結果オーライ!



「おおーい、委員長!」
 ホームルームも終わった教室の中、山根が帰りの身支度をしていると、クラスメートの高木が声をかけてきた。
 顔を上げた山根の視界に、見るからに明るく、そして、元気そうな少年の姿が入ってくる。
「なんだ?」
「うん、実はお願いがあるんだけどさ。明後日提出の英語の宿題、終わってたら写させてくんねーか。頼むよ、委員長。この通り!」
 頭を下げ、拝むように手を合わせる高木を、山根は呆れたような表情で見る。
「まだ時間があるじゃないか。自分でやったら?」
「やれるもんなら、とっくにやってるさ」
 泣きそうな顔で高木は叫ぶ。
「でも無理なんだ。おまえだって知ってんだろ、俺が英語大の苦手だって!」
「おまえは英語だけでなく、全ての教科が大の苦手なんだろ」
「さーすが、よく分かっていらっしゃる」
 気分を害した様子もなく、高木は屈託のない笑顔を見せた。
「だから頼むよ。おねが〜い」
 山根はため息をついた。
「…分かったよ。その代わり、きっちり料金いただくからな。はい、五百円」
 手を出した山根を見て、高木は目を見開いた。
「えぇー、金取るのかよ?!」
「なに今さら驚いたフリしてるんだよ。俺が金を取るのはいつものことだろう。嫌ならいいんだぞ」
「でも、五百円はちょっと高くないか?」
「不満なら他をあたれ。俺はちっともかまわん」
 慌てて高木は取り繕うような笑顔をみせる。
「いやいや、不満だなんてとんでもない! 払う、払いますよ」
 高木は制服のポケットから財布を取り出すと、そこから五百円玉を指でつまみあげた。名残惜しそうにそれを見つめていたところで、横から山根がさっとその五百円をかすめとる、
「あああっ、俺の五百円!」
 情けない声をあげた高木に、山根が笑顔でこう言った。
「はい、まいどあり」
 そして、カバンからノートを出して中身を確認すると、それを高木に差し出した。
「持って返っていいぞ。でも、明日には返せよな」
「助かるよ。サンキュ」
「なに、ギブアンドテイクだ。でも、おまえもう少しちゃんと勉強した方がいいぞ。今年は大学受験だぞ。分かってるか?」
「へへへ、俺はいいんだよ。なんてったって専門学校志望だかんな。名前さえまともに書いときゃ受かるんだよ」
 余裕に満ちた顔で高木がそう言った時、クラスメートの野中英子が二人のところにやってきた。ショートカットのよく似合う、目鼻立ちのはっきりとした、なかなかかわいい子である。
「なになに、なにやってんの? あ、もしかして明後日の英語の宿題? しまった、なんにもやってない。委員長、あたしにもノート貸して」
「いいよ。料金は三百円ね」
 山根の言葉を聞いた高木が、納得いかない顔をする。
「なんで俺より安いんだよ? 贔屓だ、贔屓!」
「女性割引でしょ? それとも、あたしがカワイイからかしら? ねえ、どうなのよ委員長?」
 流し目で自分を見る英子からの視線を、表情を変えることなく山根は受け止めた。
「そんなんじゃない。そっちが通常料金だ。高木の方が割増料金になってる」
 さらりとそう言った山根を見て、英子が肩をすくめてつまらなそうな顔をした。
 高木が山根に食って掛かる。
「なんで俺は割増料金なんだよ?!」
「おまえは回数が多すぎるんだよ。割り増しされるのが嫌なら、もうちょっとまともに宿題くらいやれ」
 カバンを持つと山根は立ち上がった。
「それじゃ、俺は帰る。高木、明日必ずノート持ってこいよ。そして、野中にまわしてくれ」
 歩き出した山根の背中に、慌てて英子が声をかけた。
「あ、待ってよ! 同じ方向だし、駅まで一緒に帰ろう?」
 山根は振り向かずに手だけを振り、そのまま教室を出て行ってしまった。
「んもう、つれないんだから」
 両手を腰におき、頬をふくらませた英子を見て、高木がにやにや笑った。
「あれ、もしかして英子って委員長狙い?」
「実はそうなのよね」
 それを聞いた高木が飛び上がる。
「マジで?! 俺、冗談のつもりで言ったんだけど。でも、なんで?! なんでお前が委員長を?」
 高木が驚くのも無理はない。英子はクラスでも、男子生徒からかなり人気のある女の子である。顔がかわいくて、短い制服のスカートの下から伸びるスラリとした長い足が魅力的で、性格も明るく誰とでもすぐに友達になれるタイプだから、それも当然である。
 一方、そんな英子から想いを寄せられているらしい山根はというと、無愛想であまり笑顔をみせることのない、どちらかというと人付き合いの悪いタイプの男である。成績は学年でも五本の指に入るという秀才ではあるが、運動神経と容姿はごく普通だ。みんなから委員長と呼ばれているが、実は彼がこれまでクラス委員長をしたことは、高校に入って一度しかない。ボランティアでクラスメートの世話を焼くなんて面倒なこと、まっぴら御免といった感じの雰囲気を持っている。さき程のように、クラスメートに宿題を見せるくらいのことでも、無償ではなく金を取るくらいだ。
 そんな山根がどうしてみんなから委員長と呼ばれているのかというと、以前に一度だけ、高校一年の時に彼が委員長をやった際、無駄がなく効率のよい、とても優れた統率力を発揮してみせたからである。その時はじゃんけんで負けて渋々クラス委員を引き受けたのであるが、やるからには徹底的にやる、といった性格の持ち主であることを周囲の人間に見せ付けた。責任感をもしっかり持ち合わせているらしい。
 その後、山根がクラス委員を務めたことは一度もないが、彼のカリスマ委員長振りはあっという間に学年中に広がり、いつの間にかみんなから「委員長」と呼ばれるようになってしまったのである。
 しかし、だからと言って山根がみんなから好かれているかというと、そういうワケではない。無愛想だし、みんなとバカ話をして笑い合うこともない。一目おかれて尊敬されてはいるものの、やはり山根と他生徒たちとの間には、目に見えない壁があった。
 そんな山根を、クラスの人気者である英子が好いているという。高木の驚きも無理からぬことであった。
「しっかし、英子が委員長をねぇ。あいつも果報者だなぁ」
 感心したように高木が呟くと、それを聞いた英子が大きなため息をついた。
「でもねぇ、委員長ったら、さっきみたいに何気にアピールしてみても、全然食いついてきてくれないのよねぇ」
「実はホモなんじゃねぇ?」
「バカ言ってんじゃないの」
 そこでパッと英子は顔を輝かせた。
「そうだ! ねえ高木、あたしと委員長が上手くいくように、仲を取り持ってよ。確かあんたって、小学校からずっと委員長と同じ学校だったわよね」
「だからってなんで俺が?! 嫌だよ、そんな面倒なこと。だいたい、学校が同じだったからって、特別仲がいいってワケでもないんだから。他をあたってくれ!」
「でも、少なくとも他の人たちよりは知った仲でしょ。それに、ふふふ、あたしのお願いをきかないとは言わせないわよ?」
 意味深に英子が笑う。
「あたし知ってんだから。あんたが麻理のこと好きだってこと」
「うおぉっ?!」
「麻理に言っちゃおうかなぁー。高木は意地悪で不親切でロクでもないヤツだって。あたしと麻理が仲いいってこと、あんただって知ってるわよね?」
 苦虫を噛み潰したような顔を高木はする。
「き、汚ねーぞ!」
「ふふん、なんとでも言って。―――で、どうする? 協力する、しない?」
 高木はがっくりと肩を落とした。
「分かったよ。協力すりゃーいいんだろう、すりゃー!」
 顔の前で両手を組み合わせ、英子はにっこりと笑った。
「うわー、助かるぅ。高木いいやつ! きっと麻理も見直すよ♪」
「はいはい。で、俺はなにをすればいいわけ?」
 もうなんとでもなれ、といった心境で高木は問うた。英子は楽しそうな笑顔で言う。
「取り合えず、委員長に好きな子がいるかどうか探ってよ。それと、彼の好きな女の子のタイプもね。頼んだわよ。ちゃんとやってくれなかったら、あることないこと麻理に言っちゃうからね」
 それが人に物を頼む態度かよ、と思いながら、渋々ではあるが高木はうなずいた。弱みを握られているようなものなので、やらないわけにもいかない。
 そんなわけで、翌朝教室にやってきた山根に、早速高木は声をかけた。
「ようっ、委員長。突然で悪いんだけど、おまえって好きな女とかいる?」
「……朝っぱらからなにを言っているんだ。この時間になっても、まだ寝ぼけてるのか。顔を洗ってこい」
 呆れたような不機嫌そうな、そんな表情の山根に、高木は愛想笑いをしながら尚も言う。
「いや、それだけじゃなくて、ついでに、好みのタイプも教えてくれるとありがたいんだけど。おまえ、どんな女が好きなんだ?」
「脳に変な菌でも入ったか? 病院に行け」
 無視して自分の席につこうとした山根に、高木は泣きそうな顔をして取りすがった。
「ま、待ってくれよ、委員長。頼むから教えてくれ。でないと、俺の青春はめちゃくちゃになるんだ!」
「知ったことか」
「そんな冷たいこと言うなよ。小中学校が同じだった仲じゃないか」
「だからと言って、特におまえと仲がよかった記憶もないが」
「うん、それは俺も。……いや、そうじゃなくて、頼むから教えてくれよ! なあ、委員長!!」
 必死の形相の高木を見て、さすがの山根も少し考える素振りを見せた。
「仕方がない。でも、いつもの通りギブアンドテイクだ。金を払え、そしたら教えてやらんこともない」
「金?!」
 抗議の声をあげようとして、高木はなんとか踏みとどまった。考えてみれば、金で解決できるのなら、それにこしたことはない。正直、絶対に教えてもらえないだろうと、そう思っていたのだから。
「分かった、金を払う。いくらだ?」
「質問一つにつき千円」
「千円?!」
 高木はあんぐりと口を開く。
「いくらなんでも、そりゃボッタクリすぎだろう?!」
「なにを言う。プライベート情報だぞ。宿題と一緒にするな。これでもかなり割引した金額だ」
 うーん、と腕を組んだ高木は、少し考えた末に渋々ながらうなずいた。
「分かったよ。払うよ、払えばいいんだろう」
「前払いでよろしく」
 高木は財布から千円札を二枚取り出すと、それを山根の胸に押し付けた。
「ほら、コレで文句ねーだろう。じゃ、早速教えてくれ。おまえ、どんなタイプの女が好きなんだ?」
「人に対して細かい配慮のできる、思いやりのあるタイプ」
「顔は?」
「どうでもいい」
 なるほどなるほど、と高木はその情報を忘れないよう、頭の中のメモ帳にしっかり書き込んだ。
「んじゃ、次の質問な。今現在付き合っている女、もしくは好きな女はいるのか?」
「付き合っている女はいない。でも、好きな女はいる」
「えぇーっ! おまえに好きな女がいるのぉ?!」
 あからさまに驚く高木を、山根はジロリとにらみつけた。
「なんだ、その驚きようは。失礼なヤツだな」
「いや、ちょっと意外だったもんで……ははは」
 笑いながら頭をかく高木であったが、しかし、こうなってくると、その好きな女っていうの誰なのかが気になってくる。というか、それを聞いておかなけりゃ、後でまた英子に嫌味を言われるに違いない。
「ちなみにだけど、金払ったらその好きな相手が誰かってのも教えてくれんのか?」
「いいけど、その場合の料金は一万円」
「いっ……?!」
「当たり前だろ。それくらい払ってもらわなければ、赤の他人に自分の好きな女なんか教えられんわ」
 山根の言うことももっともである。しかし、知りたい。けど、一万円なんて払えるわけがない。
「な、なあ、その金額、もうちょっとなんとかならないか? いくらなんでも、その金額はちょっと……」
 無駄であることは分かっていながらも、つい媚びるようにそう言ってみた高木に、山根が驚くような返事を返してきた。
「いいよ。俺の言う条件飲めたら、無料で教えてやる」
「マジかよ?! え、なになに、なにすればいいんだ?」
「二週間後から始まる期末試験、それで学年五十番以内に入ってみろ。そうしたら、金は取らずに教えてやるよ」
 にやりと笑った山根の前で、高木は思いっきり恨めしそうな顔をする。
「そんなの無理に決まってんだろ! 俺、いつも三百番代だぞ。よくて二百番代の後半だ」
「だったら金を払え。もしくはあきらめるんだな」
「そ、そんなこと言ったって……」
 高木は力なく首をうなだれた。金を払うもの五十番以内に入るのも、どちらにしろ無理に決まっている。
 取り合えず、なんとか手にすることのできた二つの情報を持って、英子のところに行ってみた。すると、半ば予想していたことではあるが、英子は鼻息を荒くしてこう言ったのである。
「高木、次の期末試験、なにがなんでも五十番以内に入るのよ!」
 高木は大きなため息をついた。
「無茶言うなよ。逆立ちしたって無理だぜ」
「無茶じゃない! 成せば成る! やる前からあきらめてんじゃないわよ!」
「そんなこと言ったって…」
「なにもあんた一人に辛い思いをさせようとは思ってないわよ。あたしも勉強付き合うから。ね? 二人でこの難局を乗り切ろう!!」
 握った拳を高くかざし、意気揚々とやる気をみなぎらせる英子ではあるが、高木にしてみればいい迷惑である。なんで俺が、とか思いながらも、やらなければ麻理に悪口言われるに決まっているので反論もできない。
 そんなワケで、早速その日の放課後から、二人は一緒に勉強することになったのである。場所は勉強するのに快適な環境、学校の図書室を利用することにした。静かだし、二人の他にも勉強したり調べ物をしている生徒がいるので、人目を気にすることもない。
「あたしの成績が大体いつも百番前後だから、それよりももっと良くならなきゃ。さっ、今日はとりあえず数学。教科書の問題、片っ端から解いていくのよ。質問があったら遠慮なく言って。あたしにも分からない時は、先生に質問しに行こう」
「はぁ〜い」
「家でもちゃんとやるのよ。特に、高木が一番苦手だっていう英語は、試験範囲内の教科書に出てくる単語、すべて覚えてもらからね! 一週間かけて、少しずつでいいから全部完璧に覚えてね」
「ゲー」
 既にやる気を失くした様子の高木を、英子はじろりとにらみつける。
「数学と英語だけじゃないんだからね。国語も社会も理科も、その他にも保健体育やら美術だってあるんだから。シャキっとしないさい、シャキっと! 成績上がれば、きっと麻理からの印象だって良くなる。それを励みにがんばんなさい!」
「……うぃ〜っす」
 小声で乗り気ない返事をすると、高木は教科書とノートを広げ、頭をかきながら数学の問題と格闘しはじめた。
 しかし、本音を言うならば、冗談じゃない、とんだトバッチリだと高木は思っていた。山根の好きな女を知るために、どうして自分がこんな苦労をしなければならないのか。
 でもまあ、確かに英子の言う通り、成績があがると麻理が見直してくれるかもしれない。そう思うと、少しだけやる気が出てきた。というか、そうでも考えない限り、勉強に身なんて入らない。
 それに。
 ふと高木は、隣に座る英子の顔を視線だけで盗み見た。
 好きな男がいて、その男には別に好きな女がいることが分かったのだから、その心中は穏やかではいられないだろう。その相手の女をつきとめたいという気持ちも、まあ分からないではない。逆の立場だったら、自分だって麻理の好きな男を知りたいと、そう思うだろう。
 しかし、何故よりにもよって山根なのか。英子ならば、他にいくらでもいい男と付き合えるはずだと高木は思う。実際、英子に恋心を持っている男を、高木は何人か知っている。その男たちは、成績を除けば山根に引けを取らないどころか、容姿にしろ性格にしろ勝っているところが多いように思える。
 好きになる相手は選べないもんな。切ないよなぁ、恋ってやつは。
 そう思いながら、高木はまた数学の問題に取り組み始めた。どこまでやれるかは分からない。でも、英子のためと自分のために、ちょっと真面目にがんばってみようと、そう思った。


 放課後は図書室の使える五時まで学校で勉強し、家に帰ったらひたすら暗記に励む。
 大学受験はしない。だから、これまで勉強なんて少しもまともにやっていなかった。だから、勉強する癖のついていない高木にとって、家の勉強机に座っているだけでもひと苦労である。二才年下の弟の、バラエティー番組を見てのバカ笑いを聞いていると、なんだか腹が立ってくる。自分のやっていることがバカバカしく思えて、ついサボッてしまいたくなるのだ。
 そんな高木のサボリ心をなんとか踏みとどめてくれているのが、毎晩十一時頃に英子から送られてくるメールだった。
『はい、高木。あんたまさかサボッてないでしょうね?! あたしの幸せかかってんだから、怠けたりしたら許さないわよ(#`皿´) 』
『調子どお? 進んでる?』
『あまり根をつめすぎてもよくないから、たまには休憩しないさいよ』
『分からないところがあったら放ったらかしにしてないで、あたしに電話しなさいよ! そういう問題が試験に出やすいんだから)`ε´(』
『あたし今日は家庭科の暗記。女の子らしいこと苦手だから、家庭科って大嫌い。高木は? 今日はなにやってるの?』
『へへへ、今夜食のサンドウィッチを作ったところ。卵サンドとハムサンドでーす(o^v^o)』
 メールの内容はそんな感じである。もちろん、高木もそれに対して返事を打つ。
『うっせぇ。おまえこそ俺一人を人柱にしたりしたら、承知しねーぞ』
『調子? まあまあかな。なーんて、うっそ〜ん。全然ダメー』
『根なんて誰がつめるか! おまえこそ、寝不足はお肌の天敵だぞー(* ̄ー ̄)ニヤリ』
『うーん、そんじゃ悪いけど、後で電話させてもらうかも。何時ごろまで起きてる?』
『家庭科苦手なのか? うわー超ヤバーイ! 嫁の貰い手がなくなる前に修行しろ! ちなみに今日の俺は保健体育。ウハウハ』
『太るぞ! でも、俺もなんか食いてーなぁ。ハラヘッタ(TεT;)』
 そんなメールのやり取りをすると、それまでの疲れはすっかり消え去り、もうひとがんばりするか、という気持ちに高木はなれるのだった。
 そんなこんなで、高木と英子の勉強生活は挫折することなくなんとか続き、気がつけば期末試験が始まる前日となっていた。
 長かった地獄の試験勉強ももうすぐ終わる。いつものように英子と隣同士に座り、英語の文法を勉強していた高木は、なぜかそれを残念に思っている自分に気づいた。
 その苦しみからやっとのことで解放される。それはとても喜ばしいことのはずなのに、何故か寂しい。どうしてなのか、その理由が分からない。
 無意識に視線を隣に向けた。すると、偶然にも英子も高木を見ていて、二人の視線がふと絡まり合った。一瞬、二人の間に沈黙と妙な空気が流れる。
「……ついに明日から試験ね。自信は?」
 その沈黙を破って英子が声をかけてきてくれたことに安堵した高木は、努めて普通に何気なく、肩をすくめながら笑って見せた。
「どうだろうなぁ。ハッキリ言って、五十番以内に絶対に入れるという自信はない。そこそこ成績は上がるとは思うけど」
「ちょっとー、そんな情けないこと言わないでよ。ここまであんたに付き合った、このあたしの立場はどうなるのよ」
「よく言うよ。誰のために俺がこんな苦労をしてると思ってんだ?」
「なに言ってんの。自分のためにでしょう? 麻理によく思われたいから」
 そこで高木は驚いたように、二、三度瞬きをした。
 すっかり忘れていた。自分が麻理のために勉強をがんばっていたことなど、すっかり忘れていたのだ。英子と一緒に勉強することが習慣化してしまっていて、大変だったけど、でもそれはとても楽しい時間でもあって、だから本来の目的をすっかり忘れてしまっていたのだ。
「あー、俺……俺は、そのぉ…」
「大丈夫よ、心配しなくても」
 そう言って、英子は優しく微笑んだ。
「もし五十番以内に入れなくても、麻理には高木のこと褒めておいてあげる。だって、高木は本当にがんばったもの。そのこと、あたしが一番よく分かっているもの。だから、もし結果がよくなくても、麻理にはあんたのこと、ちゃんといいように言っておいてあげる。約束する」
「お、おうっ、サンキュ。助かるぜ」
 取り合えず、高木は嬉しそうに笑ってみせた。
 でも。
 本当は、もう麻理のことなんてどうでもよかった。そう思う理由も分かってしまった。ついさっき、優しく笑う英子を見ていて、高木はそれに気づいたのだ。気づいたけど、でもどうすることもできず、ただ笑うしかなかった。
 だって、英子は山根のことが好きなのだから。
「なあ、英子。おまえ、委員長のどこに惚れたんだ?」
「どこにって、そりゃ……」
 英子は答えようとして開いた口を、すぐにまた閉じてしまった。そして、しばらく小首を傾げて考えた後、こう答えた。
「どこだったんだろう。忘れちゃった。変ね、あたし」
 少し困ったように英子は笑った。


 翌日から予定通り試験が始まった。
 自分にどこまでやれるか分からない。でも、自分に出せる最大限の力を出そうと高木は思った。そうすることが英子のためになるのであれば。
 そうして試験日程は二日三日と進んでいき、その間も高木は帰宅してからの勉強を怠らず、ついに全教科の試験が終わった。その翌日から、すぐに採点された試験答案が生徒たちの手元に戻され始める。
 一枚ずつ答案用紙を手にするたび、高木は喜んだり落ち込んだりした。これまでの成績と比べれば、確実に点数は上がっている。しかし、五十番以内に入っているかというと、やはり自信がなかった。いくら高木が努力したといっても、所詮は付け焼刃にすぎない。勉強というのは、やはり日々のコツコツとした積み重ねがあってこそ、その結果が試験の点数として跳ね返ってくるものなのである。
 そして、全教科の答案用紙が返されてから二日後、担任教師が帰りのホームルームで、クラス順位、学年順位の記された用紙を生徒一人一人に手渡した。
 名前を呼ばれた高木も、緊張しながらその用紙を受け取った。席に戻り、恐る恐るそれを見る。
「……………」
 高木は大きくうな垂れた。百十二番。目標には全く手の届かない順位だった。


 誰もいなくなった放課後の教室、高木が力なく席に座っていると、そんな高木の元に英子がやってきた。そして、伺うような視線で高木を見る。
「どうだった―――って、その様子を見る限り、訊くまでもないわね」
 うつむいていた顔を高木は上げた。
「……ごめん」
「あ、謝ることないわよ。高木はよくやったもん。それで、何番だったの?」
「百十二」
 英子は大きく目を見開いた。
「すごいじゃない! それって、今までより二百番近くも成績上がったってことでしょう?! すごいわ、それってすごいことよ!」
「うん、そうだけど…」
 弱々しい笑みを高木は漏らす。
「でも、委員長に好きな女の名前を教えてはもらえない。それじゃ意味がない。ごめんな、英子。役に立てなかったな」
「そ、そんな…」
 辛い顔をして黙りこんでしまった英子だったが、やがて笑顔で言った。
「もういいのよ、それは。委員長の好きな子のことは、もういい。興味なくなっちゃった」
 え、と高木が驚いたように顔を上げる。
「なんで? だって、あいつのこと好きなんだろう?」
「そうだったんだけど…実は他に好きな人ができたの。だから、委員長のことはもういい」
「えぇ――――っ?!」
 高木は勢いよく立ち上がった。
「ちょっと待て! それってどういうことだよ。俺のこれまでの苦労は一体なんのためだ?! ふざけるなよ!」
「なに言ってんの。結局は目的果たせなかったじゃない。それじゃ、なにもやらなかったのと同じよ」
 酷い言われような気がするが、英子の言っていることが真実なだけに、高木としては反論できない。ぐっと奥歯を噛みしめる。
「でも…確かにそうだけど……それじゃ俺の気が治まらない! せめて次に好きになったヤツの名前を教えろ! 誰なんだ?!」
「嫌よ。なんであんたなんかに」
「俺にはその権利がある! 委員長の条件飲むため、死ぬほどがんばったんだからな! 教えろ!!」
 いきり立つ高木を前に、英子は肩をすくめた。
「うるさいわねぇ。分かったわよ、教えればいいんでしょう、教えれば。―――――あんたよ」
「そうか、俺か! ―――って、えぇ?! お、俺?!」
 口を大きく開いたまま、高木は自分の顔を指差す。英子はうなずいた。
「そうよ、あんたよ。ああ、でも、あんたが麻理を好きなことは知ってるから、だから彼女になりたいだなんて思ってないから安心して。約束通り麻理にもちゃんと言っとく。あんたがどんなにがんばり屋さんで、義理堅くて、優しくて、やればできる男なのかってこと」
 放心したように、高木はよろよろと椅子に座り込んだ。
「マジかよ…」
「マジよ。それじゃ、あたし帰るね。麻理と上手くいくといいわね。じゃあ」
 手の平をひらひらさせ、教室から出て行こうとした英子を、なんとか動揺から立ち直った高木は慌てて追いかけ、その腕をとった。
「待てよ。俺も! 俺も英子のことが好きだ!」
「え?」
 英子が驚いたように振り返った。
「なに言ってんの、嘘でしょう……?」
「いや、ホントにホント!」
 叫ぶように高木は言う。
「一緒に勉強している内に好きになった! 夜のメールのやり取りが楽しくて仕方なかった! いっぱい元気もらえて、あれのおかげで俺はへこたれずにがんばれた! 俺、おまえが好きだ!!」
 英子の顔が真っ赤に染まる。
「あ、あたしも同じ。毎日一緒にいる内に、高木のことが好きになった。メールの返信、すごく楽しみにしてた。一緒に勉強しなくなって、毎日がものすごくつまらなくなった。……すごく寂しかった」
 それを聞いた高木の顔も赤くなる。
「その…俺と付き合ってくれる?」
「うん……うんっ!」
 これまで誰にも見せたことのないような笑顔を、二人は互いに見せ合った。

 さて、そんな二人の幸せそうな様子を、廊下からこっそり垣間見ていた者がいる。委員長、こと山根である。
「なんだ、思ったよりアッサリとくっついたな」
 小さくそう呟くと、静かにその場を後にした。
 山根は人とつるむタイプではない。なので、教室では一人でいることが多い。そして、一人でなにをしているのかというと、読書か、あるいは人間ウォッチングかのどちらかである。
 そんな山根であるから、クラスメートのことは話をあまりしないながらも、実は誰よりもよく分かっていた。もちろん、あからさまにモーションをかけてくる英子が、自分に好意を持っていることも。
 だから、高木が好みのタイプを聞きに来た時、それが誰の差し金であるかも分かったし、彼がどんな弱みで英子の言いなりになっているのかにも、すぐにピンときたのだ。
 実は山根、クラスメートをこっそりウォッチングする日々の中で、常々思っていたことがある。それは、高木と英子の二人がもし付き合えば、それはとてもお似合いのカップルになりそうな気がする、といったものだった。見た目的にも性格的にも、とてもバランスのとれた彼氏彼女になるに違いないと、そう思っていたのである。
 だから無理難題を押し付けた。
「俺の好きな人が知りたければ、一万円払うか次の試験で五十番以内に入ってみろ」
 そう言っておけば、英子の性格上から考えて、絶対に高木に猛勉強を強いるはずだ。そして、優しい彼女は高木一人に勉強を押し付けたりはせず、一緒に勉強しようと言い出すに決まっている。結果、二人の距離は急激に縮まることになる。
 英子には悪いが山根は彼女になんの感情も持ってなく、頻繁なアプローチを迷惑とまではいかなくても、少々ウザイと思っていた。それに、しっかり者の英子が彼女になってくれれば、だらしないところのある高木も、もう少ししっかりするだろう。宿題を見せろと言ってくる回数も減るに違いない。
 そんなワケで、もし二人がくっついてくれれば、それは山根にとって一石二鳥だったのである。そして、先ほどの教室での出来事を見る限り、どうやら望んだ通りの結果になったようだ。
 自分の目論見通りになったことで機嫌をよくした山根は、歩きながら思わずにっこりと微笑んだ。そして、彼ら二人に対し、心の中で「おめでとう」と呟く。
 後は二人の交際がどれくらい続くことになるのか、それが気になるところではあるが、多分、きっと長く続く。そうだといいな、と山根は思った。二人の縁結びの役割りを果たした仲人にでもなったような、そんな気持ちからである。
 でも、そのことは二人には内緒だ。言わないままの方がいい。
 そしてもう一つ、二人には内緒にしておかなければならないことがある。
「俺の好きな女ってのが、家で飼っている猫のミィのことだって知ったら、きっと高木のやつ怒るだろうなぁ。でも、相手が人間だなんて俺はひと言も言ってないから、嘘をついたわけじゃないけどね」
 人知れず小さくそう呟くと、山根はにこにこしながら帰宅の途についたのだった。




      おわり



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