努力の行方





 あたしはバカだ。
 いや、決して勉強ができないわけじゃない。どちらかと言えば成績はいい方だし、友達や先生にも品行方正で通っている。
 そんなあたしがどうしてバカなのか。それはここ数ヶ月、必ず月に一度遅刻するからだ。その遅刻する理由が、あたしに自分がバカであることを痛感させる。
 そして今日は、あたしがまた遅刻しなければならない月に一度の日、第三火曜日。
 いつものように朝早く起きたあたしは着替えをすませ、二階にある自分の部屋からダイニングへと向かった。
「おはよー、ママ」
「おはよう、沙希ちゃん。今日はあいにくの雨よ」
 いつも明るく、最近ちょっぴり太ってきたママが顔をしかめて言った。窓の外に目を向けると確かに雨。しかも、かなりザーザー降っている。
 あーあ、せっかくの第三火曜日だっていうのに、嫌な感じ。
「雨だとバスがよく遅れたりするから、いつもより早めに家を出た方がいいんじゃなあい?」
 ママはそう言いながら、てきぱきとあたしの朝食をテーブルに並べていく。
「うん、まあ……そうね」
 あたしは曖昧に返事をしながら席についた。そして、用意された納豆をお箸でぐにぐにかき回す。
 バス、遅れてくれて結構! どっちにしろ、あたしは今日、遅刻するんだから。
 あたしはいつもよりのんびりご飯を食べると、鏡の前で念入りに髪をセットして、いつもはつけない薄い色のついたリップクリームを唇に塗った。
 そして、お気に入りの赤い傘をさして家を出た。
 いつものようにバスに乗り、六つ先の停留所に着いた時、あたしはバスを降りた。あたしの通う高校に一番近い停留所は、本当は七つ目の停留所。でもあたしは、遅刻するためにわざわざ一つ手前で降りたってわけ。そこからゆっくり歩いて学校に向かう。
 学校が近づいてくると、あたしの胸はドキドキいいだした。
 雨が傘にあたる音とドキドキいう心臓の音が混ざり合って、あたしの緊張は更に高まっていく。もう遅刻の時間だから、あたしの周りを歩いている生徒の姿は一つもない。
 傘の陰からチラリとのぞくと、校門の前に一人の男子生徒が立っているのが見える。あたしはドキドキしながらその男子生徒のそばに歩み寄った。
「遅刻、生徒手帳出して」
 その男子生徒、一学年上の神谷先輩はぶっきら棒に言った。
「すみません」
 あたしは小さな声で謝ると、おずおずと生徒手帳を差し出した。
 神谷先輩はあたしから生徒手帳を受け取ると、手に持ったノートにあたしのクラスと名前を記入しながら言った。
「俺に謝っても仕方がないんだけどね。遅刻すると内申書に響くから、自分が損することになるよ」
 昼休みに生活指導室に来るように、そう言って先輩はあたしに生徒手帳を返してくれた。あたしはぺこりと頭を下げると、自分の教室へと走った。走るあたしの顔は、多分みっともないくらいにニヤニヤしていたと思う。
 そう、だって先輩と話しができたんだもん。こんな嬉しいことってない。
 神谷先輩は風紀委員だ。だから毎月一度、第三火曜日の朝に遅刻者を取り締まるために校門の前に立つ。その先輩と少しでも話しをしたいがために、あたしは遅刻する。
 新年度になってからの数ヶ月、これがあたしの毎月の習慣だ。
「やっぱり遅刻してきたわね」
 教室に入ると、友達の裕美が笑いを含んだ顔してやってきた。
「よくやるわねー、先輩と話したいからって毎月遅刻するなんて」
「なかなか健気でしょう?」
 あたしが胸を張ってそう言うと、裕美は少し考えてから言った。
「でも、どうだろう。どう考えても先輩にとって沙希は遅刻の常習犯で、いい印象持ってもらえてるとは思えないんだけど」
「それはそうだけど………でも、他に先輩と接点持つ方法なんてないんだもの」
「思い切って告白したら?」
「そっ、そんなことできないよ!」
 両手を上げて首をぶんぶん振りながらあたしは言う。
「絶対にフラれるに決まってるもん」
「どうして?」
「だって先輩とあたし、知り合いでもなんでもないのよ? よく知らない子、しかも今や遅刻の常習犯と思われてるあたしが先輩に告白して、それで先輩がオッケーしてくれると思う?」
 なんだか自分で言ってて落ち込んでしまう。
「そうね、ありえないわね」
 しかも裕美がアッサリと頷いたもんだから、ますます落ち込んでしまった。
 そうこれが、あたしが自分をバカだと思う理由だ。
 あたしは先輩が好きで、だから少しでも先輩と話しがしたくて毎月一度遅刻する。でもそれはきっと、先輩に「だらしない女」と思われる結果を生んでいるだけ。それが分かっているのに、あたしにはどうすることもできない。
 遅刻しないと先輩と話せない。だから遅刻する。そして嫌われる。毎月これを繰り返すだけ。
 あー、バカだ。やっぱりあたしはバカだ。
 あたしの教室の窓から、体育の授業のためにグラウンドに出ている先輩の姿を、時々だけど見ることができる。それはあたしの至福の時だ。先輩の姿を目で追いながら、あたしは一心に念を送る。
 先輩好き、先輩好き、先輩好き……………。
 もちろん、あたしはエスパーでもなんでもないわけだから、その念が先輩に届くことはない。それでもあたしは念を送る。
 この想いが少しでも先輩に届くように願いながら。
 なにが理由で先輩を好きになったのか、それはあたしにも分からない。あたしが初めて先輩の存在を知ったのは、昼休みの図書室だった。委員会の集まりで裕美が教室を出ていった後、退屈になったあたしは暇つぶしに図書室に行った。
 普段のあたしは、めったに図書室に行ったりしない。本を読む趣味もないし、あのシーンとした緊張感のある雰囲気が苦手だから。
 そこであたしは先輩に会った。いや、正確に言うと、見た、かな?
 その日の図書館には、多分珍しいことだと思うけど、先輩とあたしの他に生徒はいなかった。特に読みたい本があるわけでもなく、あたしがぶらぶらと本を見ながら室内を歩いていると、本棚と本棚の間でいきなり先輩が転んだ。すっ転んだ。見事な転びっぷりだった。
 あっ、と声を上げそうになった口を押さえて、あたしは慌てて本棚の影に隠れた。
 こっそりと先輩の様子を盗み見ると、先輩は誰かに見られていないかキョロキョロと周囲を見回し、痛そうに顔をしかめて額を撫でていた。そして立ち上がると、まるでなにもなかったかのように平然とした顔で、また本を物色し始めた。でも、そんな先輩の額は真っ赤になっていて、それがあたしにはすごくおかしくてクスクス笑った。
 それがあたしと先輩の出会いのシーンだ。衝撃的な出会いだった。まあ、あたしにとっては、ってだけだけど。
「あの先輩のどこがいいの? あたしには分かんないなぁ」
 前に裕美からそう聞かれたことがある。
「うーん、どこって聞かれてもなぁ」
「なによ、どこが好きかも分からないの? 沙希、本当にあの人のこと好きなの? なんか信じられなーい」
 失礼しちゃう。あたしは本当に先輩が好きだ。
 でも、どこが好きかと聞かれると、それは本当に困ってしまう。
 先輩は特にかっこいいわけでもなく、頭がいいわけでもなく、校内でも特に目立つことのない普通の人だ。  ただ、あの時図書館で先輩のダイナミックな転倒を見て以来、いつの間にかあたしの目はいつも先輩の姿を探すようになった。
 そしていつの間にか、先輩を好きになっている自分に気付いた。
 もしも殺人犯かなにかに
「先輩のどこが好きか言え! でないと殺す」
なんて言われたら、あたしはこう答えることしかできない。
「全部です」
 でも、好きになるって、そういうことなんじゃないだろうか。

 そして昼休み。
 いつものように裕美やその他数人の友達とお弁当を食べると、あたしは急いで生活指導室へと向かった。
 朝遅刻すると、校門の前で少し先輩と話しができる。でも、それだけじゃない。昼休みにもまた先輩に会えるのだ。まあ、お説教されるだけだけど。
 それでもあたしは嬉しくて、ルンルン気分で生活指導室のドアを開けた。そして、ゴックンと息を飲んだ。  誰もいない。
 いや、正確に言うと神谷先輩はいる。でも、生活指導室の中にはあたし以外の遅刻者が一人もいない。これってどういうこと? もしかして、今日の遅刻者はあたしだけ?
 今まで遅刻し続けた数ヶ月間、少ない時であたし以外に四人、多い時では十人以上は遅刻者がいた。
 それが、今日はあたしだけ? あたし一人?
 冷や汗をかきながらあたしは先輩の前に立った。この二十畳ほどの狭い部屋の中で、あたしと先輩の二人きり。
「二年C組、上田沙希さん?」
「は、はい」
 確認するようにあたしの名前を呼んだ先輩に、あたしは赤くなりながら返事をした。
 気まずい、あまりにも気まずい。
「よく見かけるけど、きみって遅刻の常習犯なの?」
「い、いえ、常習犯ってわけでは……ないと思います」
 しどろもどろにあたしは答えた。だって、あたしが遅刻するのは月に一度だけ。これは常習犯にはならないと思う。
 それよりも、先輩はあたしの顔を覚えてくれてるみたい。わあーい、それってすごいことじゃない?
 なんて浮かれている場合じゃない。先輩の顔はどうみても怒っている。
「あのねぇ、上田さん」
 溜息を一つついて先輩は言った。
「今朝も言ったけど、遅刻すると内申書に響く。それってすごくもったいないと思うよ。大学入試の推薦もらう時なんかに、すごく不利になる。きみは大学に行くつもりあるの?」
「はい、一応………」
「だったら遅刻なんかしないようにしなきゃ」
 でも、それはすべて先輩と少しでも話しがしたいからなんです。
「それにね、上田さん。きみはどうして学校に規則があるか分かる?」
 は、とあたしはうつむいていた顔を上げた。
 呆けたようなあたしの顔を見て、それを「分からない」と言っていると受け取ったのか、先輩は話し出した。
「学校の規則っていうのはね、守るためにあるんだよ」
「はぁ」
 なんと言っていいのか分からずに、あたしは困った顔をした。先輩は話しを続ける。
「つまりね、規則を守る練習をするために規則はあるんだ。嫌なこともガマンしてやる、その忍耐力をつけるためにあるんだよ。いつかきみも大人になって社会人になる。大人になると今よりももっと嫌なことがたくさんある。仕事だってそうだ。好きなことを仕事に持てる人間なんて、ほんの一握りだよ。でも、ガマンして仕事しなきゃならない。そのガマンの訓練として学校には規則があるんだ。勉強も同じだよ」
 淡々と語る先輩。あたしの目は恥ずかしげもなく先輩に釘付けになってしまった。
「数学とか物理とか、自分にとって無駄だと思える教科もたくさんあるだろ? でもね、嫌だからって勉強しないと赤点取って下手すれば留年だ。同じことを会社でやったら、間違いなくクビだよ。つまり、ダメ社会人ってことだ。そうならないように、今のうちから訓練しておくんだ」
 あたしは感動した。先輩はなんて物事を深く考える人なんだろう。なんて立派な人なんだろう。先輩みたいな物の考え方、あたしは今までしたことがなかった。鱗から目が………あれ? いや、違う。目から鱗が落ちるとは、まさにこのこと。
 あたしはうっとりと先輩の話しに聞き惚れた。鏡を見なくても分かる。今のあたし、絶対に目がハートになってる。先輩って……先輩ってカッコイイ!!
「それに、世の中に無駄なことなんてないからね。無駄に思える物理や数学だって、人にとっては学校に習ったことによって、初めて自分がそれに興味があることに気付く人もいるだろうし。たくさんの色々なことを経験した人ほど、そのたくさんの中から一番自分にあった物を選ぶことができる」
 はい、その通りですね、先輩!
「だからどんなに面倒臭いと思っても、若い内になるべく多くのことを経験した方がいいんだ。結局は全部自分のためになるんだから」
 おっしゃる通りです、先輩!
「遅刻はもうやめたほうがいい。あまり続けていると、きっとクセになって後で自分が……」
「神谷先輩、好きです!!」
 気がつくと、あたしはそう叫んでいた。
 その時の先輩の顔。ええ、もう、皆さまにおみせできないのが残念です。
 目を点にし、体を硬直させ、心臓以外の全身体的機能を停止してしまったかのように、その場で動かなくなってしまった。
 そして、あたしはと言うと。
 先輩の固まってしまった姿を見て、初めてそこで自分がなにを口走ってしまったかに気付いた。そして真っ赤になった。
 そんな真っ赤になったあたしを見て、先輩も赤くなる。
「あ、あの……え? な、なに?」
 動揺して口をぱくぱくさせる先輩。
 あたしはもう、恥ずかしいやらなにやらで今すぐこの部屋から逃げ出したくなったけど、グッと自分自身に渇を入れた。ここまできたら、もう引き下がるわけにはいかない。
「先輩、あたしずっとずーっと、先輩のことが好きでした」
 もう一度、今度はゆっくりと言った。
「ほ、本当のことなの、それ?」
 先輩の言葉にあたしはコクリと頷いた。
「だから遅刻していたんです。毎月第三火曜日に。先輩と少しでも話しがしたくて」
 呆然としていた先輩の顔が、今度は呆れたような顔になった。
「………きみ、バカか?」
「バカです! 自覚してます! でも先輩が好きです!」
「……………」
「……………」
 ありえないほど気まずい沈黙。それに、先輩の困ったような顔。もうダメ、あたしこういうの苦手だ、耐えられない!
 だから言った。告白した時と同じように唐突に。
「来月もまた遅刻します。だから、その時に返事ください、待ってますっ!!」
 そしてあたしは逃げるように生活指導室を飛び出したのだ。
 走りながらあたしは思った。なんて大胆なことをしてしまったんだろう。どきどき波打つ心臓が口から飛び出しそうだ。
 全速力で教室に戻ったあたしに、裕美が不思議そうに言った。
「どうしたの、沙希。やけに赤い顔して。なにかあった?」
「そ、それが………」
 言いかけた口を閉じて、あたしは首を振った。
「ううん、なんでもない。走ってきたらからちょっと疲れただけ」
 これは秘密だ。先輩とあたしだけの秘密。
 親友の裕美に内緒にしておくのは悪い気がするけど、でも、フラれた場合のことを考えるとちょっと恥ずかしい。だから黙っておくことにした。
 もし上手くいったら………いや、上手くいかなくてもいい。先輩からなんかしらの返事がもらえたら、その時裕美には報告しよう。
 一ヶ月後のことを考えると、今からもうドキドキする。
 無視されるのだけはイヤだ。ダメでもいいから返事だけは欲しい。もしも無視なんてされたら、あたしは悲しくて切なくて、きっと再起不能になってしまう。
 ああ神様、ああ神様! いつもこんな時にだけお祈りしてごめんなさい。でもどうか、どうかお願いします。神谷先輩が返事をくれますように………。そして、できればイイ返事がもらえますように………。
 普段は信じてもいない神様に向かって、あたしは必死に祈り続けた。

***************

 あっと言う間に一ヶ月が過ぎた。今日は運命の第三火曜日だ。
 ほとんど眠れずに夜を過ごしたあたしは朝寝坊してしまい、今日はちゃんと七つ目の停留所でバスを降りた。いつもよりかなり遅く家を出たから、これでも充分に遅刻する。
 早く先輩の返事が聞きたい。でも、聞くのは怖い。
 そう思っているあたしの足は亀のようにノロノロだ。でも、どんなにゆっくり歩いていても、それでも少しずつ学校は近づいてくる。
 やがて校門が見えてきた。と同時に、そこに立つ先輩の姿もあたしの目に入ってきた。
 不安と緊張を押し隠して、あたしは顔を上げて歩いた。そして、先輩の前に立つ。
「遅刻、生徒手帳出して」
「す、すみません」
 今までと変わらない先輩とあたしのセリフ。
 あたしは言われた通りに生徒手帳を差し出す。先輩は生徒手帳を確認し、手にしたノートにあたしのクラスと名前を記入する。
 期待を込めた目であたしは先輩を見つめた。
 なにか言って。お願い。お願い、先輩――――。
 でも、あたしのその願いははかなく空に消えた。
 生徒手帳を返してくれた先輩は、とくに表情を変えることなくこう言った。
「昼休み、食事を終えたら生活指導室に来るように」
 これだけ。
 たったこれだけ。
 あたしは奥歯を噛みしめると、ぺこりと頭を下げて先輩の横を通り過ぎた。その拍子に涙がぼろりとこぼれた。だから、泣いていることを先輩に知られたくなくて、あたしは教室へと走った。
 なんだか目の前が真っ白に見える。それが涙のせいだと気付かないほど、あたしの頭は悲しみでいっぱいになっていた。
 誰もいない下駄箱で、あたしは体を震わせて泣いた。胸が痛い。心が苦しい。あまりにも悲しくて切なくて、そんな思いを振り払いたくて、あたしは頭を振った。何度も何度も振った。それでも悲しみは飛んでいかない。どうしたらいいのか分からない。
「誰か助けて」
 泣きながらあたしは呟いた。でも、助けてくれる人なんて誰もいない。
 失恋がこんなに辛いだなんて、あたしは知らなかった。知らなかったから、いつも思ってた。失恋して泣いてる友達のことを、なによ、悲劇のヒロインぶったりしてさ、なんて、いつも冷めた目で見ながら思ってた。
「大丈夫よ、もっといい人が見つかるって」
なんてことを、正直ウザいなぁなんて思いながら、同情するフリして言ったりしてた。
 でも。
 こんなに辛いことだったんだ………。
 今なら分かる。自分が失恋してみて、同じ経験をしてみて初めて分かった。
 失恋して泣いていた子たちは、別に同情して欲しかったんじゃない。ただ、どうしようもなく泣いていたんだ。悲しい気持ちを自分の中から追っ払うことができず、ただ苦しくて、悲しくて、辛くて、切なくて、どうすることもできずに泣いていたんだ。
 本当は慰めて欲しくなんて、なかったかもしれない。慰めてもらうと、慰めてくれる子たちに気を使って、元気なフリをしなければならないから。思いっきり泣くことができないから。
 あたしも同じだ。今は誰にも会いたくない。
 だって、誰にもこの悲しみは失くしてもらえないから。自分自身でしか処理できないんだから。
 あたしはしばらくの間、一人下駄箱で泣き続けた。
 そして、散々泣いた後、トイレに行って顔を洗い、鏡の前で笑顔を作る練習をしてから教室へと向かった。
 思いっきり泣いた後、意外と冷静になれることを初めて知った。


 もう気分は最悪だ。
「ふふっ、やっぱり今日も遅刻して来たわね?」
 先月と同じ。含み笑いであたしに声をかけてきた裕美に、あたしは笑顔で答える。
「当然でしょ!」
 今までの自分がどうだったのかを思い出す。そして演技する。
「ほんっとにガンバルわね、沙希は。それで、どう? 今日もちゃんと先輩に会えた?」
「もっちろん会えたわよ」
 片目を閉じてピースサインなんかしたりする。
 失恋のことは、まだ裕美には言えない。自分の気持ちがもっと落ち着くまで、口に出すことはできない。辛すぎてまだ話せない。
 だから演技する。
 こういう時、こういう場合、いつもの自分だったらどういう態度を取るか、それを思い出しながら演技する。そうこうしている内に、自分の中がカラッポになる。演技を続けている内に、演技している方の自分が本当の自分になってくる。明るい自分を演出している内に、自分自身が明るくなる。悲しみが薄れていく。
 とても不思議だった。
 友達がいると慰められるってよく聞くけど、それはこういうことだったんだ、としみじみ思う。
 しかし、そんな感じであたしが少しずつ元気を回復してきているのに、それと同時にどんどん昼休みが近づいてくる。それは今のあたしにとって、とてつもない恐怖の時間だった。
 だって、また先輩に会わなきゃならない。
 そう、それであたしの気分は最悪なのだ。
「ほらぁ、沙希ったら早く食べちゃいなさいよ。また先輩に会えるんでしょ? 少しでも早く行った方が、それだけ長く一緒にいられるじゃない」
 意識的にのんびりお弁当を食べていたあたしを、無邪気な笑顔の裕美が急かす。そ、そりゃ、なにも言っていないあたしが悪いんだけど、こんなのってあんまりじゃない?
「う、うん、まあね」
 さすがのあたしも引きつった笑いしかできない。
 結局あたしは、裕美や他の友達に背中を押され、少し早めに教室を出るハメになってしまった。あーあ、と溜息をつかずにはいられない。
 廊下で無邪気に遊ぶ男子生徒の姿が、かえってあたしの心を冷えさせる。そんなわけないのに、あの人たちには悩みがなさそうで羨ましい、なんてことを思わせる。
 そして、生活指導室の前に立ったあたしは、しばらくの間その場で動けずにいた。ごくりと唾を飲み込むと、思い切ってドアを開けた。
 神谷先輩はもう来ていた。
 目が合った。
 他には誰もいない。
 逃げたい、と、そう思ったけど、そんなことできるわけがない。
 ドアを閉めたあたしは、一心に他の遅刻者が早く来てくれるよう祈り続けることしかできない。
「誰も来ないよ」
 その時、あたしの考えを見透かしたように先輩が言った。
「今日の遅刻者は、きみ一人だからね」
 ああ、神様ってなんて残酷なの?!
 逃げたい、あたしはまた思った。
「すみませんでした。もう遅刻は二度としません。だから………だから、もう教室に帰っていいですか?」
 これ以上、ここにはいたくない。先輩の顔を見ているのが辛い。
 でも、先輩は無慈悲に言う。
「だめ」
 あたしは大きく溜息をついた。
 そんなあたしをちらりと見て、先輩が言った。
「過去数ヶ月の記録を調べさせてもらったよ。きみの言う通り、遅刻しているのは第三火曜日だけだった。つまり、俺が校門の前に立つ日だけだ」
 もう、その話は蒸し返して欲しくない。
「驚いたよ、きみが言っていたことは本当だったんだね」
 そう言った先輩は、あたしがビックリするくらいの笑顔を見せた。
「先月話しを聞いた時は、からかわれてるのかと思ったよ。だって、俺、女の子にモテるタイプでもないし……こんなこと、初めてだったから」
 そして、赤くなった顔の先輩を見て、あたしの胸がドキッと小さく鳴った。
「本当は今日、他にも遅刻者はたくさんいたんだけど、全部見逃した」
「え、どうしてですか?! そんなことしたら……」
「うん、先生に見つかるとまずい。でも、きみと二人だけで話しがしたかったから。校門の前なんかで簡単にできる話じゃないし、そんなのきみに失礼だと思ったから」
「せ、先輩」
 あたしの胸は否応なしに期待で膨らんでいく。あたしのことを思いやってくれた先輩の気持ち。それが聞けただけで、もうさっきまでの悲しみにくれた重い心が、嘘のように軽くなった。
 そして、先輩の優しさが、またあたしに勇気をくれた。
「先輩、あたし先輩のことが好きです。ずっと好きでした。あたしと、その、付き合ってもらえませんか?」
 二度目の告白。声を振り絞ってそう言うと、途端に先輩は不機嫌になった。
「またか」
 大きな溜息をつくと、あたしをにらみながら言った。
「もうカンベンしてくれよ」
 ドーンとあたしの心が、また暗闇に落ち込んでいく。茫然自失なあたしに先輩は言った。
「今度こそ、俺が先に言おうと思ってたのに」
「――――――え?」
「本当は先月だって、遅刻者はいっぱいいたんだ。告白しようと思って二人きりになれる場所をわざわざ確保したのに、逆にきみに告白された。あんまりタイミングが良すぎるし、俺のために遅刻してたなんて、そんな嘘っぽいこと言われたから、がからかわれているんじゃないかと思った」
「そ、それじゃ先輩はあたしのこと………?」
 口をへの字にした先輩が、ゆっくりうなずいた。
「好きです、俺と付き合ってください」
 顔を喜びに輝かせたあたしが、一も二もなくそれを承諾したことは、言うまでもない。


 後になって先輩から聞いた。
 風紀委員として遅刻者を取り締まる先輩は、すぐにあたしの存在に気がついたらしい。女の子なのに、いつも遅刻してくる子。月に一度、自分が校門の前立つ時いつも見かけるわけだから、きっと毎日のように遅刻する常習犯に違いない。
 正直、呆れていたそうだ。
 それがその内、気になり始めた。今日もあの子また遅刻するのかな、なんて楽しみにするようになってしまった。そして気がつくと、あたしを好きになっていることに気付いた。
 恥ずかしそうに笑いながら先輩は言った。
 その話を心地よく聞きながら、あたしは思った。
 どんなくだらないと思えるような努力でも、やらないよりやった方がいいんだな、って。やって良かったと心から思う。
 そのお陰で、先輩に好きになってもらえたんだから。
 先輩の言った通りだ。世の中に無駄なことなんてなにもない。
 あたしは勉強はそれほど嫌いじゃなくて成績はいい方だけど、でも、趣味と言えるものを持っていない。それに、新しいことに挑戦するっていうのも苦手だ。
 でもこれからは、もっと色々なことに挑戦していこうと思う。
「きっと今まで知らなかった新しい世界が開けるし、新しい自分を発見するチャンスにもなるよ」
 あたしをうっとりさせる魅力的な笑顔で先輩は言う。
 本当にそうだと思う。そして、それをあたしに教えてくれた先輩を心から尊敬するし、そして、誰よりも大好きだ。
 ありがとう先輩、大好きです、先輩。
 これからもあたしに色々なことを教えて下さいね、そう先輩の耳元でささやくと、先輩は少しテレくさそうに笑った。
 世界が輝いて見え始めた。



     おわり



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