そして、山下くんもあたしに好意を持ってくれてるみたい。こんな嬉しいことってあるだろうか。
 あたしが感動に胸を震わせていると、山下くんが言った。
「佐々木さんってさ、最近、前よりもかわいくなったような気がするんだけど、気のせいかな?」
 急にそんなことを言うもんだから、あたしは真っ赤になってドキマギしてしまう。そして、そんなあたしを山下くんは優しく見つめてくれるのだ。
 山下くんのおかげです。あたしは心の中で呟いた。あたしがもし本当にカワイクなったのなら、それは山下くんおかげです。
 もっとキレイになりたい。もっとカワイクなりたい。そして、いつかは山下くんに、恋愛対象としてあたしのことを好きになってもらいたい。
 なれるかな?
 うん、きっとなれるに決まってる。
 だって、こんなに山下くんのことが好きなんだから。だからきっと、どんな努力だってあたしにはできる。
「そろそろ帰ろうか」
 そう言って、山下くんがテレくさそうに手を差し出してきた。とまどいながらも、あたしはその手を握る。
 二人して頬を染め、少しぎこちなく歩いて図書室を出た。
 山下くんの手の温もりを自分の手に感じながら、あたしは思った。今日、家に帰ったら美容院に行こう。そして、このモッサリとした髪を、美容師さんに素敵にカットしてもらおう。
 髪を切ったあたしを見て、山下くんはなんて言ってくれるかな? かわいくなったって、また褒めてくれるかな?
 ふと山下くんを見ると、偶然にも山下くんもこっちを見ていて、目が合った。そして、にっこり笑ってくれた。
 たったそれだけで、あたしの心は幸せで満たされる。
 女の子に生まれてきてよかった。あたしはそんなことを思いながら、山下くんの手を握る力を、ほんの少し強めた。




      おわり



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